三菱銀行人質事件
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三菱銀行人質事件(みつびしぎんこうひとじちじけん)は、1979年(昭和54年)1月26日(金曜日)に三菱銀行北畠支店に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質にした銀行強盗および人質・猟奇殺人事件である。
三菱銀行人質事件 | |
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場所 |
日本・三菱銀行北畠支店 (現:三菱UFJ銀行北畠支店) |
日付 | 1979年(昭和54年)1月26日(金曜日) |
標的 | 民間人、銀行員、警察官 |
攻撃手段 | 銃撃 |
武器 | 散弾銃 |
死亡者 |
5名 (犯人、銀行員2名、警察官2名) |
犯人 | 梅川昭美 |
動機 | 借金の返済 |
対処 | SATの前身部隊が犯人を射殺 |
1979年(昭和54年)1月26日に、単独犯人の梅川昭美が大阪府大阪市住吉区万代二丁目の三菱銀行北畠支店に銀行強盗目的で侵入した。客と行員30人以上を人質として立てこもり、警察官2名、支店長と行員、計4名を射殺(国内での人質事件では初の人質に死者が出たケースとなった)した。
大阪府警察本部は投降するように交渉を続けたが、事件発生から42時間後の1月28日、府警本部警備部第2機動隊・零(ゼロ)中隊(現:SAT)が梅川を射殺した。日本国内で発生した人質事件で犯人射殺により解決した事件は1970年5月12日の瀬戸内シージャック事件、1977年10月15日の長崎バスジャック事件、本事件の計3件のみであり、以降、本事件の解決から40年以上が経過する2023年現在まで一例も存在しない。
本事件後、三菱銀行では2度の大型合併が行われたが[注釈 1]、事件のあった店舗は「三菱UFJ銀行北畠支店」として現存している。事件後に、この事件とは関係なく内部の全面改装が行われたが、建物自体は現在も当時のまま使用されている[1]。
事件の経過
編集1月26日
編集1979年1月26日午前10時頃、大阪市住吉区の自宅マンション「長居パーク」を出た梅川昭美は、筋向いの食料品店でコーヒー牛乳を飲み、隣の理髪店でパーマをかけたのちスナックで焼飯を注文。店主に「忙しいので待って」と言われると「あとで来るわ。港区の友達に映写機を返しに行く」と言って出た。友達に会うと言ったのはアリバイ工作のためだった。その後、近くの寿司屋でナマコを肴に日本酒一合を飲む[2]。
梅川は播磨町交差点を渡り、支店を左に見ながら1キロほど走り、レストラン「ボネール」の角を左折し、150メートルほど進んだ帝塚山の高級住宅街で車を停めた。コスモのトランクに積んでおいた変装用の衣服に着替え、梅川は前夜、この場所に移動させておいたダイハツ・シャルマンバンに乗り換えた。梅川は大きく迂回して平野柴谷線に入り、播磨町交差点に戻り、三菱銀行北畠支店に乗りつけ、西側駐車場前の路上に停車した。
事件発生
編集銀行の閉店時間である15時前ごろ、テラピンチ(当時、ゴルフをする際に被られていたハット・中央帽子製)を被り黒スーツに黒サングラス、白マスクをした梅川は5000万円を強奪する目的で銀行に押し侵入。ニッサン・ミロク社製の猟銃(上下2連式12番口径)を天井に向けて2発発砲した。
梅川は「早く出せ。出さんと殺すぞ」と現金をリュックサックに入れるように行員を脅したが、その際に非常電話で通報しようとした20歳男性行員を見つけ射殺(長時間意識はあったものの救出が間に合わず死亡)し、また流れ弾により男性行員と女性行員を負傷させた。観念した男性行員がキャビネット上の現金を集め、梅川はカウンター上の現金12万円をポケットに詰め込んだ。梅川は警察が到着する前に銀行から逃走する計画であったが、逃げ出した客が自転車で住吉警察署警邏課係長に通報し、事件は発覚した。この間に定期預金の入金手続きに訪れていた主婦(当時52歳)と来客係の女子行員(当時52歳)、男子行員(当時39歳)が脱出した。
通報から籠城まで
編集自転車で支店東側を通りかかった住吉警察署警ら係長・楠本正己警部補(当時52歳)が主婦から事件の一報を受けた。銀行に駆けつけた楠本警部補は犯人に銃を捨てるよう要求し天井に向けて威嚇発砲をしたが、梅川は楠本警部補の顔と胸を狙撃。楠本は「110番、110番…」と呟きながら絶命した(二階級特進で警視に)。その前後に店から脱出した行員が近隣の喫茶店に飛び込み110番通報を依頼、行内の別の行員も警察直通緊急通報ボタンを押して通報。直後にパトカーで駆けつけた阿倍野警察署の前畑和明巡査(29歳)と巡査長にも梅川は発砲し、前畑和明巡査を射殺した(二階級特進で警部補に)。巡査長は防弾チョッキを着ていたため無事だった(当時は予算の関係でパトカーのトランクには防弾チョッキが一着しか積まれていなかった)。
午後2時35分に大阪府警本部に銀行の異常事態が通知され、3分後には大阪府内の全署に緊急配備指令発令。住吉署は発生配備、付近6警察署(阿倍野、西成、住吉、大正、堺北、松原)は周辺配備をした。本部関係109台、511人。住吉警察署14台、143人。阿倍野警察署15台、131人。その他の署30台、345人。総計車両168台、人員1130人が現場包囲した。緊急配備から2分後には捜査員や機動隊などおよそ320名が銀行を包囲し、銀行付近500メートルの道路を閉鎖。すると梅川は行員にシャッターを下ろすよう命じ、銀行の出入口を閉鎖したが、その際現場に到着していた警察官がとっさに近くにあった看板や自転車等をシャッターの下に置いたため、シャッターは40cmの隙間を残して完全には下りなかった。
14時39分、阿倍野署警ら二係(西田辺派出所勤務)・東康正巡査部長(当時30歳)、能登原芳夫巡査(当時29歳)が交通指導取り締まり現場から自転車で支店に到着。東通用口から突入した。この時、永田巡査長が梅川がすぐ近くにいるのに気付き身を伏せた直後、梅川の発射した散弾が傍の壁に命中した。府警第二方面機動警ら隊第一中隊第二小隊隊長・寺田伸司警部補(当時37歳)も北通用口から突入、梅川は彼らにも発砲。寺田警部補は防弾チョッキを着けており、慌てて着用したため下にずれたところに弾が当たった。
14時45分、住吉署の斎藤寛署長、藤田英雄刑事課長、田中義勝警ら課長らが到着して非常階段で2階へ上がり、2階の行員から事情聴取を行った。
シャッターが閉じられた店内には客12人と行員31人の合計43人が梅川に人質に取られた。梅川はカウンター陰に伏せていた主婦(当時32歳)と長男(当時7歳)、次男(当時5歳)を見つけ、「ボク、立てや」と言い、3人を解放。「病人はおるか」との問いに来客の妊婦が「妊娠しています」と答えたため、妊婦の客4人もすぐに解放し、人質の人数は39人になった。また人質とは別に梅川に気付かれずに貸し金庫室などに隠れた客5人が店内に残された。店内の状況は凄惨で、梅川によって殺害された者の遺体が人質たちのそばに放置されていた。
店内の状況
編集銀行に籠城した梅川は、猟銃で威嚇しながら、人質たちに対して、行内の机や椅子で、非常用出口や階段を塞ぐバリケードを作らせる。また、射殺した警官が所持していた拳銃を女性行員に命じて奪わせた。バリケード完成後、全員を整列させて点呼させ、「金を用意しなかったのが悪い」と言って支店長を至近距離で射殺した。その後、梅川は、狙撃隊から自分の身を守るために、男性行員全員を上半身のみ裸、女性行員には片親の者と電話係を除く19人全員を全裸にさせ、『肉の盾』となるよう命令する。女性行員についてはただ脱がせただけではなく、じりじりと楽しむように服の脱ぎ方の順番までも指示していった。一方で「俺は遊び人やからオナゴの裸はようけ見てきとる。いまさら、ヌードの女が見とうて脱がせたんやないで」「お前らは俺の家来や、殿様の言うことはなんでもきかなあかん。それを証明するのに裸にしただけや。妙な気はあらへんよって、その辺の心配はせんでええ」と、性欲目的ではないと述べた。
梅川は支店長席に陣取り、人質の女子行員を机の上に座らせた。また銃口を1人の背中に突き付け「この銃は国産やが最高級や。すごい威力やで」と脅した。行員はトイレに行くことも許されず、カウンターの隅で済ませるしかなかった。その後、梅川は、片親の女性行員1人にのみ服を着ることを許している。
やがて、梅川は、こういう状況の中でも沈着冷静な最年長の男性行員に行員に金のありかや銀行の構造を訊くも返事が曖昧だったため「お前、生意気や」と怒り再び猟銃を発砲した。同行員はとっさに身体をずらし銃弾は急所をはずれたが、右肩に被弾し重傷を負った。同行員は態度だけが理由で撃たれたわけではなく、バリケードを作る際に梅川を怒らせまいと周りの銀行員たちを励まし指示しており、これを覚えていた梅川が後々抵抗されると厄介だと判断したことも狙われた理由とされている。梅川は別の男性行員に、ナイフでとどめをさして肝を抉り取るように命じるが、命令された行員は年長行員を守るために「もう死んでいる」と嘘をついた。
すると、梅川は、映画『ソドムの市』で死人の儀式を行うワンシーンの話を出した上で、「そんならそいつの耳を切り取ってこい。死んでるなら切れるだろ」とナイフを差し出して新たな命令を出す。命じられた行員は激しく抵抗したが、散弾銃で撃たれた者の遺体と猟銃で狙われている恐怖により応じた。死んだふりをしていた年長行員は命じられた行員が来ると「かまわん」と小声で言う。命じられた行員は小声で何度も「すまん、生きていてくれ…」と泣きながら耳元で呟き左耳を半分切除し、その耳を梅川に差し出した。しかし、梅川は、耳を口にすると、まずいと言って吐き出した。耳を切り取られた年長行員は、失神し多量の出血となったものの事件解決後の緊急治療により、一命を取りとめた。また、撃たれた右肩は治療で二の腕にかけて人工骨が入れられ、12粒ほどの銃弾が摘出不能のために体内に残ったままとなった[注釈 2]。年長行員は、激痛から夜明けに目覚め、左耳から流れる血液で、「○(妻の名前をイニシャルで書く)ツヨクイキロ コドモタチモツヨクイキロ」と遺言を書くも、後から流れ出る血液で遺言は消えてしまったと後にマスコミのインタビューに答えている。
その後梅川は、行員らに向けて威嚇発射をするなどいたぶって喜んでは、些細なことで癇癪を起こして「殺すぞ」と怒鳴りながら、真剣な顔をして銃口を突きつけたりした。
警察の対策
編集事件を受けて警察は銀行の2階の事務室に現地本部を構えた。当時の大阪府警本部長の吉田六郎は大久保清事件や山岳ベース事件などの事件発生時に群馬県警本部長として指揮を執り、本事件では自らが現地本部長を務めた。本部となった銀行2階の事務室から1階の梅川と電話で会話できるようホットラインを設置。外から当初パトカー113台、警官644名が銀行を包囲、銀行の半径1km内の交通をすべて遮断。本部は銀行の図面から、建物の北と東のシャッターと2階のドアなどに手動のドリルで小さな穴を7つ開け、外から中の様子を観察しようと試みた。午後6時半、ようやく1つの穴から行内が見渡せるようになったが、店内は警官や行員の遺体が転がり、そのそばで「肉の盾」が動いている異様な光景が見えた(このシャッターの穴から見えた梅川の写真は後に毎日新聞がスクープ報道する)。そのほかに現金自動支払機を動かしその隙間からも室内を偵察していた。また店内放送のスピーカーの回線を逆にして梅川と人質の会話を傍受することに成功した。
吉田はこの年の3月で退官する予定だったが、事件発生当時は2府2県本部長会議の出席のため京都へ出張しており、吉田が出張先から戻るまでの間は刑事部長だった新田が現場指揮を執った。吉田が出張先から大阪へ戻った時点でも梅川の素性は不明であったが、深夜岐阜県多治見市内で職務質問された男の自供から、梅川に頼まれてライトバンを盗んだこと、さらには銀行強盗の相棒を頼まれたが断ったこと、短気で感情を爆発させると何をするか分からない性格であることを多治見署で全て供述していたことで梅川の素性が判明した。また男の証言から、梅川が15歳で強盗殺人の罪を犯し少年院送致されていたことが判明する。
16時40分には梅川が110番通報して、「俺は犯人や。責任者と代われ」と要求した。通信指令室の井上正雄管理官(警視)が出ると「もう4人死んどる。警官が入ってきたら人質を殺すぞ」と脅した。
夜、梅川が要求した400グラムのサーロインステーキとワインが届けられる。人質にはカップラーメンが差し入れられたが、「栄養がない」と梅川が怒り、代わりにサンドイッチや胃薬が差し入れられた。このカップラーメンは後に梅川が食べている。午後9時半、ひどい風邪をひいていた女性行員が解放された。警察は梅川が要求したビーフステーキに睡眠薬を入れることを検討したが、捜査員がステーキソースに液体の睡眠薬を混ぜて味見したところ、舌先に刺激を感じたこと、何より梅川は用心深く、毒の混入を警戒し差し入れられた食事は全て人質に毒味をさせていたため、警察はこの方法を断念している。このように警察の対応が難航したため、テレビ中継を見ている全国の視聴者から警察に抗議の電話が殺到した。「警察は何もたついてるんや。催涙弾をぶち込んでいぶり出したらええのや」「カレーライスに睡眠薬を入れろ。カレーなら多少苦くても分からへん」という者や、「俺たちは暴走族だ。いつも警察と喧嘩ばかりしてるが犯人の残忍さに腹が立ってきた。防弾チョッキを貸してくれれば決死隊を集める。電気を消して突っ込めばうまくいく」という提案もあった。中には現場に突入しようとして機動隊に制止される酔っ払いもいた。
18時45分、捜査一課特殊捜査班員が手動ドリルで東側シャッターに穴を開ける作業を行った。金属を切削する音が漏れないようドリルの刃先に機械油を垂らしながら作業したため1つの穴を開けるのに20分以上かかった。午後11時までに北、東に計7つの穴を開けた。当初、レーザー光線の使用や濃硫酸でシャッターに穴を開けることも検討されたが、レーザーはトラック1台分の設備が必要で人間に照射した場合即死する可能性もあること、硫酸は垂れ落ちて溶解しなかったことから断念された。
23時30分頃、岐阜県多治見市の多治見駅前をうろついていた梅川の共犯の男(当時31歳)を多治見警察署駅前派出所所員2人が職務質問したところ、共犯は「大阪の銀行強盗に使われた車は自分が盗んだ」と供述、同署に連行された。
1月27日
編集日付は変わり、しばらく膠着状態が続いていたが午前2時頃、人質の客(76歳男性)がトイレに行かせてくれと申し出たところ梅川は年齢を聞き、「長生きせえよ」と声をかけて解放。同じ頃、捜査本部は銀行の3階の女子更衣室に作戦指揮室を開設して指揮に当たった。
数時間後、ラジオの差し入れが遅いことに腹を立てた梅川はロッカーに向けて発砲。流れ弾により客と庶務係の男性行員の2人が負傷し、庶務係はそのまま死んだふりをした。夜明け前にラジオが差し入れられ、そのラジオのニュースで自分の実名が誤った読み方で報道されていたことに激怒し、捜査本部に「俺の名前はテルミやない!アキヨシいうんや!報道のやつらにアキヨシだと言っておけ」「ラジオじゃ俺の名前はテルミになっとるがな。今度、名前を間違うたら人質を殺す」と言い放った。7時頃に警察官が覗き穴から調査した際、洗面器で顔を洗う梅川を見た捜査員は「こいつは大した男やで。どうしても生きたまま捕えて調べてみんとな。暴発性と慎重さを備えた太夫さん(「容疑者」を指す隠語)は、そうザラにはいてへん。貴重な参考資料になるで」と呟いた。
1月27日8時前に人質の客(41歳女性)が解放、9時30分には退職した大阪府警察本部捜査第一課の元刑事(57歳男性)が解放される。梅川に職業を聞かれた元刑事は身分を大工と偽っていたが、梅川はまったく疑わなかった。だがラジオが差し入れられてから、いつ梅川が自分の嘘に気づいて激怒して猟銃を発射するかと思うと生きた心地がしなかったと、マスコミのインタビューで述べている(事件が解決するまで、この事実は公表されなかった)。
10時半頃、梅川の母親と亡き父の弟が捜査本部に到着し説得を始めるも梅川が電話を切ったため失敗。手紙で母親が説得すると梅川はトイレの使用を認めるようになった(20秒ほどであり、梅川本人は床に紙を敷いて済ませていた)。用を足しにきた行員らに、警察は2階から励ましたり作戦計画を伝えていた。梅川は全員に服を着ることを許可して、昼までに2人の人質(いずれも女性客)を解放した。
その後差し入れられた朝刊を女性行員に朗読させ、銀行にあった500万円の現金を用意させると、梅川は借金の支払い先を書いたメモを男性行員に渡し、借金を返済してくるよう命じる。13時半、弁当の差し入れと引き換えに人質の客(24歳女性)を解放。午後3時前、梅川の借金返済のため男性行員がハイヤーで出発し(同日午後10時ごろ銀行に帰る)覆面パトカーが追跡。ハイヤーに乗った男性が人質の銀行員らしき情報が報道陣に流れるも、この借金返済についてマスコミが知ったのは事件解決後であった。また、この借金返済は法律上無効であり、借金返済の金は警察により回収され銀行に戻された。
午後3時半、リポビタンDの差し入れの後に人質の客(19歳女性)解放。しばらくして行員の申し出により3人の男性行員の負傷者が解放される。3人のうち2人は大阪府立病院に、残る1人は阪和記念病院に救急車で搬送。それから1時間後の午後5時前、最後の人質の客(25歳男性)を解放。梅川はこの人質が最もお気に入りだったらしく、この人質をKちゃんと愛称で呼ぶほどだった。午後6時、梅川に気づかれずに隠れていた客(合計5人)が、応接室、貸し金庫室、カウンターから捜査員の誘導により無事に脱出した。梅川は5名の存在も脱出も知らなかった。この際民間の錠前技術者が捜査本部の要請により技術協力し通用口等の鍵を解除、脱出支援を行った。
梅川は月見うどん、マカロニグラタン、ポタージュスープ、ローストビーフなどの夕食とボルドーワインのシャトー・マルゴー(当時、このワインの名を知る者は少なかった)を要求したが、銀行の向かいの酒屋にこのワインがなかったため、シャトー・ランゴア・バルトンとなる。午後7時、梅川がシャッターの穴に気づき、行員に穴を塞ぐように命じる。だが東のシャッターの穴だけは唯一、気づかれず事件終結までこの穴から梅川や行内の監視が続けられた。深夜、遺体の腐敗臭が強くなると、梅川と行員が協力し合って遺体を移動させる。1月28日の午前0時から、捜査本部は人質の苦痛はすでに限界と判断して突撃作戦を開始する。午前2時3分、救急隊員が行内に入り遺体を搬出。警察はこの時の混乱に乗じて梅川を狙撃逮捕する作戦を練ったが、梅川は人質の男子行員に自分の服を着せ、弾を抜いた猟銃を持たせ、自分は人質の服を着て拳銃を持ち人質に紛れ込む偽装工作をしていた。
1月28日
編集特殊部隊の突入
編集朝から機会を伺っていた警察は、人質の見張り役が前夜外出した行員と交代した直後、突入準備を開始した。トイレに来た行員から「今回はチャンスがあると思うので合図しますからよろしく」との伝言を受け、大阪府警察本部警備部第二機動隊・零中隊(SAT前身部隊)に待機させた。直後、梅川の至近距離にいて射撃の際に被弾する可能性のあった女性行員がお茶を入れるために離れた。のぞき穴から監視していた警察官からの報告を受け、吉田本部長は強行突入を指示した。零中隊員7名は、トレーニングウェアを着用して匍匐前進で侵入した[注釈 3]。
1月28日午前8時41分、警察の作戦を知らされていた唯一の男性行員が、新聞を読みながら居眠りをし猟銃から手が離れていた梅川を確認、警察に掌を上下させ合図した。その直後、7名の零中隊員が人質に「伏せろ!」と叫ぶとともにバリケード代わりのキャビネットの隙間からカウンター内に突入する。零中隊員は拳銃[注釈 4]で計8発を発射し、そのうち3発が梅川の頭と首、胸に命中、梅川は床に崩れ落ちた。担架で固定された瀕死の梅川を逆方向にして、前を救急隊員、後ろを刑事が担いで運び出すが、救急車にたどりつく寸前で後方の刑事が転倒した。梅川は天王寺区の大阪警察病院に搬送、意識不明の重体であったが脳波は確認され、2600㏄の輸血と銃弾の摘出手術を受けるも、右頸部の貫通銃創が致命傷となり同日午後5時43分に死亡が確認された。梅川は人質に自分の服を着せて、弾を抜いた猟銃を持たせるという偽装を行い、自身は人質の服を着て人質の中に紛れ込み「人質解放や!」と叫んで混乱に乗じ脱走する計画を練っていたが、これは警察に見抜かれていた。
この事件の解決のため、大阪府警察本部刑事部は、現地本部に100名を派遣。時間外勤務手当6000万円、給食費220万円、梅川の入院治療費90万円など1億800万円の費用が投入された。殉職した二名の警察官は二階級特進となり、警察以外に内閣総理大臣と関西財界から2000万円が贈られたほか、一般人3000人から3000万円が寄贈された。
詳細
編集1月27日(土曜日)
編集- 午前9時15分
梅川が知人男性(当時33歳)に「カメラと自動車は返す。もう一生会えんやろ」と電話。この後、行きつけの喫茶店主(当時40歳)とミナミのスナック経営者(当時34歳)らに「借金を返す。女を人質に取ると、警察には効果があるで」と電話。
- 午前9時30分
特捜本部がレストラン前のコスモを発見。撮影機1台と散弾120発を回収。梅川が「朝刊をすぐに持ってこい」と電話。
- 午前9時38分
朝刊を差し入れ。
- 午前9時50分
大阪府警のヘリコプターが梅川説得のため母親を乗せて香川県引田町(現:東かがわ市)の住民総合グラウンドを離陸。
- 午前10時
梅川は女子行員に着衣を許可。
- 午前10時20分
梅川が電話で「ビールくれ」。ヘリコプターが支店東南2キロの長居公園グラウンドに着陸。
- 午前10時29分
母親が現場に到着。坂本一課長の「説得してもらえるか」の言葉にうなずき、「撃たれて死んでも構いません。下へ降ります」と言う。
- 午前10時38分
行員に命じてビール要求の電話。以後7回、同じ要求を繰り返す。
- 午前10時58分
梅川、ビールが届かないことに怒り発砲。
- 午前11時4分
伊藤管理官、梅川に「ビールは入れた。おふくろさんが心配して駆けつけた」と電話。梅川は「おふくろが来たら一緒に死んでもらう」。
- 午前11時48分
主婦F(当時25歳)をビールの見返りに解放。
- 午後0時8分
共犯を多治見署から住吉署に護送、到着。
- 午後0時30分
梅川が「おふくろへの遺産として500万円、俺の借金500万円を返したいが、あとで警察に没収されては何にもならん。没収されんような合法的な方法を考えるんや」と男子行員3人に検討させる。「銀行が融資したという形にしてはどうか」との意見が出る。梅川は「人質を解放する謝礼として、三菱銀行が自由な意思で金を出すということにして、上司の決裁をもらってこい」と行員に指示。行員は2階に上がり、支店次長と相談。次長は了承。
- 午後0時35分
行員が1階に戻る。
- 午後1時13分
特捜本部が弁当33人分を差し入れ。
- 午後1時45分
差し入れの見返りに客の女性事務員(当時24歳)を解放。
- 午後1時47分
伊藤管理官、梅川に「おふくろさんに代わる」と電話。母親が「もしもし」と呼びかけるも梅川は返事をせず切る。
- 午後2時42分
梅川が愛人への100万円など金の配達先8ヵ所を業務係長・行員E(当時40歳)にメモを取らせ、浪速区のスナック経営者(当時34歳)に「銀行員をあんたのところへ行かせる。道案内を頼む」と電話。E行員に配達を命じ、一時解放。その際、「相手に金を受け取らせるかどうかは、お前のやり方ひとつや。それで人質の命がどうなるか決まる。失敗したら人質全員を殺す。金を渡したら、そのたびに電話してこい」と指示。
- 午後2時45分
E行員、支店を出発。
- 午後2時55分
女子行員に命じて「リポビタンDを3本入れろ。代わりに人質を出す」と電話。
- 午後2時58分
特捜本部が母親の書いた手紙を1階に届ける。
「お母さんが来ていますのよ。朝のてれびで知ったのですが、おまえどうしたことをしたのです。いま、でんわをかけてもらったけど、なんですぐきってしまったのか。いまそこにいるおかたを、わけをはなして、母上のたのみですから、ゆるしてあげてください。早くだしてください。母上のたのみです。母より」
梅川は女子行員に代読させるが、首をかしげるのを見て「おふくろはそんな字しか書けへんのや」と話す。さらに「俺にはおふくろしかおらんのや。俺は子供の頃からおふくろと一緒に苦労したんや。おふくろは大好きや。一緒に暮らしたいんや」「俺は子供の時、勤め先の人妻を刺し殺して刑務所に入ったことがある。俺が殺すのは男だけと思うな」「銀行強盗は18日か19日にやるつもりやった。都合が悪くなって延びた。猟銃で脅したら2,3分で金を出すと思っていた。乗ってきた車で逃げるつもりで、着ていたコートを脱いだら服装も変わるので、客に交じって逃げるつもりだった」などと話す。
- 午後3時12分
リポビタン差し入れの見返りに客の女性事務員(当時19歳)を解放。
- 午後3時15分
行員が負傷した行員B、C、Dら3人の解放を懇願。梅川が「あかん」と拒絶すると倒れていたC行員が「出してくれ」と起き上がる。梅川は「お前、まだ生きとったんか。殺したる」と猟銃を向けるが、行員が「出してやってください」と頼むと「3人を出したれ」と指示。
- 午後3時35分
負傷した3人が解放される。
- 午後4時
E行員から梅川に「予定通り配っている」と電話。
- 午後4時5分
E行員、支店次長に同様の電話。
- 午後4時24分
梅川が「月見うどん17、マカロニグラタン1、ポタージュスープ9、ローストビーフ1、シャトーマルゴーの69年ものワイン。シャトーがなければシャンテミリオンオブリオン。ワインはボネール(現場近くのレストラン)にある」と差し入れ要求の電話。
- 午後4時38分
人質を通じて電話。「人質は死んでいると思ったが、生きているので出した」。
- 午後4時54分
客の鉄工所所員(当時25歳)を解放。
- 午後5時40分
人質から「夕刊を届けて」の電話。夕刊を差し入れ。
- 午後6時5分
応接室にいた社長父子がドア越しに捜査員の誘導で廊下伝いに西側通用口から脱出。ローストビーフ、ワインなどの差し入れ。梅川は人質に「これが最後の晩餐会や」。
この頃、ようやくシャッターの「のぞき穴」に気付いた梅川(夕刊とラジオのニュースで知った)は特捜本部に電話。「お前ら、うまい手を考えたやないか。のぞきは罪になるんやで。ま、ええわ。そんなことしても無駄やと、じきに分かるさかい……」。梅川、男子行員に命じ、のぞき穴の前に長椅子や更衣室のロッカーを立てかけさせて塞ぐ。だが、キャッシュコーナーの穴には気付かず、梅川の監視が続けられる。
- 午後6時30分
E行員、梅川と特捜本部に電話。「配るのは10時頃までかかる」。
- 午後6時45分
カウンターの陰に隠れていた主婦Bが這いながら廊下伝いに脱出。
- 午後7時1分
梅川、女子行員に「寝てもいい。12時までに決着をつける」。
- 午後7時7分
- 午後7時18分
薬を差し入れ。
- 午後8時15分
うどんの差し入れを要求。
- 午後8時30分
うどんを差し入れ。
- 午後9時
E行員、伊藤管理官に「5件の借金を返した。残りは明日返す」と電話。伊藤管理官が梅川に電話で伝える。
- 午後9時37分
風邪をひいて咳のひどい女子行員(当時24歳)を解放。
- 午後9時39分
E行員、特捜本部に入る。警察はEに突入計画を伝え、「チャンスがあれば合図をくれ」と説得。
- 午後10時10分
E行員、支店1階に戻る。
- 午後11時5分
E行員の報告に満足した梅川、発熱していた女子行員(当時40歳)を「これが最後や」と解放。この時点で人質は男子行員7人、女子行員18人の計25人。
1月28日(日曜日)
編集- 午前0時4分
梅川、射殺された前畠巡査の拳銃を取ってくるよう男子行員に指示。C行員の耳を削がせたナイフを渡し「これで吊り紐を切れ」。試射を試みるも安全ゴムが引き金にはめられているのに気付かず「故障しとるわ」と机の上に投げ出し、実弾5発を抜き、うち4発を楠本警部補の拳銃に装填。前畠巡査の拳銃をキャンプ用具で解体。
- 午前0時25分
ズボンを脱がされていた営業係の男子行員(当時19歳)に梅川は自身がズボンの下に履いていた変装用の緑のジャージを渡して履かせる。
- 午前0時55分
梅川、2階に電話。「ブラシと鏡、乳液、カミソリ、石鹸、パッチ、タオルを差し入れろ」。まもなく特捜本部が差し入れ。
- 午前2時3分
行内に放置されたままの4人の遺体が腐臭を発したため、男子行員が「外に出してください」と懇願。梅川は了承。
- 午前2時33分
捜査員が階段下に担架を置き、男子行員が支店長とA行員の遺体を乗せ、2階に運び上げる。その後、支店西駐車場に待機していた救急車で住吉署3階講堂の安置室に搬送。
- 午前2時40分
楠本警部補、前畠巡査の遺体が住吉署仮安置室に搬送。
- 午前3時25分
女子行員に命じ、ビタミン剤と朝刊の差し入れを要求。
- 午前3時50分
女子行員2人が洗顔の際に外したコンタクトレンズを入れるケースが必要になり、女子行員1人が特捜本部のある3階女子更衣室に取りに行く。梅川は「戻らなければ1人殺す」と脅迫。特捜本部、女子行員から簡単な事情聴取。
- 午前4時
梅川、人質に「お前ら、顔色が悪い」と言い、ラジオ体操をさせる。男子行員には逆立ちを命じる。体操をせず居眠りしていた男子行員に「みんな逃げた。残っているのはお前だけや。殺してやる」とからかう。
- 午前4時42分
仮安置された4遺体、司法解剖のため阿倍野区の大阪市立大学法医学教室に搬送。
- 午前4時45分
梅川が人質に「メシを食おう。お前ら、何でも好きなもん注文せえ。豪華メニューで行こ」と言い、女子行員にメモを取らせる。
- 午前5時10分
梅川が電話。ステーキやメロンなどの注文を読み上げる。坂本課長が「ステーキなんかできるわけない。今、何時や思うてるんや」と拒否。これが気に入らないと言い、1発発砲。特捜本部の問い合わせに、「眠気覚ましの一発や」。
- 午前5時14分
梅川が「7時15分なのに、なんで朝刊を差し入れんのや」と電話。伊藤管理官が「いま5時すぎやないか」と答えると「俺の間違いや」と電話を切る。人間が不眠と緊張に耐えられるのは40時間程度とされる。それ以上は正常な判断力を失い、幻覚や幻聴が出てくる。すでに二昼夜にわたる籠城で、さすがの梅川も疲労を隠し切れなくなっていた。坂本課長はいよいよ「その時」が迫ってきたと感じた。
- 午前6時40分
梅川、女子行員に洗顔を許可。自身もポットの残り湯で髭を剃る。
- 午前6時57分
特捜本部、おにぎり20個、スパゲティ3皿、味噌汁12杯、トースト3枚、きつねうどん1杯、バター1本、あられ3袋、アイスクリーム25個、メロン5玉を差し入れ。人質はほとんど手をつけず。
- 午前7時10分
1階トイレに来る行員に捜査員が「突入する。その時は身を伏せろ」と指示。岩沢管理官をキャプテンとする4名の監視班は交代でキャッシュコーナーの「のぞき穴」から監視を続けていたが、梅川の行動を秒単位で記録していた。1秒~2秒というわずかな隙を突いて狙撃を成功させるためだった。
「梅川は差し入れの味噌汁を飲む時は、まず左手で椀を取り、口に近付けてから右手で箸を取る。この間、1.5秒」
「ラーメンやメロンは、一口入れては左右を眺める。隙なし」
「新聞は人質に読ませる。自分が読む時も銃を手放さず、ひっきりなしに顔を上げる。まったく隙なし」
「飲み物を飲む時はコップに口をつけながら目は左右に配っている。隙なし」
「電話は支店長席の下に置いてある。かける時は電話係にダイヤルを回させておいてから受話器を受け取る。せいぜい0.2秒の隙しかない。自分でかける時は机の陰に隠れてしまう」
「小便は銃を人質に突き付けながら床に敷いた新聞紙の上にやる。まったく隙なし」
坂本課長はこれらのデータから1秒以上の隙を見せるいくつかの行動パターンを選び、突入のチャンスを見出そうとした。松原警部率いる6名の突入隊は突入のリハーサルを何度も繰り返し、伊藤管理官が電話で梅川と交渉している最中もカウンターの外側から匍匐前進で接近し偵察を行なった。カウンターの内側から突入隊の姿はまったく見えない。この“死角”から梅川に近付き、人質の間を縫って梅川に銃弾を浴びせるしかない。息詰まるような偵察と訓練が休みなしに続けられた。
- 午前7時30分
前日、借金の返済後に突入作戦への協力を依頼されていたE行員がトイレへ。「今回はチャンスがあると思います。合図をしますのでよろしく」と捜査員に伝える。
- 午前7時53分
朝刊差し入れ。梅川は支店長席に座り、女子行員に読ませる。
- 午前8時
E行員、見張りに立つ。のぞき穴から見ていた捜査員が「チャンスあり」と特捜本部に報告。突入隊の松原警部以下6人が臨戦態勢に入る。余計な物音を消すため靴を脱ぎ、動きやすくするためヘルメットは被らず防弾チョッキのみ。
- 午前8時1分
梅川が人質全員に「後ろを向け」と指示。自分が着ていた背広、帽子、サングラスを男子行員に着けさせ、自身は行員の服を着て変装する。さらに行員に弾を抜いた猟銃を持たせ、自分は楠本警部補の拳銃を持ち、「この格好で“人質解放や”言うて表に出るんや。うまいこと逃げられるやろ」と言う。
- 午前8時15分
梅川の偽装工作に驚いたE行員は「このままでは身代わりの行員が撃たれる」と判断。西通用口から入ってきた突入隊に「今はダメだ」と合図を送る。
- 午前8時20分
梅川が男子行員と再び服を交換。元の服装に戻る。突入隊が再び接近開始。
- 午前8時25分
梅川、猟銃に再び実包を装填。
- 午前8時30分
梅川、メロンを食べた後、支店長席に座り、猟銃を片手に新聞を自分で読み始める。E行員、「チャンス」と手招き。
- 午前8時40分
梅川の傍で机の上に座らされていた女子行員が、茶を汲みに行くよう命じられ、梅川から離れる。突入隊と梅川の間に人質がいなくなる。
- 午前8時41分
のぞき穴から監視していた岩沢管理官が無線で松原警部に報告。松原は「突入」と隊員に伝え、5人(松原は撃たず)がカウンター越しに8発発射。梅川は頭と首に3発被弾。「殺すぞ」と呻きながら床に倒れる。捜査員が一斉に突入し、人質全員を確保。
- 午前8時49分
血まみれの梅川が担架で行内から運び出され、救急車で搬送される。
- 午前9時18分
梅川を乗せた救急車が天王寺区の大阪警察病院災害救急センターに到着。医師10人による緊急手術開始。左側頭部から縦に入った一弾を首から、右肩から縦に入った一弾を右胸から摘出。もう一弾は右首から左胸に貫通。
- 午前9時41分
人質が次々に救急車で大阪市内の7ヵ所の病院に搬送。
- 午前11時
住吉署講堂で吉田本部長らが記者会見。「事件は一応の解決をみたが、4人もの生命が奪われたことは痛恨のきわみだ。今回の事件は従来の人質事件と違い、犯人の目的が理解できなかったので苦労した。犯人とは電話で直接接触をつづけたが、反警察的な言動が終始変わらなかったこと、人質と服装を取り替え逃走する気配がみえたこと、それに睡眠不足でまどろんできたことで突入に踏み切った。解決にあたっては瞬時に行動を抑制し、生きたまま確保するのが理想だが、口で言うようにうまくいかない。拳銃の使用は正当だったと信じている」。
- 午前11時30分
梅川の母親が20分だけ面会を許され「もうあかんでしょう」。
- 午後5時43分
梅川の死亡確認。母親「私だけは最後まであの子の味方でいてやりたかった」。
1月29日(月曜日)
編集- 午前10時
大阪大学医学部の大阪府死因調査事務所で梅川の行政解剖。遺体の右胸には赤い牡丹の花が一輪、肩から左腕上部にかけて青黒い龍の入れ墨があった。
- 午後6時
1月31日(水曜日)
編集梅川の葬儀が、母親が暮らす香川県大川郡引田町の「かまぼこ製造所」2階の部屋で、人目を忍ぶようにひっそりと行われた。葬儀の参列者は母、叔父、読経を依頼された近くの寺院の住職の3人だけだった。
報道対応
編集本事件はNHK大阪[3][4][5]・毎日放送・朝日放送・関西テレビ・読売テレビの5局が解決まで中継放送している。突入→狙撃(この部分は映っていない)→血まみれの犯人搬送→人質解放の一部始終はVTRと16mmフィルムの両方で保管されているが、読売テレビのみがVTRで保管していなかったため同局に限りVTR映像がない。この一件で読売テレビのローカルワイドニュース番組が編成されることになったといわれている[注釈 5]。またサンテレビ[注釈 6]では本事件による番組差し替えは行われなかった。
事件が継続中だった1月27日、TBS系列局では夜9時からドラマ『Gメン'75』の放送を予定していたが、同日の「土曜日にネズミを殺せ!!」と題した作品は、銀行強盗をテーマとしていたため、急きょ同番組を放送中止とし、本事件の報道特別番組に差し替えた(同作品は2か月程度延期して同年3月24日に改めて放送された)。
1月28日の突入実行時、TBS系列局では『時事放談』を生放送していた。突入するや制作局のTBSテレビは放送を中断して毎日放送の映像に切り替えた。同番組の放送中断はこの日のみだった。中断に際しては出演者に事前承諾は得ており、番組進行役の細川隆元は番組冒頭に「いつ、画面が切り替わるか分からんが…」と発言していた。
梅川が人質をとって立てこもった後、大阪府警は北畠支店のシャッターに穴をあけて立てこもる梅川の写真を撮影していたが、この写真を解決後に毎日新聞が入手し、スクープ記事として全国に配信している。
犯人の来歴と人物像
編集梅川は1948年(昭和23年)3月1日、広島県大竹市で生まれた。父親が46歳、母親が42歳という高齢出産だった。父親は1901年(明治34年)、香川県大川郡引田町(現:東かがわ市)の農家に生まれ、弟に家督を継がせて上京。1941年(昭和16年)から新興人絹会社(現:三菱レイヨン)大竹工場に勤務していた。
両親は1944年(昭和19年)4月に職場結婚し、梅川は父親が務める三菱レイヨンの社宅で生まれた。梅川は子供の頃、母親から「照美(テルミ)」と呼ばれ「テルちゃん、テルちゃん」と呼ばれ育った。1954年(昭和29年)4月、梅川は小方町立小方小学校(現:大竹市立小方小学校)に入学。学校の成績は中くらいで目立つ子供ではなかったが、負けず嫌いで、近所の子供とよく喧嘩したという。
1956年(昭和31年)3月、父親が椎間板ヘルニアとリューマチの悪化で退職。父親はベテラン配管工だったが、女癖が悪く、頼母子講に熱中して闇金融に手を出し、周囲の評判は悪かった。1958年(昭和33年)6月、両親が離婚。梅川は父親に引き取られ、引田町に引っ越す。同年12月、梅川は父との生活を嫌い、大竹市で暮らす母の元へ舞い戻る。
母は独身寮で炊事婦をしていた。母子家庭で貧しかったが、母親は梅川の欲しがるものは何でも買い与え、成長してからの梅川は要求が受け入れられないと母親にも暴力を振るう粗暴な少年となった。1960年(昭和35年)4月、大竹市立小方中学校に入学。梅川は広島県立宮島工業高等学校を受験するが失敗。1963年(昭和38年)4月、広島工業大学附属工業高等学校(現:広島工業大学高等学校)に入学。在学したのは1学期だけで、同年10月、父の暮らす引田町に戻る。だが、すぐ大竹市に戻り、同年12月、強盗殺人事件を起こす。
梅川は15歳で大竹市強盗殺人事件を起こして逮捕されたが、少年法により1年半ほどで中等少年院送致だけで済み、少年法第60条による少年時代の殺人歴が銃刀法第5条の不許可条項に該当しなかったため住吉警察署より猟銃所持許可を出されていた。
梅川が三菱銀行北畠支店を狙った理由は、「最寄りの警察署から車で3分以上かかる」というものだった。梅川は「警察は事件発生の一報を受けてから警察署からパトカーで現場に急行する」と思い込んでいた。しかし、実際には警察官は昼夜を問わず管内をパトカーや自転車で巡回している。偶然、現場近くを通りかかった警官が現場から逃げてきた主婦の通報で駆け付けたため、予想外に早い警官の到着で「銃で脅して3分以内に大金を強奪し逃走する」という梅川の犯行計画は失敗に終わった。
梅川は高校を半年で中途退学していたが、毎月本に1万円を費やすほどの読書家であり、自宅から「ヒトラー」「ムッソリーニ」「スターリン」「チャーチル」「ドストエフスキー」「ニーチェ」などの伝記、大藪春彦などのハードボイルド小説、六法全書、経営学、医学などの書籍が600冊出てきた。中学・高校の成績は平均以下ながら、本好きのため国語だけは高かった。また、バーテンやツケ取り立て人として長い間不特定多数の客と接してきた経験から記憶力が高く、39名の人質の顔と姓名を全部覚えていた。
本事件を題材とした映画『TATTOO<刺青>あり』は、犯人と付き合っていた女性の中には、3代目山口組の田岡一雄を銃撃したことで知られる鳴海清が付き合っていた女性がいると示唆するストーリーである[6]。事件後に取材をした毎日新聞の記者もこの情報を得ていた[7]。
影響等
編集事件解決から2日後の1月30日、日本テレビ及び同時ネット局では夜9時からドラマ『大都会 PARTIII』第17話として予定されていた「警官ギャング」を、本事件の影響を受けて「誘拐」と差し替えて放送した。放送予定だった「警官ギャング」は2週遅れのかたちで2月13日に放映された。
本事件発生当時は俳優・田宮二郎の猟銃自殺[注釈 7]がまだ大きな話題となっていた時期であり、その最中に猟銃を使用した本事件が発生したことから世間に与えた衝撃はより大きなものとなった。ただし、田宮の猟銃自殺と本事件で梅川が猟銃を使用したこととの関連性は不明である。
2009年3月1日にフジテレビが報道特別番組『フジテレビ50ッスth!』で本事件を取り上げた際に梅川を狙撃した警察官として登場した人物が実際には突入狙撃班には入っていなかったことが判明し、3月13日に訂正放送が行われた。
脚注
編集注釈
編集- ^ 1996年に東京銀行との合併で東京三菱銀行へ商号変更。2006年に東京三菱銀行とUFJ銀行との合併で三菱東京UFJ銀行に商号変更した後、2018年に三菱UFJ銀行に商号変更。
- ^ 耳を切り取った行員の行為自体は傷害罪の構成要件に該当するものであるが、事件の状況と年長行員が被害届を出さなかったことを考慮し、立件はされなかった。
- ^ 『戦慄 昭和・平成裏面史の光芒』(著者麻生幾、新潮社、1999年)によれば、大阪府警察本部の零中隊は事件当時、専用のアサルトスーツ(突入服)を装備していたが、部隊の存在を秘匿するため突入服を着用せず、代わりにトレーニングウェアを着用したと記載されている。
- ^ 『戦慄 昭和・平成裏面史の光芒』(著者麻生幾、新潮社、1999年)によれば、この時、零中隊が使用した拳銃はスミス&ウエッソン (S&W) 社製の45口径拳銃だったと記載されている。事件当時の警察が使用していた拳銃で該当するものは、S&W社の「M1917」回転式拳銃である。この銃はニューナンブM60が配備される以前に、米軍から支給されたものである。
- ^ 本事件発生当時、読売テレビを除く在阪3局は、すでにローカルワイドニュースを平日に編成していた(毎日放送『MBSナウ』、朝日放送『たいむ6』、関西テレビ『アタック630』)。
- ^ 本来は兵庫県が放送対象地域であるが、スピルオーバーにより大阪府も視聴可能地域となっている(当時、テレビ大阪は未開局)。
- ^ 前年暮れの1978年12月28日に発生。
出典
編集- ^ 三菱UFJ銀行北畠支店
- ^ 現在では、飲酒運転は道路交通法等の法令で禁止されている。
- ^ ニュース速報・字幕スーパー - NHKクロニクル
- ^ ニュース速報・字幕スーパー - NHKクロニクル
- ^ ニュース速報・字幕スーパー - NHKクロニクル
- ^ 文藝春秋社『週刊文春』2009年4月2日号
- ^ 『文藝春秋』2010年10月号 p,306
関連書籍
編集- 大歳成行『危機管理 三菱銀行と猟銃人質事件の真実』グリーンアロー出版社、1979年10月15日。NDLJP:12012949。
- 毎日新聞社会部 編『破滅 梅川昭美の三十年』晩聲社、1979年8月10日。NDLJP:12013635。幻冬舎〈幻冬舎アウトロー文庫〉、1997年。ISBN 4-87728-484-2
- 読売新聞大阪社会部 編『ドキュメント新聞記者 三菱銀行事件の42時間』角川書店〈角川文庫〉、1984年1月25日。NDLJP:12278021。 改題『三菱銀行事件の42時間』新風舎〈新風舎文庫〉、2004年。ISBN 4-7974-9487-5
- 福田洋『三菱銀行人質強殺事件』社会思想社〈現代教養文庫〉、1996年。ISBN 4-390-11538-3 旧題『野獣の刺青(タットゥー)』光文社〈カッパ・ノベルス〉、1982年。ISBN 4-334-02472-6
- 麻生幾『封印されていた文書(ドシエ)―昭和・平成裏面史の光芒〈Part1〉』新潮社〈新潮文庫〉、2002年。ISBN 4-10-121932-X
- 新堂冬樹『銀行篭城』幻冬舎〈幻冬舎文庫〉、2007年。ISBN 978-4-344-41030-5
関連項目
編集- ストックホルム症候群 - 本事件においても、見張り役をさせられた行員が警官の侵入に対し「入るな」や「警官がいます」など、犯人に協力する姿勢を示すことがあった。このような行動は、期待可能性不存在を理由に、犯罪とはされない。
- 水谷勝海 - 元毎日放送アナウンサー。この事件解決までの2日間の中継リポートを担当した。
- 中村橋派出所警官殺害事件 - 1989年5月16日、銀行強盗を企てた男が派出所を襲撃して執務中の警察官2人を刺殺した強盗殺人事件。勤務中の警察官が一度に複数人殺害され殉職した事件は本事件以来だった。