加藤明友

日本の江戸時代前期の大名。陸奥会津藩2代藩主加藤明成庶長子で、石見吉永藩主(及び近江水口藩初代藩主(1万石→2万石)。従五位下内蔵助。嘉明流加藤氏3代当主

加藤 明友(かとう あきとも)は、石見吉永藩主、後に近江水口藩の初代藩主加藤嘉明の孫にあたる。水口藩加藤家3代。

 
加藤 明友
時代 江戸時代前期
生誕 元和7年(1621年)9月
死没 天和3年12月7日1684年1月23日
改名 義之助(幼名)→明友
別名 孫三郎(通称)、勿斎、芝山、教義斎(号)
戒名 皆足院
墓所 京都府京都市東山区五条坂の大谷墓地
官位 従五位下、内蔵助
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
石見吉永藩主→近江水口藩
氏族 加藤氏
父母 父:加藤明成
明英溝口政親明治
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生涯

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元和7年(1621年)9月(元和元年(1615年)生まれとも)、陸奥会津藩の第2代藩主・加藤明成の庶長子として大坂で生まれる。正室の子供でなかったため、父の命令で京都の山田氏に預けられて養育された。しかし正室との間に男児が恵まれなかったため、寛永11年(1634年)に江戸に戻されて世子に指名された。

寛永20年(1643年)5月、父の明成は改易され、会津領も没収された。その後、祖父・嘉明の功績を江戸幕府より評価されて明友に新たに1万石が与えられて、石見国吉永藩を6月に立藩した。

40万石を領する大藩からわずか1万石の小藩にまで成り下がったため、家臣団の縮小などを余儀なくされ、藩財政は一気に悪化した。このため、旧領会津から漆器製造者を招聘し、さらに桐・櫨・梅などの栽培を奨励したりするなど、殖産興業に尽力している。また、やはり足りない分を補うために年貢増徴政策なども行なっているが、このためにのちに加藤氏が水口藩に移封されて同地が公儀御料(天領)となった後も、公儀御料の中では特に税率の高い地域になったといわれている。藩の行政機構は小藩になったことから以前より未熟なものとなったとされているが、実情には不明な点も多い。父の明成は隠居して同藩領に住み、万治4年(1661年)1月21日に死去した。

天和2年(1682年)6月19日、祖父の功績、および明友が奏者番として立てた功績を評価され、1万石を加増の上で近江水口に移封された。

天和3年(1683年)12月7日に死去。享年63。跡を長男の明英が継いだ。

系譜

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父母

子女


脚注

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  1. ^ 溝口政良の養子


先代
加藤明成
加藤氏歴代当主
1643年 - 1683年
次代
加藤明英