内藤秀因
内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)12月19日~1987年(昭和62年)4月10日)は、庄内町名誉町民、元日本水彩画会理事長の画家。
略歴
編集1890年(明治23年)12月19日、山形県東田川郡余目町大和村古関(現庄内町古関)の寺院・玄通寺の二男として生まれる[1]。1913年(大正2年)山形県師範学校本科第一部卒業[1]。22歳で小学校の教師となるも25歳で上京し[1]、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学[1][2]。しかし、生活苦により中退[1]。東京で教師として務めるながら、画家の石井柏亭、石川寅治に師事する[1]。
1927年(昭和2年)美術および美術教育を研究するためにヨーロッパへ留学[1]。1928年(昭和3年)パリに渡り、画家のアマン・ジャンやオットン・フリエスに師事する[1]。留学中、世界的に権威のあるフランスの美術展サロン・ドートンヌに「L'hiver de Constantinople(コンスタンティノープルの冬)」を出品して入選し、注目を集める[1][2]。また、サロン・デ・チュイルリーにも推薦されて出品する[1]。その後、パリからイギリス、ベルギー、オランダ、ドイツに渡り、各地の美術研究を行った後に帰国する[1]。帰国後は日本水彩画会会員となり[1]、二科会、一水会、日展等の公募展に連続出品・連続入選を続ける[1][2]。
1963年(昭和38年)ロンドンでの日英交歓美術展に出品した「花下の道」はロイヤル・アカデミーの買い上げとなる[1]。1964年(昭和39年)再度ヨーロッパへ留学し[1]、1979年(昭和54年)ギリシャに渡る[1]。同年、日本水彩画会の理事長に就任[1][2]。同年12月には、兄の内藤智秀(ないとうちしゅう)とともに名誉町民の称号が贈られる[1][2]。1982年(昭和57年)余目町総合体育館(現庄内町総合体育館)のステージの緞帳原画を制作[1]。1985年(昭和60年)春の叙勲で木杯を受ける[1]。
1987年(昭和62年)4月10日、東京で死去[1]。享年96歳[1]。同年5月に遺族から日本水彩画会へ「内藤賞設定基金」が寄付され[1]、同年12月には約2000点の作品が余目町に寄贈される[1]。
作品は当初町立図書館で保存されていたが[1]、1992年(平成4年)資料保存の適正化を図るための「余目町絵画収蔵館」が完成した[1]。2005年(平成17年)余目町と立川町の合併によって庄内町が誕生したため、館名を「庄内町内藤秀因水彩画記念館」と改める[1]。