内藤信良
内藤 信良(ないとう のぶよし)は、江戸時代前期の大名。陸奥国棚倉藩の第2代藩主。官位は従五位下・豊前守。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永2年11月13日(1625年12月12日)[1] |
死没 | 元禄8年7月23日(1695年9月1日) |
改名 | 犬千代(幼名)、信良 |
戒名 | 宝岩院殿静挙供安大居士 |
墓所 | 新潟県村上市羽黒口の光徳寺 |
官位 | 淡路守、従五位下・摂津守、豊前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 陸奥棚倉藩主 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 | 父:内藤信照、母:阿部正次の娘 |
兄弟 | 信良、鳥居和俊室、主膳、信全、亀松 |
妻 |
正室:奥平忠昌の娘 継室:松平直基の養女 |
子 |
岡部正敦室、信貞、内藤信朋正室、女子、信輝 養子:弌信、諏訪頼秋室 |
生涯
編集寛永2年(1625年)内藤信照の長男として江戸にて誕生した。寛永10年(1633年)に徳川家光に拝謁し、寛永18年(1641年)に従五位下・摂津守となった。寛文5年(1665年)に襲封し、豊前守に改める。寛文11年9月、弟・信全に新田5000石を分与し、このため棚倉藩の所領は4万5000石となった。
寛文13年(1673年)、嫡男の信貞が早世した。後嗣として再従弟の弌信を迎え、延宝2年(1674年)に家督を譲った。
元禄8年(1695年)棚倉において死去、享年71。葬地は棚倉町の光徳寺、のち小石川無量院(廃寺)に改葬されたと伝えられる(『寛政譜』新訂13巻201頁)。現在は村上市の光徳寺に墓所がある。
『棚倉町史 1』は棚倉藩内藤家を「浄土宗の熱狂的な帰依者」と推測し、また念仏講が盛んに行なわれたとしている。また「井上氏」の「検断日記」にこの行事に関する記事があるという(353から354頁)。
系譜
編集子女は『寛政重修諸家譜』は養子・養女を含め3男3女を記している(新訂1巻201から202頁)。
父母
正室、継室
子女
養子、養女
脚注
編集出典および参考文献
編集- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年
- 『棚倉町史 1』福島県棚倉町、1982年
- 東京大学史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」(請求番号:4175-665)※東京大学史料編纂所データベースから検索・閲覧可能。
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