阿部正次
阿部 正次(あべ まさつぐ、旧字体:阿部 正次󠄁)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。武蔵国鳩ヶ谷藩、上総国大多喜藩、相模国小田原藩を経て、武蔵岩槻藩初代藩主。また、大坂城代を務めた。阿部家宗家初代。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄12年(1569年) |
死没 | 正保4年11月14日(1647年12月10日) |
改名 | 徳千代(幼名)→正次 |
戒名 | 英隆院殿前備州太守従四位運譽豪翁覚了大居士 |
墓所 |
埼玉県さいたま市岩槻区加倉の佛眼山浄國寺 東京都港区の三縁山広度院増上寺 |
官位 | 従四位下、備中守 |
幕府 | 江戸幕府大坂城代 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 武蔵鳩ヶ谷藩主→上総大多喜藩主→相模小田原藩主→武蔵岩槻藩主 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 | 父:阿部正勝、母:江原定次の娘 |
兄弟 | 女子、正次、忠吉、永井直勝正室、正与 |
妻 | 正室:佐原義成の娘 |
子 | 政澄、重次、盛次、内藤信照正室、成瀬之成正室、安藤重元室 |
略歴
編集永禄12年(1569年)、阿部正勝の長男として三河国にて誕生[1]。母は今川氏家臣・江原定次の娘。慶長5年(1600年)に家督を継ぎ、武蔵国鳩ヶ谷(埼玉県川口市)5000石を領する。同年の関ヶ原の戦いでは本戦に参加し、その功によって5000石を加増され1万石となり鳩ヶ谷藩を立藩した。慶長15年(1610年)に下野国鹿沼(栃木県鹿沼市)5000石を加増され、1万5000石となる。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、大番組衆を率いて従軍し諸将が進軍を留まる中、大坂城に一番に突入して奮戦、一番首も挙げて戦功第一と証せられた。その功により元和2年(1616年)に7000石を加増されて2万2000石となった。さらに元和3年(1617年)9月には8000石加増の3万石で上総国大多喜藩に移封される。その後も加増転封は続き、元和5年(1619年)には2万石加増の5万石で相模国小田原藩に移封され、元和9年(1623年)10月に5000石加増の5万5000石で武蔵国岩槻藩に移封される。寛永3年(1626年)には3万1000石を加増されて8万6000石となり、同時に大坂城代に任じられ、死去するまで22年間もの長期にわたって務めた。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱の際には、大坂城代として江戸・九州間の連絡・調整にあたった。寛永15年(1638年)4月22日、4万6000石を嫡男・重次に譲り、1万石を孫の正令(のち阿部忠秋の養子)に分与し、自身は3万石を領する。11月7日には重次は老中に任命されている。
登場作品
編集脚注
編集- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 49頁。