永井直勝

戦国時代から江戸時代前期の武将、大名

永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将旗本大名上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井宗家初代。

 
永井 直勝
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄6年(1563年
死没 寛永2年12月29日1626年1月27日
別名 伝八郎(通称
戒名 大雄院殿永井月丹大居士
墓所 茨城県古河市西町の永井寺
京都府宇治市興聖寺 (宇治市)
官位 従五位下、右近大夫
幕府 室町幕府江戸幕府
主君 松平信康徳川家康秀忠家光
上野小幡藩主→常陸笠間藩主→下総古河藩
氏族 長田氏永井氏
父母 父:長田重元、母:鈴木氏
正室:阿部正勝の娘
側室:由利姫(大河内秀綱の次女)
尚政直清直貞直重正直、娘(柴田康長正室)、娘(土屋利直正室)、娘(淳美友之室)
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生涯

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永禄6年(1563年)、三河国の武将・長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の愛知県碧南市音羽町)に生まれる[注釈 1](愛知県東浦町緒川の説もある[1])。

天正4年(1576年)、はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。文禄3年(1594年)、恒興の次男・池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、直勝の知行が5000石と知った輝政は、父を討ち取った功績の価値が5000石しかないのかと嘆息したという。

文禄5年(1596年)2月7日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている[2]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に2000石を加増され、7000石を領する。

大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、元和2年に(1616年)上野小幡藩1万7000石に加増。翌元和3年(1617年)には常陸笠間藩3万2000石を与えられ、後に2万石を加増される。元和8年(1622年)、下総古河において7万2000石を与えられた。

寛永2年12月29日(1626年1月27日)、63歳で死去した。跡を長男の尚政が継いだ。

子孫

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子孫に作家の永井荷風三島由紀夫、狂言師の野村萬斎などがいる。すなわち、直勝と大河内秀綱次女の由利姫との間に生まれた正直(鳴尾永井家)が荷風の12代前、萬斎の14代前の祖先であり、直勝と阿部正勝の娘との間に生まれた尚政が三島の11代前の祖先にあたる[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 碧南市音羽町にある宝珠寺には、永井直勝生誕の地の碑が建てられている。

出典

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  1. ^ 永井直勝は緒川の生まれか育ちか
  2. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年。 
  3. ^ 安藤武『三島由紀夫 全文献目録』夏目書房、2000年、442頁。 

外部リンク

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