内藤信有
内藤 信有(ないとう のぶすみ)は、江戸時代中期の旗本。陸奥国内藤家棚倉藩の分家当主・内藤信全の養子。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 正保4年(1647年) |
死没 | 享保17年2月29日(1732年3月25日) |
別名 | 釆女、源三郎 |
官位 | 従五位下筑後守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本5000石知行地:常陸国多賀郡→駿河国富士郡・駿東郡 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 |
父:内藤信直、母:不明 養父:内藤信全 |
妻 |
先室:中条信慶の女 後室:中条信慶の養女(戸田氏豊娘) |
子 | 信朋、信安、諏訪頼均、戸田氏尹 |
寛文13年(1673年)7月11日に遺領を継ぎ、同年徳川家綱に御目見した。同5年定火消となり、また布衣の着用を許された。貞享2年(1685年)小姓組番頭となる。同3年従五位下筑後守に叙任されたが、元禄1年(1688年)10月26日、配下の不祥事の責を問われて謹慎となり、のち許されて小普請に入れられた[1]。
出典
編集- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 同書204頁
脚注
編集- ^ 「寛政譜」新訂13巻204頁には「隊下の士三枝喜兵衛某が事により逼塞せしめられ」とある。