依田広太郎
日本の陸軍軍人
依田 広太郎(よだ ひろたろう、1853年(嘉永六年) - 1916年〈大正5年〉5月20日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[2]、丹後国宮津(現・京都府宮津市)出身[2]。
人物
編集宮津藩軍監・依田伴蔵の長男。1877年(明治10年)陸軍士官学校(旧1期) を卒業し陸軍少尉任官。累進して陸軍歩兵中佐となり監軍部参謀事務取扱や第29連隊長を務め、1898年(明治31年)10月1日 陸軍歩兵大佐に昇進すると、陸軍戸山学校長、砲兵会議議員、歩兵第47連隊長を歴任した。1903年(明治36年)12月9日 陸軍少将に任官、同日付けで歩兵第4旅団長を拝命する。次いで歩兵第12旅団長、歩兵第1旅団長を経て、1910年(明治43年)11月30日 、陸軍中将となり第7代第11師団師団長に就任。その5年後の1915年(大正4年)依願で予備役編入となった。
経歴
編集- 1875年(明治8年)2月 – 陸軍士官学校 入学
- 1877年(明治10年)12月22日 - 陸軍士官学校(旧1期) 卒業[2]、任 陸軍少尉
- 1886年(明治19年)2月26日 - 仏国留学
- 1886年(明治19年)5月26日 - 任 陸軍歩兵大尉[3]
- 1894年(明治27年)11月4日 - 監軍部参謀事務取扱兼勤[4]
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)9月25日 - 補 会津若松歩兵第29連隊長 [7]
- 1898年(明治31年)10月1日 – 任 陸軍歩兵大佐、補 陸軍戸山学校長[8]
- 兼補 砲兵会議議員
- 1900年(明治33年)10月3日 – 免本職並兼職、補 小倉歩兵第47連隊長[2][9]
- 1903年(明治36年)12月9日 – 任 陸軍少将、補 弘前歩兵第4旅団長[2][10]
- 1907年(明治40年)
- 1910年(明治43年)11月30日 – 任 陸軍中将、補 善通寺第11師団師団長[2][13]
- 1915年(大正4年)7月28日 - 依願予備役被仰付[2][14]
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[15]
- 1892年(明治25年)4月6日 - 従六位[16]
- 1895年(明治28年)9月20日 - 正六位[17]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 従五位[18]
- 1903年(明治36年)12月11日 - 正五位[19]
- 1909年(明治42年)2月1日 - 従四位 [20]
- 1911年(明治44年)3月31日 - 正四位[21]
- 1914年(大正3年)4月30日 - 従三位[22]
- 1915年(大正4年)8月20日 - 正三位[23]
- 勲章等
- 1891年(明治24年)5月28日 - 勲六等瑞宝章[24]
- 1895年(明治28年)10月21日 - 勲五等双光旭日章[25]
- 1901年(明治34年)11月30日 - 勲四等瑞宝章[26]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲三等瑞宝章[27]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[28]
- 1912年(大正元年)11月21日 - 勲一等瑞宝章[29]
- 外国勲章佩用允許
家族
編集- 父・依田伴蔵(1823-1866) - 宮津藩士(軍監)。別名に直恒、翠竹。第二次長州征討に従軍し、藩命により和平の使いとして長門(山口県)に向かう途中、長州軍に狙撃され死亡[33]。村人たちによって依田神社が建てられ、供養された(残念社、広島県廿日市市大野字八坂)[34][35]。1980年ごろに「残念さん」と大書きされた看板が地元住民によって道路脇に掲げられ、その名で知られるようなった[36]。なお、尼崎市にも「残念さん」と呼ばれる墓があるが、そちらは長州藩士・山本文之助鑑光の墓である[37]。
- 妻・くに - 梶力の長女[38]
- 長男・依田述 - 陸軍大佐。岳父の松井修徳は閑院宮家令(元前橋藩士)[38]
脚注
編集- ^ 『官報』第1145号「叙任及辞令」1916年5月27日。
- ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官総覧』147頁
- ^ 『官報』第878号「叙任及辞令」1886年6月7日。
- ^ 『官報』第3407号「叙任及辞令」1894年11月5日。
- ^ 『官報』第3539号「叙任及辞令」1895年4月20日。
- ^ 『官報』第3608号「叙任及辞令」1895年7月10日。
- ^ 『官報』第3976号「叙任及辞令」1896年9月28日。
- ^ 『官報』第4579号「叙任及辞令」1898年10月3日。
- ^ 『官報』第5179号「叙任及辞令」1900年10月4日。
- ^ 『官報』第6133号「叙任及辞令」1903年12月10日。
- ^ 『官報』第7205号「叙任及辞令」1907年7月6日。
- ^ 『官報』第7315号「叙任及辞令」1907年11月14日。
- ^ 『官報』第8234号「叙任及辞令」1910年12月1日。
- ^ 『官報』第898号「叙任及辞令」1915年7月29日。
- ^ 『官報』第928号「叙任」1886年8月4日。
- ^ 『官報』第2629号「叙任及辞令」1892年4月7日。
- ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
- ^ 『官報』第76号「叙任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第6135号「叙任及辞令」1903年12月12日。
- ^ 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
- ^ 『官報』第8330号「叙任及辞令」1911年4月1日。
- ^ 『官報』第525号「叙任及辞令」1914年5月1日。
- ^ 『官報』第917号「叙任及辞令」1915年8月21日。
- ^ 『官報』第2376号「叙任及辞令」1891年6月3日。
- ^ 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第101号「叙任及辞令」1912年11月30日。
- ^ 『官報』第1459号「叙任及辞令」1888年5月14日。
- ^ 『官報』第7517号「叙任及辞令」1908年7月17日。
- ^ 『官報』第8231号「叙任及辞令」1910年11月28日。
- ^ 依田伴蔵(読み)よだ ばんぞうコトバンク
- ^ 長州戦争(芸州口の戦い)残念さん大竹市歴史研究会
- ^ 残念社一般社団法人はつかいち観光協会
- ^ 残念社 ・ナニコレ珍百景 『2時間スペシャル』 2014年1月8日(水)19:00~20:54 テレビ朝日 価格.comテレビ紹介情報
- ^ 尼崎市域で「残念さん」「残念様」と呼ばれるようになった山本文之助鑑光の「鑑光」は何と読むか?レファレンス協同データベース
- ^ a b 依田広太郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]