五百城文哉
五百城 文哉(いおき ぶんさい、1863年8月11日(文久3年6月27日 [1]) - 1906年(明治39年)6月6日)は、明治時代の日本の洋画家[1]。本名は熊吉[1]。
経歴・人物
編集1863年8月11日(文久3年6月27日)常陸国水戸藩(現:茨城県水戸市)に生まれる[2]。1878年(明治11年)から翌年まで母校である水戸上市小学校の教壇に立つ[3]。1884年(明治17年)農商務省山林局雇となり、高橋由一の門に入る[3]。1887年(明治20年)東京府工芸品共進会に出品[3]。1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会に出品、褒状を受ける[3]。その後、農商務省を依願退職[3]し、肖像画や風景画を描きながら新潟地方や、茨城、栃木など、各地を遊歴[2]。1892年(明治25年)本名を熊吉から文哉に改める[3]。同年から日光に住み、植物や名所を描く[1]。日光での弟子には小杉放菴や福田たね等がいる[2]。翌年1893年(明治26年)シカゴ万博に「日光東照宮陽明門」を出品[1]。
1901年(明治34年)日光を訪れた牧野富太郎と植物採集をする[3]。東京山草会の結成に携わる[3]。1906年(明治39年)6月6日、日光にて没[2]、44歳。
高山植物を中心とする、植物学的な知識に基づいた精緻な植物画を得意とした[4]。また、武田久吉らと交遊し「日本高山植物写生図」をのこした[1]。
主な作品
編集- 日光東照宮陽明門
- 百花百草図
- 日本高山植物写生図