亀成
亀成(かめなり)は、千葉県印西市の大字。郵便番号270-1362[2]。
亀成 | |
---|---|
北緯35度49分39.2秒 東経140度7分14.6秒 / 北緯35.827556度 東経140.120722度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
市町村 | 印西市 |
標高 | 5 m |
人口 | |
• 合計 | 144人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
270-1362[2] |
市外局番 | 0476[3] |
ナンバープレート | 習志野 |
※座標・標高は亀成会館付近 |
地理
編集小字
編集小字は以下の通り[4]。
- 出作(しっさく)
- 水道(すいどう)
- 水神前(すいじんまえ)
- 大境(おおざかい)
- 土手前(どてまえ)
- 橋本(はしもと)
- 土手外(どてそと)
- 小山下(こやました)
- 地子谷(ぢこやつ)
- 宝田(たからだ)
- 代地(だいち)
歴史
編集江戸時代は亀成新田[5]・宝田新田[6]の2村、1874年(明治7年)頃からは亀成村である。
亀成新田(かめなりしんでん)は下総国印旛郡のうち。印西領・印西筋に属す。1671年(寛文11年)江戸町人を中心とした請負により手賀沼の新田開発が始まるが干拓は難航し、周辺部の当新田などが開発されただけに終わる。1673年(延宝元年)には請負主のうち播磨屋杢右衛門ほか4名に開発権が委任され、この代償として手賀沼新田うち亀成に各自1町ずつの土地が与えられた(富田家文書)。1730年(享保15年)の新田検地により高請され成立。はじめ幕府領、1839年(天保10年)から浜松藩領。村高は「元禄郷帳」には見えず、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに183石余。なお成立当初は吉右衛門組と八右衛門組にわかれている(岩井家文書)。1873年(明治6年)千葉県に所属。1874年(明治7年)頃亀成村の一部となる[5]。
宝田新田(たからだしんでん)は下総国印旛郡のうち。手賀沼南東部の平坦地に位置する。寛文(1661年~1673年)・延宝(1673年~1681年)期に開発された手賀沼新田の1つ、1730年(享保15年)の新田検地により高請され成立。幕府領。村高は「元禄郷帳」には見えず、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに6斗余。当新田は発作新田に囲まれており、同時期の開発されたものと思われる。1873年(明治6年)千葉県に所属。1874年(明治7年)頃亀成村の一部となる。現在発作のうちの亀成飛地にあたる[6]。
年表
編集世帯数と人口
編集2017年(平成29年)10月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
亀成 | 53世帯 | 144人 |
小・中学校の学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 印西市立大森小学校 | 印西市立印西中学校 |
施設
編集- 亀成会館
- 厳島神社
- 水神社
交通
編集道路
編集脚注
編集- ^ a b “印西市の人口と世帯数”. 印西市 (2017年11月2日). 2017年11月13日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月13日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年11月13日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 1449頁
- ^ a b 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 284頁
- ^ a b 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 524頁
- ^ “印西市立小・中学校の通学区域”. 印西市 (2017年4月4日). 2017年11月13日閲覧。