九鬼隆備
九鬼 隆備(くき たかとも)は、江戸時代後期の大名。丹波国綾部藩第10代(最後)の藩主。官位は従五位上・大隅守。
九鬼隆備 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保5年5月11日(1834年6月17日) |
死没 | 明治30年(1897年)7月13日 |
官位 | 従五位上・大隅守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 丹波綾部藩主 |
氏族 | 九鬼氏 |
父母 | 九鬼隆都 |
兄弟 |
隆備、大田原富清、隆義、一柳末徳、 建部秀隆、寧隆、本庄道美正室、 板倉勝敬正室、石川総邦正室ら |
妻 | 松平光庸娘孝、中西荘八郎娘 |
子 | 文子、致津公煕室、野崎彦左衛門室、隆治ら |
経歴
編集9代藩主・九鬼隆都の長男として誕生した。
嘉永6年(1853年)12月15日、13代将軍徳川家定に拝謁する。文久元年(1861年)6月10日、父隆都の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下・大隅守に叙任する。文久3年(1863年)3月30日、幕府から京都の警備を命じられる。元治元年(1864年)2月、京都警備のために上洛し、3月、孝明天皇に拝謁する。同年5月5日、従五位上に昇進する。禁門の変では御所を警備している。同年8月、帰藩する。藩政においては藩校・進徳館を篤信館と改名し、その翌年には藩内6箇所に郷学校を設立して庶民教育に尽力した。これは後に、明治政府による近代化教育の先駆けとなった。
慶応3年(1867年)、幕府が大政奉還を行なうと、いち早く新政府側に帰順する。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となる。同年11月20日、隠居し、実弟寧隆に家督を譲った。明治9年(1876年)6月12日、寧隆の死去により家督を再び相続する。明治17年(1884年)7月8日、子爵に叙爵される。明治30年(1897年)7月13日、64歳で死去した。
栄典
編集系譜
編集脚注
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (綾部)九鬼家初代 1884年 - 1897年 |
次代 九鬼隆治 |
当主 | ||
先代 九鬼寧隆 |
旧綾部藩九鬼家 1876年 - 1897年 |
次代 九鬼隆治 |
先代 九鬼隆都 |
綾部藩九鬼家 1861年 - 1871年 |
次代 九鬼寧隆 |