到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日1845年11月17日〉 - 明治34年〈1901年6月22日)は、宇佐神宮大宮司などを務めた明治時代の神職男爵正四位[1]

経歴

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宇佐氏の流れを汲んで代々宇佐神宮宮司を務めていた世襲家である到津家[2]、当主であった到津公嘏[3](公蝦?[4])の息子として生まれる。母である到津言子は、熊本藩士の娘で、歌人でもあった[4]

安政2年(1855年)に初めて宇佐神宮大宮司となり、以降、長く神職を務めた[1]。明治5年(1872年)に華族に列せられ、明治17年(1884年)に男爵となり、明治32年(1899年)には、正四位に叙された[1]。この間、教導職では、明治5年(1872年)に権少教正に任じられ、明治12年(1879年)には少教正となり、明治17年(1884年)には職を解かれた[1]

公誼の死去後、男爵位は、息子の到津公煕[5](公凞?[6])が継承した。

おもな著作

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  • 到津家系譜並事蹟書、1875年
  • 官幣大社宇佐神宮略案内記、1882年

脚注

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  1. ^ a b c d “到津男爵卒去”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 2. (1901年7月2日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  2. ^ “宮司職巡り対立 宇佐神宮…「乗っ取り」と脱退届 神社本庁…世襲に代役”. 読売詩文・東京夕刊: p. 14. (2009年3月9日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  3. ^ 宇佐”. 公卿類別譜. 2017年6月7日閲覧。
  4. ^ a b 到津 言子∥イトウヅ アヤコ 到津公蝦の妻”. 國學院大學 21世紀COEプログラム. 2017年6月7日閲覧。
  5. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『到津公煕』 - コトバンク
  6. ^ 20世紀日本人名事典『到津 公凞』 - コトバンク
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
到津家初代
1884年 - 1901年
次代
到津公煕