ロベルト・アジャラ
ロベルト・ファビアン・アジャラ(Roberto Fabián Ayala, 1973年4月14日 - )は、アルゼンチン・エントレ・リオス州パラナ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。元アルゼンチン代表。現在はアルゼンチン代表のコーチを務めている。
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名前 | |||||||||||||||||
本名 |
ロベルト・ファビアン・アジャラ Roberto Fabián Ayala | ||||||||||||||||
愛称 | El Raton (エル・ラトン、鼠)[1] | ||||||||||||||||
ラテン文字 | Roberto AYALA | ||||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||||
国籍 |
アルゼンチン スペイン | ||||||||||||||||
生年月日 | 1973年4月14日(51歳) | ||||||||||||||||
出身地 | アルゼンチン パラナ | ||||||||||||||||
身長 | 177cm | ||||||||||||||||
体重 | 75kg | ||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||
ポジション | DF (CB) | ||||||||||||||||
利き足 | 右足 | ||||||||||||||||
クラブ1 | |||||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | ||||||||||||||
1992-1994 | フェロカリル・オエステ | 72 | (1) | ||||||||||||||
1994-1995 | リーベル・プレート | 40 | (0) | ||||||||||||||
1995-1998 | ナポリ | 87 | (1) | ||||||||||||||
1998-2000 | ミラン | 24 | (0) | ||||||||||||||
2000-2007 | バレンシア | 188 | (9) | ||||||||||||||
2007-2010 | サラゴサ | 72 | (4) | ||||||||||||||
2010 | ラシン・クルブ | 16 | (0) | ||||||||||||||
通算 | 499 | (15) | |||||||||||||||
代表歴 | |||||||||||||||||
1994-2007 | アルゼンチン | 115 | (7) | ||||||||||||||
監督歴 | |||||||||||||||||
2019- | アルゼンチン(コーチ) | ||||||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
63試合に渡ってアルゼンチン代表のキャプテンを務めた[2]。3度のFIFAワールドカップに出場し、ハビエル・サネッティに次ぐ同国歴代2位の115試合に出場している。
クラブ経歴
編集1992年にフェロカリル・オエステからデビューし、3シーズンを過ごした後にCAリーベル・プレートに移籍すると、守備の要として頭角を現した[3]。
イタリア時代
編集1995年夏、イタリア・セリエAのパルマACはアジャラの保有権を獲得したが、すでにEU圏外選手枠が埋まっていたために、SSCナポリと共同保有という形をとり、1995-96シーズンからは、ナポリでプレーすることとなった[3]。ファビオ・カンナバーロの穴を埋め、キャプテンも務め、アンドレ・クルスと良いコンビを組んで堅守を見せた[3]。1995-96シーズン、チームはリーグ12位に終わるが、失点はリーグで2番目に少なかった[3]。その後、チームは財政難から、多くの主力選手がチームを去り、1997-98シーズンでセリエB落ちが決まり、チームを去ることとなった[3]。1998-99シーズン、アルベルト・ザッケローニ監督が新たに監督に就任したACミランに移籍、3-4-3のシステムで、パオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタとDFラインのコンビを組んでレギュラーとしてプレーすることは確実と見られていた[3]。シーズン当初は先発起用されたが、ルイージ・サーラにポジションを奪われ、チームはリーグ制覇をするも、リーグ戦では僅か11試合に起用されたのみに終わった[3]。翌1999-00シーズン、当初は先発起用されていたが、プレー振りは監督の求めるレベルではなく、以降先発を外れ、実力を証明できないまま退団することとなった[3]。
バレンシアCF
編集1998年夏、移籍金625万ポンドでリーガ・エスパニョーラのバレンシアCFに移籍した。2000-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは決勝に進出し、決勝ではバイエルン・ミュンヘンにPK戦の末に敗れたが、同大会の最優秀ディフェンダーに選出された。2001-02シーズンはリーガ・エスパニョーラで優勝し、2003-04シーズンにはリーガ・エスパニョーラとUEFAカップ優勝を果たした。2004-05シーズンは負傷により多くの試合を欠場し、2004年夏のUEFAスーパーカップ・FCポルト戦には出場していない。2006年8月、クラブのスポーツディレクターのアメデオ・カルボーニは2007年夏に切れるアジャラとの契約を延長しないことを決めた。
レアル・サラゴサ
編集2007年2月7日、アジャラは同じバレンシア州に本拠地を置くビジャレアルCFへシーズン終了後に移籍することを発表したが、7月14日にはビジャレアルとの契約を覆してレアル・サラゴサと3年契約を結んだ。バレンシアからビジャレアルにはフリートランスファーで移籍することになっていたが、契約解除の違約金としてサラゴサからビジャレアルに600万ユーロ(480万ポンド)が支払われた。サラゴサはDFガブリエル・ミリートをFCバルセロナに放出しており、ディフェンダーの層の薄さに頭を悩ませていた。2008年5月3日、デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦 (1-0) の後半ロスタイムに移籍後初得点となる決勝点を決めた[4][5]。ディフェンス陣の柱として期待され、2007-08シーズンは33試合に先発出場したが、目立った活躍することなくシーズンを終えた。クラブも2度の監督交代をするなど迷走し、18位でセグンダ・ディビシオン(2部)降格。なお、一度もプレーすることなく契約を解除したビジャレアルは過去最高の2位と躍進し、サラゴサと対照的な成績であった。
2008-09シーズンもサラゴサでプレーし、2008年11月22日のSDエイバル戦 (3-0) では73分に移籍後2点目となる得点を、2009年2月29日のレアル・ムルシア戦 (4-1) では移籍後3点目を決めた。1シーズンでのプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格に貢献したが、2010年1月23日、クラブとの契約を解除して退団した[6]。
ラシン・クルブ
編集代表経歴
編集1994年11月16日、チリ戦でアルゼンチン代表デビューした。1996年にはアトランタオリンピックに出場し、チームの銀メダル獲得に貢献した。1998年にはフランスで開催されたワールドカップに出場し、チームのベスト8進出に貢献した。2002年には日本と韓国で共催されたワールドカップにキャプテンとして出場するはずであったが、第1戦のナイジェリア戦直前に負傷して1試合にも出場できず、チームはグループリーグで敗退した。
2004年にはアテネオリンピックにオーバーエイジ枠のキャプテンとして出場。強固なディフェンス陣をまとめあげ、無失点優勝の最大の功労者となった。2006年にはドイツで開催されたワールドカップに出場し、重要な役割を担ってチームのベスト8進出に貢献した。準々決勝のドイツ戦 (1-1) ではヘディングで先制点を決めたが、PK戦ではイェンス・レーマンに止められ、チームも敗退した。大会後にはオールスターチームに選出された。
2006年5月30日、アンゴラとの親善試合に出場して100試合出場を達成した[9]。2007年2月7日、パリで行われたフランスとの親善試合 (1-0) が通算107試合目となり、ディエゴ・シメオネが持っていた同国代表最多出場試合記録(106試合)を更新した。6月5日、アルジェリアとの親善試合がキャプテン就任後58試合目となり、ディエゴ・マラドーナが持っていたキャプテンとしての最多出場記録を更新した[10]。2007年にはコパ・アメリカにキャプテンとして出場したが、決勝のブラジル戦に完敗して準優勝に終わり、自身はオウンゴールを記録した。大会後、「代表でのサイクルは終わったと思う」と述べて代表からの引退を発表した[11]。
指導者歴
編集2019年1月、アルゼンチンサッカー協会は、アジャラが代表のディフェンスコーチとして入閣したことを発表した。なお代表監督はリオネル・スカローニ、他にもパブロ・アイマールやワルテル・サムエルもコーチにおり、現役時代の僚友達と再びチームを組むことになった[12]。
プレースタイル
編集小柄な体躯ながらヘディングとジャンプ力を生かし、セットプレーで強さを発揮した[13]。ポジショニングが良く、俊敏で、先のプレーを予測する能力も高かった[3]。
エピソード
編集- SSCナポリに加入してすぐ、レストランに食事に行き、食事の代金を払おうとすると、店の人は、アジャラがディエゴ・マラドーナと同じアルゼンチン人であったことから、「代金はマラドーナがプレーで既に払ってくれたと。」と代金の受け取りを拒否され驚いたという[3]。
タイトル
編集代表
編集- U-23アルゼンチン代表
クラブ
編集- CAリーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン : 1994-95A
- ACミラン
- バレンシアCF
個人成績
編集クラブ
編集クラブ | シーズン | リーグ戦 | 国内カップ | 国際大会 | その他 | 合計 | ||||||
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ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
フェロ・カリル・オエステ | 1991-92 | プリメーラ・ディビシオン | 19 | 0 | - | - | - | 19 | 0 | |||
1992-93 | 36 | 0 | - | - | - | 36 | 0 | |||||
1993 | 18 | 1 | - | - | 3 | 0 | 21 | 1 | ||||
通算 | 73 | 1 | - | - | 3 | 0 | 76 | 1 | ||||
リーベル・プレート | 1994 | プリメーラ・ディビシオン | 16 | 0 | - | - | - | 16 | 0 | |||
1994-95 | 25 | 0 | - | 12 | 1 | - | 37 | 1 | ||||
通算 | 41 | 0 | - | 12 | 1 | - | 53 | 1 | ||||
ナポリ | 1995-96 | セリエA | 29 | 0 | 1 | 0 | - | - | 30 | 1 | ||
1996-97 | 30 | 1 | 6 | 0 | - | - | 36 | 1 | ||||
1997-98 | 28 | 0 | 2 | 0 | - | - | 30 | 0 | ||||
通算 | 87 | 1 | 9 | 0 | - | - | 96 | 1 | ||||
ミラン | 1998-99 | セリエA | 11 | 0 | 2 | 0 | - | - | 13 | 0 | ||
1999-00 | 13 | 0 | 3 | 0 | 6 | 0 | - | 22 | 0 | |||
通算 | 24 | 0 | 5 | 0 | 6 | 0 | - | 35 | 0 | |||
バレンシア | 2000-01 | ラ・リーガ | 28 | 1 | 2 | 0 | 9 | 2 | - | 39 | 3 | |
2001-02 | 29 | 2 | 1 | 0 | 7 | 0 | - | 37 | 2 | |||
2002-03 | 31 | 1 | 0 | 0 | 12 | 0 | 2 | 0 | 45 | 1 | ||
2003-04 | 30 | 1 | 5 | 0 | 10 | 0 | - | 45 | 1 | |||
2004-05 | 17 | 0 | 0 | 0 | - | - | 17 | 0 | ||||
2005-06 | 23 | 2 | 0 | 0 | 6 | 0 | - | 29 | 2 | |||
2006-07 | 29 | 2 | 4 | 0 | 8 | 1 | - | 41 | 3 | |||
通算 | 187 | 9 | 14 | 0 | 52 | 3 | 2 | 0 | 253 | 12 | ||
レアル・サラゴサ | 2007-08 | ラ・リーガ | 33 | 1 | 4 | 0 | 2 | 0 | - | 39 | 1 | |
2008-09 | セグンダ・ディビシオン | 28 | 3 | 0 | 0 | - | - | 28 | 3 | |||
2009-10 | ラ・リーガ | 13 | 0 | 1 | 0 | - | - | 14 | 0 | |||
通算 | 74 | 4 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 81 | 4 | ||
ラシン・クラブ | 2009-10 | プリメーラ・ディビシオン | 15 | 0 | 0 | 0 | - | - | 15 | 0 | ||
キャリア通算 | 501 | 15 | 34 | 0 | 72 | 4 | 5 | 0 | 609 | 19 |
代表
編集- 出場大会
- 1995年 - キング・ファハド・カップ1995(準優勝)
- 1996年 - コパ・アメリカ1995(ベスト8)
- 1998年 - 1998 FIFAワールドカップ(ベスト8)
- 1999年 - コパ・アメリカ1999(ベスト8)
- 2002年 - 2002 FIFAワールドカップ(グループステージ敗退)
- 2004年 - コパ・アメリカ2004(準優勝)
- 2006年 - 2006 FIFAワールドカップ(ベスト8)
- 2007年 - コパ・アメリカ2007(準優勝)
- 試合数
- 国際Aマッチ 115試合 7得点(1994年 - 2007年)
アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1994 | 3 | 0 |
1995 | 14 | 0 |
1996 | 6 | 0 |
1997 | 7 | 0 |
1998 | 13 | 1 |
1999 | 12 | 1 |
2000 | 11 | 1 |
2001 | 8 | 0 |
2002 | 1 | 0 |
2003 | 6 | 0 |
2004 | 10 | 1 |
2005 | 8 | 1 |
2006 | 7 | 1 |
2007 | 9 | 0 |
通算 | 115 | 6 |
- 得点
# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 大会 |
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1 | 1998年2月19日 | メンドーサ、エスタディオ・マルビナス・アルヘンティナス | ルーマニア | 2-0 | 2-1 | 親善試合 |
2 | 1999年9月7日 | ポルト・アレグレ、エスタジオ・ベイラ=リオ | ブラジル | 2-1 | 4-2 | 親善試合 |
3 | 2000年4月26日 | マラカイボ、エスタディオ・ホセ・パチェンチョ・ロメロ | ベネズエラ | 0-1 | 0-4 | 2002 FIFAワールドカップ・予選 |
4 | 2004年7月13日 | ピウラ、エスタディオ・ミゲル・グラウ | ウルグアイ | 3-2 | 4-2 | コパ・アメリカ2004 |
5 | 2005年11月16日 | ドーハ、ジャシム・ビン・ハマド・スタジアム | カタール | 0-3 | 0-3 | 親善試合 |
6 | 2006年6月30日 | ベルリン、オリンピアシュタディオン | ドイツ | 0-1 | 1-1 | 2006 FIFAワールドカップ |
脚注
編集- ^ 1974 FIFAワールドカップに出場したルベン・アジャラがこう呼ばれていたことから、ロベルトもルベンの愛称を受け継いだ。なお、両者に直接の関係はない。
- ^ “Messi inspires Argentina to 4-3 win over Algeria”. Chinadaily.com.cn. (2007年6月5日) 2007年6月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Ayala, da capitano del Napoli, a flop al Milan e leggenda del Valencia”. GOAL (2022年4月14日). 2023年9月4日閲覧。
- ^ “Zaragoza put an end to Ayala saga”. UEFA.com. (2006年7月17日) 2007年7月17日閲覧。
- ^ “Ayala será jugador del Real Zaragoza”. レアル・サラゴサ公式サイト. (2007年7月14日). オリジナルの2007年8月11日時点におけるアーカイブ。 2007年7月14日閲覧。
- ^ Goal.com アジャラのサラゴサ退団が決定 2010年1月23日
- ^ Roberto Ayala llegó a Argentina para incorporarse a Racing Club
- ^ 26noticias.com.ar
- ^ “Centurion Ayala eyes main prize”. FIFA.com. (2006年6月29日) 2007年6月26日閲覧。
- ^ “Messi inspires Argentina to 4-3 win over Algeria”. China Daily. (2007年6月5日) 2007年6月6日閲覧。
- ^ Ayala: "Mi ciclo en la Selección está terminado" Clarin、2007年7月17日
- ^ レジェンドだらけのアルゼンチン代表、元主将・アジャラ氏がコーチ就任 超WORLDサッカー!、2019年1月11日
- ^ 嘆かわしいルックスの面々 Number Web、2004年10月28日
外部リンク
編集- Argentine Primera statistics at Fútbol XXI
- ロベルト・アジャラ – FIFA主催大会成績