マルコス・アロンソ・ペーニャ
マルコス・アロンソ・ペーニャ(Marcos Alonso Peña、1959年10月1日 - 2023年2月9日)は、スペイン・カンタブリア州サンタンデール出身の元同国代表サッカー選手、元サッカー指導者。ポジションはFWまたはMFだった。
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名前 | ||||||
本名 |
マルコス・アロンソ・ペーニャ Marcos Alonso Peña | |||||
ラテン文字 | Marcos Alonso | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1959年10月1日 | |||||
出身地 | カンタブリア州サンタンデール | |||||
没年月日 | 2023年2月9日(63歳没) マドリード州マドリード | |||||
身長 | 176cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / MF (RWG, LWG, OH) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
レアル・マドリード | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1977-1979 | ラシン・サンタンデール | 51 | (5) | |||
1979-1982 | アトレティコ・マドリード | 90 | (10) | |||
1982-1987 | バルセロナ | 124 | (28) | |||
1987-1989 | アトレティコ・マドリード | 29 | (2) | |||
1989-1990 | ログロニェス | 8 | (1) | |||
1991 | ラシン・サンタンデール | 7 | (3) | |||
通算 | 309 | (49) | ||||
代表歴 | ||||||
1978 | スペインU-18 | 3 | (0) | |||
1979 | スペインU-19 | 1 | (0) | |||
1979 | スペインU-20 | 3 | (0) | |||
1978 | スペインU-21 | 3 | (0) | |||
1980-1982 | スペインU-23 | 2 | (0) | |||
1979-1983 | スペイン アマチュア | 9 | (1) | |||
1980 | スペイン B | 3 | (0) | |||
1981-1985 | スペイン | 22 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
1995-1996 | ラージョ・バジェカーノ | |||||
1996-1998 | ラシン・サンタンデール | |||||
1998-2000 | セビージャ | |||||
2000-2001 | アトレティコ・マドリード | |||||
2002 | サラゴサ | |||||
2005-2006 | バジャドリード | |||||
2006 | マラガ | |||||
2008 | グラナダ74 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
現役時代は、主にアトレティコ・マドリードやFCバルセロナでプレーし、ラ・リーガには計13シーズン在籍して通算302試合4ゴールという結果を残した[1]。
選手経歴
編集クラブ
編集カンタブリア州のサンタンデールに生まれ、レアル・マドリードの下部組織で育成された。しかし、レアル・マドリードではトップチーム昇格は叶わず、1977-78シーズンに地元の強豪クラブであるラシン・サンタンデールにてプロデビューを果たした。プロ2年目からレギュラーに定着し、19歳ながらプリメーラの舞台で34試合4ゴールと結果を残した。アロンソ以外にもオルランド・ヒメネスが11ゴールを挙げるなど、攻撃陣は奮闘したが、失点の勢いが止まらず、シーズン終了を待たずしてラシン・サンタンデールはセグンダ降格が決定した。
1979年7月、アトレティコ・マドリードへ移籍した[2]。1シーズン目からレギュラーの座を掴み、2シーズン目にはFCバルセロナとレアル・マドリードに次ぐリーグ3位フィニッシュに大きく貢献し、同シーズン中にスペイン代表から初招集を受けた。3シーズン目には前線にウーゴ・サンチェスが加わり、サンチェスとアロンソの2人はアトレティコの攻撃を牽引するほどの選手になった。
アトレティコでの活躍から、1982年にFCバルセロナへと移籍[3]。加入後すぐにチームの中心選手となり、1年目はリーグ4位に終わるも、コパ・デル・レイとコパ・デ・ラ・リーガ優勝を果たし、国内カップ2冠を成し遂げた。2シーズン目は、自身のキャリアハイ、そしてキャリア唯一のリーグ2桁得点となる12ゴールを叩き出し、チームトップの得点数を稼いだ。翌1984-85シーズン、バルセロナは実に9シーズンぶりとなるリーガ優勝を達成したが、アロンソ自身はスティーブ・アーチボルドの加入などもあって出場機会を減らした。出番の減少はその後も続き、1986-87シーズン終了後にバルセロナを退団した[2]。
1987年7月、古巣のアトレティコ・マドリードに復帰した[4]。加入当初こそリーグ26試合で2ゴールとまずまずの成績を残したものの、2年目に膝に大怪我を負い、シーズンわずか3試合の出場、3年目には冬の1月までリーグ戦出場が皆無になるなど、構想外のような扱いを受けた。その1989-90シーズンの冬の移籍市場でアトレティコを去り、CDログロニェスに加入した。しかし、ログロニェスでも状況が好転せず、シーズン終了後およそ半年でログロニェスを退団した。
1991年4月、フリーとなっていたアロンソは自身がプロデビューを果たしたクラブ、ラシン・サンタンデールに加入した。当時セグンダB所属と、低迷した古巣への復帰となったが、怪我の影響などもあって満足いく出場機会が得られず、シーズン終了時にクラブを去り、31歳で現役を引退した[4]。一方、ラシン・サンタンデールはセグンダBで優勝を果たしてセグンダ昇格を決めている。
代表
編集1979年7月、FIFA U-20ワールドカップを戦うスペイン代表に選ばれ、3試合に出場した。しかし、ベスト8のポーランド戦にてPK戦の末敗れ、大会を後にした。
1980年6月、当時アトレティコ・マドリードに在籍していたアロンソは、齢20歳ながらレギュラーとして活躍していたため、この年の1980年モスクワオリンピックを戦うスペイン代表に選出された。本大会ではグループリーグ全3試合に出場して、初戦の東ドイツ戦を引き分けに持ち込む同点弾を決めた。しかし、スペインはグループリーグ全3試合を全て引き分けで終えたため、大会敗退が決まった。
オリンピックから1年経たない1981年3月25日、イングランド代表との親善試合でスペインフル代表デビューを飾った[5]。その後も定期的に代表招集を貰い続けていたが、1982 FIFAワールドカップに出場するスペイン代表メンバー23人からは落選した。大会終了後、UEFA欧州選手権1984出場を目的にFCバルセロナへとステップアップしたアロンソは、UEFA欧州選手権1984予選を戦うスペイン代表のレギュラーに定着し、マルタ戦などの奇跡もあって、無事に本大会出場権を獲得した[4]。しかし、1984年頃からレギュラーの座を奪われ、本大会には参加できたものの、出場機会は掴めなかった。欧州選手権終了後、クラブでの不遇もあって徐々に代表から遠のき、1985年9月25日のアイスランド戦を最後に代表から退いた[4]。
指導者経歴
編集現役を引退後、アロンソはすぐに指導者に転身した。指導者キャリア初の仕事は、1994年から始まり、当時アトレティコ・マドリードの監督を務めていたホルヘ・ダレッサンドロのアシスタントコーチだった。翌年の1995年10月、ラージョ・バジェカーノから監督就任の打診を受け、自身初となる監督に就いた[6]。シーズン途中就任だったが、序盤こそ安定した成績を残すも、4月からの4連敗などもあって、5月5日のレアル・バリャドリード戦を最後に解任された。
1996-97シーズンは、古巣ラシン・サンタンデールを指揮。フルシーズンを戦い42試合11勝17分14敗とまずまずの結果を残した。1998年には当時セグンダ・ディビシオンに降格していたセビージャFCの監督に就任。プリメーラ復帰が絶対条件だったクラブにおいて、昇格プレーオフを経て、セビージャをプリメーラ復帰に導いた[7]。翌シーズンもセビージャの指揮を執ったが、2000年3月に解任された。
2000年10月、当時セグンダに落ち、低迷していたアトレティコ・マドリードの監督に就任した。リーグ第6節からの采配となり、昇格が期待されたが、4月に成績不振によってまたもや解任されてしまった。その後アトレティコは立て直し、CDテネリフェと同点の勝ち点74を稼いだが、テネリフェとの得失点差1によってプリメーラ昇格を逃してしまった。
アトレティコ・マドリード退任以降は、レアル・サラゴサやレアル・バリャドリード、マラガCFを率いたが、2008年のグラナダ74CF解任以降は監督業から離れた[6]。
人物
編集- 実の父は1950年代のレアル・マドリードを支えたマルコス・アロンソ・イマスであり、実子のマルコス・アロンソ・メンドーサも同じくサッカー選手であり、現在はスペインのFCバルセロナに所属している[5]。また、イマス、ペーニャ、メンドーサの3人全員がスペイン代表に選出されたという記録も残している[5]。
エピソード
編集- 自身はアトレティコ・マドリードのサポータであり、妻の家族も全員がアトレティコサポーターだったことから、息子のマルコス・アロンソ・メンドーサをアトレティコの下部組織に入団させようとしたが、メンドーサはより高いレベルの指導を受けられるとしてレアル・マドリードの下部組織に加入した[8]。
個人成績
編集クラブ
編集- 2021年3月17日現在[9]
クラブ | シーズン | リーグ戦 | 国王杯 | UEFA大会 | その他 | 合計 | ||||||
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ディヴィジョン | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | ||
ラシン・サンタンデール | 1977-78 | プリメーラ | 17 | 1 | 5 | 0 | - | 0 | 0 | 22 | 1 | |
1978-79 | 34 | 4 | 8 | 2 | - | 0 | 0 | 44 | 6 | |||
クラブ通算 | 51 | 5 | 13 | 2 | - | 0 | 0 | 64 | 7 | |||
アトレティコ・マドリード | 1979-80 | プリメーラ | 29 | 1 | 10 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 40 | 3 |
1980-81 | 32 | 4 | 3 | 1 | - | 0 | 0 | 35 | 5 | |||
1981-82 | 29 | 5 | 4 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 35 | 4 | ||
クラブ通算 | 110 | 12 | 17 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 130 | 15 | ||
バルセロナ | 1982-83 | プリメーラ | 30 | 6 | 6 | 2 | 6 | 1 | 6 | 1 | 48 | 10 |
1983-84 | 34 | 12 | 5 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 44 | 12 | ||
1984-85 | 18 | 4 | 6 | 3 | - | 4 | 3 | 28 | 10 | |||
1985-86 | 16 | 5 | 3 | 0 | 9 | 1 | 0 | 0 | 28 | 6 | ||
1986-87 | 26 | 1 | 2 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 34 | 1 | ||
クラブ通算 | 124 | 28 | 22 | 5 | 26 | 2 | 10 | 4 | 182 | 39 | ||
アトレティコ・マドリード | 1987-88 | プリメーラ | 26 | 2 | 4 | 0 | - | 0 | 0 | 30 | 2 | |
1988-89 | 3 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 3 | 0 | |||
1989-90 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
クラブ通算 | 29 | 2 | 4 | 0 | - | 0 | 0 | 33 | 2 | |||
ログロニェス | 1989-90 | プリメーラ | 8 | 1 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 8 | 1 | |
ラシン・サンタンデール | 1990-91 | セグンダB | 7 | 3 | 0 | 0 | - | 5 | 0 | 12 | 3 | |
キャリア通算 | 309 | 49 | 56 | 10 | 29 | 2 | 15 | 4 | 409 | 65 |
代表
編集出場大会
- U-20スペイン代表
- 1979年 - FIFAワールドユース選手権 (ベスト8)
- U-23スペイン代表
- 1980年 - モスクワオリンピック (グループリーグ敗退)
- スペイン代表
- 1984年 - UEFA欧州選手権 (準優勝)
試合数
Aマッチ 22試合 1得点 (1981年 - 1985年)
スペイン代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1981 | 5 | 0 |
1982 | 2 | 0 |
1983 | 6 | 0 |
1984 | 1 | 0 |
1985 | 3 | 1 |
通算 | 22 | 1 |
得点
# | 日付 | 会場 | 対戦国 | 得点 | 結果 | 大会 |
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1. | 1985年6月12日 | ラウガルタルスヴェルル | アイスランド | 1–2 | 1–2 | 1986 FIFAワールドカップ・予選[10] |
タイトル
編集クラブ
編集- FCバルセロナ
- ラ・リーガ : 1回 (1984-85)
- コパ・デル・レイ : 1回 (1982-83)
- スーペルコパ : 1回 (1983-84)
- コパ・デ・ラ・リーガ : 2回 (1982-83, 1985-86)
- ラシン・サンタンデール
- セグンダ・ディビシオンB : 1回 (1990-91)
脚注
編集- ^ “When Bryan Robson tamed Barca”. BBCスポーツ (22 April 2008). 24 April 2014閲覧。
- ^ a b “Marcos Alonso, el tercero” (スペイン語). 2021年3月17日閲覧。
- ^ “La familia Alonso, pasado, presente y futuro” (スペイン語). Vavel. 2021年3月17日閲覧。
- ^ a b c d “Abuelo, padre e hijo: la saga Marcos Alonso continúa” (スペイン語). アス (2018年3月16日). 2021年3月17日閲覧。
- ^ a b c “Un caso único en España: así es la saga Marcos Alonso” (スペイン語). マルカ (2018年3月16日). 2021年3月17日閲覧。
- ^ a b c “¿Qué fue de Marcos Alonso? De Pichón a Puma” (スペイン語). スポルト (2018年3月8日). 2021年3月17日閲覧。
- ^ “Marcos Alonso Peña - Biografia” (スペイン語). 2020年8月28日閲覧。
- ^ “自分の成り立ち:マルコス・アロンソ”. チェルシーFC公式サイト (2019年4月10日). 2021年3月17日閲覧。
- ^ “Marcos Alonso - Career Path”. BDFutbol. 2021年3月17日閲覧。
- ^ “1–2: España cortó el bacalao [1–2: Spain got job done]” (スペイン語). Mundo Deportivo. (13 June 1985) 3 February 2015閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- マルコス・アロンソ家公式サイト
- マルコス・アロンソ - BDFutbolによる個人成績
- マルコス・アロンソ - Transfermarktによる個人成績
- マルコス・アロンソ・ペーニャ - National-Football-Teams.com
- マルコス・アロンソ – FIFA主催大会成績
- マルコス・アロンソ・ペーニャ - UEFA主催大会成績