フリードリヒ・カルクブレンナー

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ミヒャエル・カルクブレンナーFriedrich Wilhelm Michael Kalkbrenner1785年11月2-8日 - 1849年6月10日[1])は、イングランドフランスで人生の大半を過ごした、ドイツピアニスト作曲家であり、ピアノ教師、またピアノ製造者である。

 フリードリヒ・カルクブレンナー
Friedrich Kalkbrenner
基本情報
生誕 1785年11月2-8日
ドイツの旗 ドイツ
死没 (1849-06-10) 1849年6月10日(63歳没)
フランスの旗 フランスアンギャン=レ=バン
職業 作曲家、ピアニスト、ピアノ製作

概要

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ショパンタールベルクリストが現れるまで、カルクブレンナーはイングランド、フランスまたはヨーロッパ全土において、最も知られたピアニストであるとみなされていた[2]。強力なライバルはフンメルただ一人だった。カルクブレンナーは多作家であり、膨大な数のピアノ曲(全部で200曲以上になる)、ピアノ協奏曲、さらにはオペラも作曲した。

父親はカッセル出身のユダヤ系音楽家クリスティアン・カルクブレンナー英語版1755年1806年)。パリ音楽院で専門教育を受け、間もなく演奏活動に入る。1814年から1823年には、華麗な演奏家や名教師としてロンドンで名を揚げ、その後パリに戻る。1849年フランスアンギャン=レ=バンにて他界。

19世紀後半になるまで増刷を重ねた「ピアノ奏法の技法」(1831年)を記した彼は、大志を抱くヴィルトゥオーゾの工場[3]とまで呼ばれたパリに飛び込み、遠くは遥かキューバからやってきた数十の生徒たちを教えた。彼の最も優秀な生徒はマリー・プレイエル英語版カミーユ=マリー・スタマティであった。スタマティを通じて、カルクブレンナーのピアノ技法はゴットシャルクサン=サーンスへと受け継がれた。

イグナツ・プレイエルのピアノ製造会社に入社して、運良く事業と自分の芸術活動を両立させ、彼はこれにより非常に裕福となった。ショパンの《ピアノ協奏曲 第1番》はカルクブレンナーに献呈されている。カルクブレンナーはベートーヴェンの9つの交響曲をピアノ独奏用に編曲しているが、これはリストが同じ試みを行う何十年も前であった[4]。彼は両手での長く急速なオクターブパッセージを用いたが、今日では19世紀のピアノ曲の中で当たり前に見られるこの奏法は、彼が最初に自らの作品に取り入れたものである。

今日においてカルクブレンナーの名から思い出されるのは、彼の音楽ではなく、彼の行き過ぎた自信過剰ぶりだろう[5]。 彼はモーツァルト、ベートーヴェン、ハイドンの死後、自分こそがこの世に残った唯一の古典派作曲家だと信じて疑わず、またそれをはばかることなく世に知らしめようとした。つましい出自にもかかわらず、彼は終生貴族となる野望を捨てず、ロンドンパリで貴族階級の者たちと肩をすり合わせては悦に入っていた[6]。カルクブレンナーはもったいぶって、お堅く、大げさな礼儀作法を行う人物として記述されてしまうことには変わりないのであるが、その一方で知的で、商才のある極めて鋭い人物であったとも評される。彼は生前より様々な逸話に事欠かぬ人物で、ドイツの詩人であるハインリヒ・ハイネによって痛烈に風刺されている[7]。 カルクブレンナーほどに逸話や話題の多い作曲家というのも、そうそういないことだろう。

彼の膨大な作品は事実上ほとんど演奏される機会を失ってしまっているが、最近になって彼の小品をレパートリーとして取り上げるピアニストも現れ始めた。彼のピアノ協奏曲(1番と4番)の新録音[8]2005年にリリースされており、短縮版による1番の旧録音も現在まで入手可能である。2012年には2番と3番のピアノ協奏曲のCDがリリースされた[9]。ピアノ協奏曲の新録音は、いずれもハワード・シェリーの指揮とピアノ、タスマニア交響楽団の演奏によるものである。

ピアノ教師としてカルクブレンナーは、上腕の代わりにの力を保つ奏法を開発し、その技法を門弟カミーユ・スタマティに伝えた。スタマティの弟子がカミーユ・サン=サーンスである。作曲家としては、夥しい数の作品を残したにもかかわらず、今日では、ピアニストにとって必携の機械的練習曲のような指導書によって名を遺したにすぎない。

生涯

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出生と両親

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カルクブレンナーはクリスティアン・カルクブレンナーを父として生まれた。母親の名前は現在までわかっていない。伝えられるところによると、彼は母が郵便馬車カッセルからベルリンへと向かう旅の途中で生まれたという。カルクブレンナーの誕生日の正確な日付は定められないままとなってしまったが、これは彼の両親がそれを知らなかったからではなく、単に母が旅行中だったためにしかるべき届けを出せなかったことが原因であると考えられる。カルクブレンナーの父は1786年プロイセンの王妃であるフリーデリケ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットカペルマイスターに任用されようとしていた。このため、カルクブレンナーの母がポツダムの王宮でまもなく新しい任務に就こうとする夫に合流するため、ヘッセンからベルリンへの途上にあったのも頷ける。

1785-1789年 幼少期とベルリンでの最初の音楽教育

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カルクブレンナーにとって、父が最初の師となった。幼い彼の成長は目覚しいものだったに違いない。6歳になるまでには、彼はプロイセン王妃の御前でハイドンのピアノ協奏曲を演奏している。また、8歳の頃には4ヶ国語を流暢に話した。彼に施された教育は特別の、素晴らしく整えられたもので、また周囲の環境はポツダムとラインスベルク城という夢踊るようなものだったはずである。にもかかわらず、カルクブレンナーは終生にわたり当時のベルリンの労働階級の人びとに特徴的な、どぎついベルリン言葉を話したという[10]

1798-1802年 パリ音楽院時代

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1798年の終わり、カルクブレンナーはパリ音楽院へ入学した。彼はアルザス出身のピアニストであり作曲家であったルイ・アダンのピアノのクラスで学んだ。ルイ・アダンは、今日ではより有名となっているアドルフ・アダンの父ある。ルイ・アダンは45年にわたり、パリ音楽院で最も影響力のある教授であった[11]。フランス人のピアニストで、ピアノ科の教授であったアントワーヌ・マルモンテルによれば[12]、Louisは自分の生徒に対しバッハ、ヘンデルスカルラッティ、モーツァルト、クレメンティなどの偉大な先人たちの作品を勉強させたという。これは当時のピアノ教師の中では例外的なことであった。カルクブレンナーは和声と作曲をシャルル・シモン・カテルに師事した。彼はオペラとバレエの作品で知られるフェルディナン・エロルドと同窓生である。カルクブレンナーは成績優秀であった。1800年にピアノの二等賞を獲り(この時一等だったのはピエール・ジメルマンである)、翌年には一等賞を獲っている。1802年の終わりに、さらに勉強を続けるべくパリを離れウィーンに向かった時、彼はまだ完成された芸術家とは言えなかったが、その時までに彼は各分野で覚えある達人たちから、確かな教育を受けていたことになる。

1803-1806年 ウィーンでの学びとドイツ演奏旅行

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1803年の後半になって、カルクブレンナーはさらに研鑽を積むためウィーンへと赴いた。実のところなぜ彼がこうした行動に出たのかははっきりしないが、彼がウィーン古典派を代表する人物に教えを請うことによって、自分の修練の完成としようとしたのではないかと推測される。いずれにせよ、彼とってそれは容易いことだったに違いない。何しろ、彼自身が母語としてドイツ語を話せる上に、オーストリア首都でも音楽人として名の通った父の支えがあっただろうからである。

カルクブレンナーはウィーンでアルブレヒツベルガー対位法の講義を受けた。アルブレヒツベルガーはすでに高齢であったが、オーストリアの音楽理論界では最も高名な人物であり、同時に当時最高の対位法の作曲家であった。さらに、彼はベートーヴェン、ツェルニー、フンメル、モシェレスヴァイグルリースらの師であり、またハイドンの親しい友人でもあった。常に富と名声に目を向けていたカルクブレンナーのような者の履歴書に記載するにあたって、アブレヒツベルガー以外の誰の名なら、より印象的になるだろうか。対位法のレッスンを受ける傍ら、彼はハイドンやベートーヴェンが、彼の最大の宿敵であったフンメルと二重奏を行うのを何度も目にしている。こういう経緯が、カルクブレンナーが残りの人生において、自分自身を最後の古典派作曲家であると位置づけることに、お墨付きを与えたのである。彼は頑なに自分を古い楽派に置こうとした。その古い楽派とは、ベートーヴェン、ハイドン、リース、そしてフンメルの系譜である。

教育課程を修了したカルクブレンナーは、1805年から以降はコンサートピアニストとしてベルリン、ミュンヘンシュトゥットガルトに姿を現している。

1814-1823年 ロンドン時代 ピアニスト、教師、ビジネスマンとして

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1814年から1823年にかけて、カルクブレンナーはイングランドに住んでいた。彼は大いに演奏、かつ作曲し、またピアノ教師としての成功を確かなものにしていった。この地でビジネスマンとして抜け目のない人物だった彼は、John Bernald Logierによるある発明品に出会う。それはchiroplastもしくはhand guideと呼ばれるものであった。chiroplastはマホガニーの木でできた二つの平行レールから成る仕組みであり、脚の上においてピアノにゆるく固定して使用する。この装置は腕の縦方向への移動を制限することで、ピアノ初学者が正しい手の位置を(自ら気付いて)体得する補助器具であった。少年期にこの装置を使って稽古をしたサン=サーンスはこう述べている

「カルクブレンナーの方法論の序文は、最初に自分の発明に関して述べられており、これが実に興味深い。この発明は鍵盤の前に置かれる棒でできている。この棒の上に前腕を乗せることにより、手の動きを邪魔するようなあらゆる筋肉の動きを抑制した状態にして腕を休ませることが出来る。この仕組みはハープシコードや初期のピアノフォルテのように、少しの圧力で打鍵できる楽器のために書かれた曲をいかに演奏すべきか、若いピアニストに教えるにあたっては素晴らしいものだ。しかし、現代の作品や楽器には適していない[13]」。

便利かどうかは別としても、この珍妙な仕掛けは楽々と成功を収めたのであった。1870年代になっても、ロンドンではchiroplastを買って手に入れることが出来たという記録が複数あるほどだ。1817年にLogierはカルクブレンナーと組み、音楽理論とピアノ奏法を教える協会を設立した。もちろん、chiroplastの助けを借りてである[14]。この特許収入によってカルクブレンナーは金持ちになった。1821年にはモシェレスもまたロンドンに移り住んだ。モシェレスの力強く完成された演奏はカルクブレンナーに多大な影響を与え、彼はロンドンに居る時間を自分の技術をより磨くために使ったのだった[15]

1823-1824年 オーストリアとドイツでの演奏会

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1823年1824年に、カルクブレンナーはフランクフルト、ライプツィヒ、ドレスデン、ベルリン、プラハそしてパリで演奏会を行った。彼は行く先々で、盛大な拍手をもって迎えられた。より広く知られており、ピアニストとしてはカルクブレンナーと同等、そして作曲家としては格上のモシェレスがほぼ同時期に同じ都市を回ったことを考えると、これは大成功だったといえるだろう。この期間に、カルクブレンナーはディアベリのワルツによる変奏曲集への作曲を行っている。

1825-1849年 パリ時代 ピアニスト、教師、ピアノ製作者として

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カルクブレンナーは裕福になってパリに戻った。ここで彼はプレイエルのピアノ制作会社の出資者となった。この会社はカルクブレンナーが亡くなる時(1849年)までに、評判と生産高の点からエラールに次ぐ類を見ないものに成長した[16]。カルクブレンナーはドイツ生まれではあったが、当代のフランスピアノ界において五本の指に入るような実力者となっていた。1830年代が彼の絶頂期であった。彼のピアニスティックな実力はその頂点にあり、彼の超絶技巧1833年1834年1836年に訪れたハンブルク、ベルリン、ブリュッセルや他の都市でも熱狂を巻き起こしたのだ[17]。リストやタールベルクが頭角を現すようになって以降、カルクブレンナーの名声は翳っていった。彼は自分がピアニストとして失った評判を埋め合わせるように、自分よりずっと若い女性との幸せな結婚をした。彼女はアンシャン・レジームにおける貴族の遺産を受け継ぐ、裕福で名のあるフランスの令嬢であった。夫妻は貴族流に振舞うのを楽しみ、1830年代にブルボン王朝が復活したようなものとして出来る真似事はやり尽くした。彼はアンギャン=レ=バンでコレラに罹り、自ら治療を試みたものの1849年に他界した。

著名な門下生

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カルクブレンナーを同時代のテオドル・レシェティツキと同様の括りにするのは適切でないかもしれない。しかし、彼はごくわずかの生徒しか取らず、しかもその中から複数の優れたピアニストや、さらに作曲家としても活躍した者が出たのは事実である。カルクブレンナーの弟子の中でも輝く存在であった、スタマティに付いて学んだアラベラ・ゴダード英語版とカミーユ・サン=サーンスを通じて、カルクブレンナーの影響は20世紀の前半まで色濃く残っていたのである。以下がカルクブレンナーの著名な弟子の一覧である[18]

逸話

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ゴットシャルク:天才児(1828年)の父

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アメリカ人のピアニスト、作曲家である彼が、故郷のニューオーリンズからパリに来たのは1843年だけであったが、彼がこれを知ることになったのも偶然ではない。ゴットシャルクがパリのサロンで聞いたのであろうその話は、カルクブレンナーの豪快な人物像を語る数ある逸話のうちの一つである。彼は1864年カナダへの悲惨な演奏旅行の間、ホテルや列車の客室でパリを懐かしみながらこう記した。

「カルクブレンナーには息子がおり、彼はその子を自分の名声を継ぐ者にしたいと願っていた。しかし、息子は子どもの頃こそ天才的な才能を見せたものの、それを捨てて巨大な無能となってしまった。フランスの王宮の前で当時8歳の息子の即興演奏の自慢を吹聴したところ、王がその素晴らしい発想力を耳にしてみたいと所望なさった。子どもはピアノの前に座って数分演奏したが、突然パタリと中断して父親の方を振り返り、無邪気に言ったのだった。「パパ、この先を忘れちゃったよ―」[20]


ショパン:生徒になりかける(1831年)

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1831年の秋と冬の数週間の間、彼に熱狂したショパンは、真剣にカルクブレンナーの弟子になりたいと考えていた。しかしカルクブレンナーは、ショパンに自分の下で3年修行することを要求した。ショパンは自分が彼の下で学ぶべきかどうか熟考を重ね、それがショパンの故郷ポーランドとパリの間で行き交った書簡として残っている。

1831年11月27日、ワルシャワユゼフ・エルスネル(ショパンのピアノの師)からパリのショパンへ:君の手紙で、君が言うように一番のピアニストのカルクブレンナーが、君をそんなに親切に受け入れてくれようとしていると知って、私は嬉しいよ。私は彼の父と1805年のパリで知り合ったのだが、その時まだほんのちびっ子だった息子は、既に第一級のヴィルトゥオーゾとして有名だったものだ。彼が君を彼の芸術の不思議の中に導いてくれることを了承してくれるのは実に喜ばしいのだが、それに3年もの時間を要求したと聞いたのは驚きだった。彼は君に初めて会って演奏を聴いて、君が彼の方法論に順応するのにそれだけの時間がかかると考えたのだろうか。それとも君が自分の音楽的才能をピアノだけに捧げたがっているとか、君が作曲をピアノ曲だけにとどめたがっているとでも思ったのだろうか[21]
1831年12月14日、パリのショパンからワルシャワのヨゼフ・エルスネルへ3年もの修行というのはあまりに多すぎると、カルクブレンナー自身も私の演奏を数回聞いた後認めています。エルスネル先生、このことからわかるでしょう、あの本物のヴィルトゥオーゾには嫉妬心などかけらもないということを。もし私が思い描いているような結末になるのだと確信が持てるのであれば、私は3年の修行をすると決心できます。一つ、私の心の中で非常に明確なことがあります。「自分はカルクブレンナーのコピーにはならない」ということです。彼は新しい芸術の時代を作るという、大胆かもしれませんが誠実な私の結論を壊すべきではありません。もし私が今、これ以上のレッスンを受けるとしても、それは将来私が独立できるようになるというだけのことです[22]
1831年12月16日、パリのショパンからポーランドのTitus Woyceichowskiへ:私は自分がカルクブレンナーと同じくらい上手く弾けていると言えたら、と思います。彼はパガニーニとは全く別の形で完璧です。カルクブレンナーの魅力的なタッチ、静かさ、そして演奏の技量は筆舌に尽くしがたいものです。どの音符からも彼が大家であることが伝わってきます。彼は真に巨大で、他のどの芸術家も小さくしぼんで見えるのです。・・・私はカルクブレンナーの演奏を大いに楽しみました。彼は私に弾いて聞かせているとき、止まってしまうほどのミスを犯したのですが、そこからの軌道修正は実に見事なものでした。その時会って以来、私たちは毎日のように会っています。彼が私の元へ来ることもあれば、私が行くこともあります。彼は私に3年間自分の下で修行すれば、偉大な芸術家にしてやると提案してきました。私は自分の至らない点はよく分かっていますが、あなたの真似はしたくありませんし、3年間は私にとっては長すぎます、と返事をしました[23]。・・・ですが、多くの友人たち[24] は私に、レッスンを受けない方がいいと助言してきました。彼らは、私がカルクブレンナーと同様に上手く演奏できるし、彼は虚栄心から私を弟子にしたいだけだと考えています。おかしなことです。カルクブレンナーは誰とでも関わろうとするわけではないので、人としてはさほど慕われているわけではありません。しかし音楽を解するものであれば、誰もが彼の才能を認めなければならないはずです。彼には、私がこれまで聴いたヴィルトゥオーゾ達の誰よりも優れた点があると保証します。私は両親に同じことをいいましたが、二人ともよくわかってくれました。しかしエルスネル先生はダメでした。彼は、カルクブレンナーが嫉妬心から私の演奏のあら探しをするのだと考えています[25]

チャールズ・ハレ:生徒になりかける(1836年)

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独、英国系のピアニスト、指揮者でハレ管弦楽団の創始者であるチャールズ・ハレは、17歳の少年期にカルクブレンナーの元を訪れレッスンについて問い合せた。当初、彼は本気でカルクブレンナーの弟子になりたいと思っていたのであるが、その有名人に実際出会うと気持ちが変わってしまった。

カルクブレンナーとフンメルは当時偉大なピアニストであると認知されていたし、数年前にはショパンすらカルクブレンナーに弟子入りしたいとパリを訪れていた。だから私は非常にビクビクしながら彼に会いに行って、彼にもう弟子を取るつもりはないといわれた時は大きなショックを受けた。しかし、彼は私に何か弾いてみろと言って、その演奏に注意深く耳を傾けた後、私に何点か不快な指摘をして彼の弟子の一人のレッスンを受けた方がいいと助言してきた。私が帰ろうとする頃、彼は参考になるだろうからと言って演奏して聴かせてくれるという。私は是非にとお願いし、彼が座って自作を弾き始めるのをワクワクして見ていた。しかし"Le Fou"というその作品はこれまでの中でもいかにもありがちで凡庸の極みだった。私は彼のスケールやレガートの華麗さと美しさを賞賛しはしたものの、それ以外には期待以下だった彼の演奏に惹かれる要素はなかったし、ミスタッチをいくつか見つけて不思議に思っていた。

クララ・シューマン:「甘い微笑み」(1839年)

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作曲家ロベルト・シューマンの妻であり、自身も傑出したピアニストであり作曲家でもあったクララ・シューマンは、1839年に数ヶ月パリで過ごしていた。彼女は何人ものパリ在住のピアニストに会っており、カルクブレンナーもその一人であった。彼女は実家にいる、父でピアノ教師であったフリードリヒ・ヴィークに宛てた手紙にこう綴っている。

昨日カルクブレンナーの六重奏曲が演奏されたのですが、ひどい出来で、つまらない、くだらない、霊感のかけらもないような作品でした。もちろんカルクブレンナーは甘い微笑をたたえて最前列に陣取り、自分自身とその創作にすっかり満足していましたが。彼は常にこう言っているかのようです。「おお神よ、私と全ての人類はあなたに感謝いたします。私のような頭脳を与えてくださったことを」(Probstの言ってることと解釈って、結構当たってませんか)[26]

ハイネ:「泥に落ちたボンボン菓子」

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ドイツ人の詩人で風刺家のハインリヒ・ハイネはLetters on Music from Paris(1840-1847)の中で、フランスの首都での音楽体験と音楽家についてウィットを効かせて書き記している。カルクブレンナーはハイネの有名な風刺の中で何回か槍玉にあげられている。

カルクブレンナーはこの冬、ある弟子の演奏会に再び姿を現した。彼の口元にはやはり、最近博物館で目にしたあるエジプトのパラオのミイラと同じように、保存処理されたかのような爽やかな微笑みがあった。25年越しにカルクブレンナーは最近ロンドンを訪れ、彼が最初に成功を収めたその地で、偉大な名声の実りを摘み取ってきた。彼が首を折らずに帰ってこれてよかった。これで、カルクブレンナーが長い間イングランドを避けていたのは、そこに二重婚の不貞罪が絞首刑になるという危ない法律がはびこっているからだという、おかしな話をもう信じなくてもよくなった[27] 。Koreffは小奇麗なほど機智に富んだ様子でこう言った。彼は泥の中に落ちてしまったボンボン菓子のようだ、と[28]

マルモンテル:無料の魚(1844年)

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ある日、カルクブレンナーは名士会のある一団に夕食を振舞ったが、その中には著名な芸術家も何人か含まれていた。最初の一品の立派な魚がゲスト達の目を引いた。彼らはカルクブレンナーに、どこでこんな美しい食材を手に入れたのかたずねた。カルクブレンナーは嬉しくなって喋りすぎてしまった。彼はその朝、自らパリの有名な市場に最高の新鮮な魚を探しに行ったそうだ。今ゲストが食している魚に目をつけたのは良かったが、魚屋がすでにそれをある司祭のお付の料理人に譲る約束をしたと知って悲しみに沈んだという。途方にくれたカルクブレンナーだったが、カードを引き当てた。それを魚屋に手渡そうとした時、その妻が叫んだのだ。まぁ、あなたはあの有名な巨匠のカルクブレンナーじゃない!こうなったらこの魚はあなたに譲るわ、お代も一切いただかなくてもいいから[29]

ゴットシャルク:「古典的作品」(1845年)

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アメリカ人のピアニスト、ゴットシャルクはカルクブレンナーの代理教師であり、彼の方法論を受け継ぐスタマティの弟子だった。ゴットシャルクがサル・プレイエルでショパンのピアノ協奏曲第一番を弾いてデビューした時、カルクブレンナーも客席にいた。演奏会の後、ショパンが楽屋に来てゴットシャルクの成功を称えた。カルクブレンナーは自分のような偉人がまだデビューしたての者に会ってやるのだから、自分が楽屋に行くのではなく、ゴットシャルクが自ら自分に会いに来るようにと言った。ゴットシャルクは義理堅くも、翌日その言葉に従った。その彼らの思い出深い出会いについて、ゴットシャルクは以下のように語っている。

1844年[30]まだ若かった私は、パリで当時有名だったピアニストを皆招待して夜会を行い、その中にはカルクブレンナーもいた。私はショパンのピアノ協奏曲第一番ホ短調、タールベルクの"セミラーミデによる幻想曲"、リストの"悪魔ロベールによる幻想曲"を弾いた。翌日私は聴きにきてくれたことへの感謝の意を伝えるため、カルクブレンナーの元を訪れた。この気配りにより、新しい楽派がものを知ろうとすることを許さなかった、この普段気難しい性質の老ピアニストをいくらか懐柔することが出来た。彼は私の手を取り、恩着せがましくこう言った。「表現はいい。他には何も驚くべきところはないな。君は私の孫だ(彼の弟子であるStamatyのことを暗に言っている)。しかし、お願いだ、誰があんな音楽を弾くように言ったのかね。ショパンだなんて!私は君を許しはしないぞ。だが、リストとタールベルク、なかなかの狂詩曲だな!ところでなぜ私の作品を演奏しなかったのかね。どの曲も美しいし、誰もが喜ぶ、それに古典的だぞ。」[31]

出典

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  1. ^ (Walther Killy 1999), p. 413.
  2. ^ 1831年9月18日にショパンはこう書いている。私はヨーロッパで一番のピアニストのカルクブレンナーと親しい間柄となりました。あなたも彼のことを気に入ることでしょう。(Chopin 1931), p. 152. また1831年12月12日にはショパンはこうも書いているここの宮廷指揮者であるPearを通じて、私はロッシーニケルビーニバイヨ等に出会いました。カルクブレンナーもその一人です。あなたは私がどれほど、エルツ、リスト、ヒラーらに関心を持っているか信じられないかもしれません。 - 「彼らはカルクブレンナーの隣に並べたらいないも同然です」 (Chopin 1931), p. 154.
  3. ^ (Starr 1995), p. 176.
  4. ^ リストはカルクブレンナーの版を真面目に見て、彼の出版社であるブライトコプフ・ウント・ヘルテルにこう書き送った。親切な手紙をお送りくださり、誠にありがとうございます。これまでのところ、私の最も心地よい仕事上の関係は、ドイツで親切にも私の作品の大半を出版してくださったホフマイスター氏以外との間にはありませんでした。ザクセン州における文学と音楽の個人事業に関する法律を知らないものですから、彼に私が編曲を企画したベートーヴェンの交響曲集、より正確に言えばピアノ譜なのですが、の話をしました。なのですが、実のところ、問題が生じています。私は自分の編曲がこれまで発表されている同種のものより、たとえ優れているとは言えないとしても、十分に趣向の異なるものであると考えているのですが、この考えが正しいかどうかという問題です。最近カルクブレンナー氏編曲による同じ交響曲集が出版され、私は自分のものがカタログには残り得ないんではないかと懸念しております。私は楽譜に楽器指定を書き込むのみならず、指番号を指定することにも注意を払い、自分の版をより完全なものとしようと考えています。(Liszt 1894), p. 22. Italics added.
  5. ^ これはおそらくゴットシャルクが最初に言い始めたことだろう。完璧なまでの彼(カルクブレンナー)の作法の優美さ、上品さ、そして才能が彼に社会での成功をもたらした。しかし、彼はその折り紙つきのひどいうぬぼれによって、やがて支持を失ってしまったのだ。 (Gottschalk 2006), p. 220. この意見はショーンバーグによって、100年以上経ってから再び取り上げられた。しかしカルクブレンナーはより表面的な音楽家であり、加えて並外れた虚栄心に満ちたブルジョワ紳士であった。 (Schonberg 1984), p. 118.
  6. ^ マルモンテルはこう記している。カルクブレンナーには、これさえなければ礼儀正しい素晴らしい人物なのにという、もう一つ弱点がある。それは彼は自分を偉い貴族だと考えていることだ。彼の英仏の貴族と親しく付き合う習慣は、彼の第2の天性となっている。彼はそれをさも当然のことのように話すので、こちらは驚いてしまう。 (Marmontel 1878), p. 105.
  7. ^ ハイネは彼のことを泥に落ちたボンボン菓子と呼んだ (Heine 1893), p. 277.
  8. ^ Hyperion recording of Kalkbrenner's 1st & 4th Piano Concerto
  9. ^ Hyperion recording of Kalkbrenner's 2nd & 3rd Piano Concerto
  10. ^ このことはカルクブレンナーを知る、ハイネとヒラーにより十分に記述されている事実である。ドイツの新興階級(Stockfiscke)は「魚の話」のようなものに悩まされており(訳注:新興貴族はcodfish aristocrats、つまり魚のタラの貴族と記述されている)、カルクブレンナー氏のように自らを売り込むことが出来ていない。こういうことで、彼らは彼の優美な表情、彼の賞賛すべき素晴らしい装い、彼の輝きと甘美さ、彼の甘い砂糖ケーキのような外面をうらやむわけであるが、しかし、それは多数の「無意識に出てしまう最下層のベルリン言葉」と不快な軋みを立てるのである・・・。 (Heine 1893), pp. 386-87.
  11. ^ (Marmontel, 1878), p. 238.
  12. ^ (Marmontel 1878), pp. 236-243. マルモンテルはこう記している。彼は息子たちが異なる芸術分野に裁縫を発揮する一方、音楽院の自分のピアノのクラスでの利己的な情熱に身を投じていた。そこで彼は自分自身を形作ってきた過去の偉大な巨匠たちの大いなる伝統、深遠な知識そして論理的によく練られた学習法を守ろうとしたのである。巨匠とはバッハ、モーツァルト、クレメンティである。(Marmontel 1878), p. 239.
  13. ^ (Saint-Saëns 1919), pp. 8–9.
  14. ^ (Weitzmann 1897), pp. 150–51.
  15. ^ (Weitzmann 1897), p. 151.
  16. ^ (Ehrlich 1990), p. 117.
  17. ^ (Weitzmann 1897), pp. 151-52.
  18. ^ (Slonimsky 1958), 関係書物を参照されたし
  19. ^ a b (Schonberg, 1984) p. 251.
  20. ^ (Gottschalk 2006), p. 221.
  21. ^ (Karasowski 1881?), pp. 233-34. 斜体は追加したもの
  22. ^ (Karasowski 1881?), pp. 238-38. 斜体は追加したもの
  23. ^ (Karasowski 1880?), pp. 243-44
  24. ^ ここでいう友人にはメンデルスゾーンや、おそらくリストも同じく含まれるものと思われる
  25. ^ (Karasowski 1881?), pp. 243. 斜体は追加したもの
  26. ^ (Litzmann 1913), p. 209. 斜体は追加したもの
  27. ^ (Heine 1893), pp. 384-85
  28. ^ (Heine 1893), p. 387. 斜体は追加したもの
  29. ^ (Marmontel 1878), pp. 105-06.
  30. ^ (Gottschalk 2006), p. 220. ピアニスト、音楽学者であり、ゴットシャルクの「ピアニストの音符たち」の編集者であったJeanne Behrendが指摘する通り、その演奏会は1845年、ゴットシャルクが16歳の時に行われたものだ
  31. ^ (Gottschalk 2006), pp. 220-21.

参考文献

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  • Chopin, Frédéric. Chopin's Letters. Unabridged and slightly corrected Dover Reprint (1988) of the original Knopf Edition. Edited by E.L. Voynich. New York: Alfred A. Knopf, 1931. ISBN 0-486-25564-6
  • Gottschalk, Louis Moreau. Notes of a Pianist. Reprint of the 1964 edition, ed. Jeanne Behrend, with a New Foreword by S. Frederick Starr. Princeton: Princeton University Press, 2006. ISBN 0-691-12716-6
  • Hallé, C.E. Hallé and Marie. Life and Letters of Sir Charles Hallé. London (GB): Smith, Elder, & Co., 1896.
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  • Saint-Saëns, Camille. Musical Memoirs. Newly annotated edition by Roger Nichols. Oxford (GB): Oxford University Press 2008. ISBN 0-19-532016-6
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  • Weitzmann, C. F. A History of Pianoforte-Playing. 2nd augmented and revised edition. Translated by Dr. Th. Baker. New York: G. Schirmer, 1897.

外部リンク

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  • フリードリヒ・カルクブレンナーの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
  •   この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Kalkbrenner, Friedrich Wilhelm". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 15 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 642-643.