バヤン・ブカ・テギン(Bayan buqa tigin、? - 1359年)は、大元ウルス末期に活躍した天山ウイグル王国の王族。

概要

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バヤン・ブカ・テギンはかつての天山ウイグル王国の王族の末裔で、幼い頃から学問を好む人物であった。バヤン・ブカ・テギンが世に出た頃、大元ウルスでは紅巾の乱が横行しており、バヤン・ブカ・テギンは義兵を率いてこれを討伐し1356年至正16年)には衢州路ダルガチとされた[1]

1358年(至正18年)2月、江西陳友諒が20万の大軍を率いて信州に侵攻し、これを聞いたバヤン・ブカ・テギンは信州を救うため出兵した。1359年(至正19年)正月、バヤン・ブカ・テギンが信州に辿り着くと、城中のダイシンヌ(鎮南王トガンの曾孫)らは門を開き反乱軍を退けて城内に迎え入れた。バヤン・ブカ・テギンは城内に入ると城壁に登り、四方を見渡して決して賊の侵入は許さないと誓ったという。数日後、賊軍が攻撃を始めるとバヤン・ブカ・テギンは自ら指揮を執り、中軍を率いるクト・ブカらの奮戦もあって撃退に成功した[2]

同年2月、陳友諒の弟の陳友徳は城の東に陣営を築いて攻城を進め、また一方では周伯嘉を派遣して城内の将軍の内応を狙った。城中では高義が賊軍と密かに通じ、高義の手引きでクト・ブカは賊軍に捕らえられてしまった。その後、高義はバヤン・ブカ・テギンも同様に処分しようと図ったが、城壁の上に座していたバヤン・ブカ・テギンは高義の計画を見抜き、その罪を数えて斬り殺した。しかし、この頃から矢や食料が底をつき始め、城中の士気は下がっていった[3]

4月、城下に「皇帝から投降せよとの命令(詔)が下った」と述べて投降を薦める者が現れたが、バヤン・ブカ・テギンはすぐに発言の矛盾を指摘し投降を拒否した。一方、既に城中の食料は完全に尽き、城民は茶や紙を口にし、靴底を煮て食べ、弱った老人を殺して食料とするという惨憺たる有様となっていた。5月にはなんとか賊軍を撃退したが、6月には遂に賊軍による総攻撃が始まった。バヤン・ブカ・テギンは再び城壁に登って防戦を指揮したものの、既に食料の尽きた城兵は力を発揮できず、遂に城は陥落した。ダイシンヌら指揮官たちは皆この時死に、バヤン・ブカ・テギンもまた自刎した[4]

忠義を全うして戦死したバヤン・ブカ・テギンを讃え、『元史』では巻195忠義伝3に立伝されている[5][6]

天山ウイグル王家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻195列伝82忠義3伯顔不花的斤伝,「伯顔不花的斤、字蒼崖、畏吾児氏、駙馬都尉・中書丞相・封高昌王雪雪的斤之孫、駙馬都尉・江浙行省丞相・封荊南王朶爾的斤之子也。倜儻好学、曉音律。初用父廕、同知信州路事、又移建徳路。会徽寇犯遂安、伯顔不花的斤将義兵平之、又擒淳安叛賊方清之、以功陞本路総管。至正十六年、授衢州路達魯花赤。明年、行枢密院判官阿魯灰引兵経衢州、軍無紀律、所過輒大剽掠。伯顔不花的斤曰『阿魯灰以官軍而為民患、此国賊也、可縦之乎』。乃帥兵逐之出境、郡頼以寧。陞浙東都元帥、守禦衢州。頃之、擢江東道廉訪副使・階中大夫」
  2. ^ 『元史』巻195列伝82忠義3伯顔不花的斤伝,「十八年二月、江西陳友諒遣賊党王奉国等、号二十万、寇信州。明年正月、伯顔不花的斤自衢引兵援焉。及至、遇奉国城東、力戦、破走之。時鎮南王子大聖奴・枢密院判官席閏等屯兵城中、聞伯顔不花的斤至、争開門出迎、羅拜馬前。伯顔不花的斤登城四顧、誓以破賊自許。後数日、賊復来攻城、伯顔不花的斤大饗士卒、約曰『今日破賊、不用命者斬』。乃命大都閭将阿速諸軍及民義為左翼、出南門;高義・范則忠将信陽一軍為右翼、出北門;自与忽都不花将沿海諸軍為中軍、出西門。部伍既整、因奮撃入賊営、斬首数千級、賊乱、幾擒奉国。適賊将突至、我軍入其営者咸没、其勢将殆、忽都不花復勒兵力戦、大破之」
  3. ^ 『元史』巻195列伝82忠義3伯顔不花的斤伝,「二月、友諒弟友徳営於城東、繞城植木柵、攻我益急。又遣偽万戸周伯嘉来説降、高義潜与之通、詒忽都不花等、謂与奉国相見則兵釁可解。忽都不花信之、率則忠等十人往見、奉国囚之不遣。明日、奉国令高義以計来誘伯顔不花的斤、時伯顔不花的斤坐城上、見高義単騎来、伯顔不花的斤謂曰『汝誘十帥、無一人還、今復来誘我耶。我頭可断、足不可移』。乃数其罪、斬之。由是日夜与賊鏖戦、糧竭矢尽、而気不少衰」
  4. ^ 『元史』巻195列伝82忠義3伯顔不花的斤伝,「夏四月、有大呼於城下者、曰『有詔』。参謀海魯丁臨城問之曰『何来』。曰『江西来』。海魯丁曰『如此、乃賊耳。吾元朝臣子、可受爾偽詔乎』。呼者曰『我主聞信州久不下、知爾忠義、故来詔。爾徒守空城、欲何為耶』。海魯丁曰『汝聞張睢陽事乎』。偽使者不答而去。伯顔不花的斤笑曰『賊欲我降爾。城存與存、城亡與亡、吾計之熟矣』。時軍民唯食草苗茶紙、既尽、括靴底煮食之、又尽、掘鼠羅雀、及殺老弱以食。五月、大破賊兵。六月、奉国親来攻城、晝夜不息者逾旬。賊皆穴地百餘所、或魚貫梯城而上。伯顔不花的斤登城、麾兵拒之。已而士卒力疲、不能戦、万戸顧馬児以城叛、城遂陥。席閏出降、大聖奴・海魯丁皆死之、伯顔不花的斤力戦不勝、遂自刎。其部将蔡誠、尽殺妻子、及蒋広奮力巷戦。誠遇害死、広為奉国所執、愛広勇敢、使之降、広曰『我寧為忠死、不為降生。汝等草中一盗爾、吾豈屈汝乎』。賊怒、磔広於竿、広大罵而絶。有陳受者、信小民也。伯顔不花的斤知受有膂力、募為義兵。尋戦敗、為賊擒、痛罵不屈、賊焚殺之」
  5. ^ 『元史』巻195列伝82忠義3伯顔不花的斤伝,「先是、伯顔不花的斤之援信州也、嘗南望泣下、曰『我為天子司憲、視彼城之危急、忍坐視乎。吾知上報天子、下拯生民、餘皆無可恤。所念者、太夫人耳』。即日入拜其母鮮于氏曰『児今不得事母矣』。母曰『爾為忠臣、吾即死、復何憾』。鮮于氏、太常典簿枢之女也。伯顔不花的斤因命子也先不花、奉其母間道入福建、以江東廉訪司印送行御史台、遂力守孤城而死。朝廷賜諡曰桓敏」
  6. ^ 周2001,132-135頁

参考文献

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  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 元史』巻122列伝9
  • 新元史』巻109列伝13