衢州
概要
編集621年(武徳4年)、唐が李子通を平定すると、東陽郡信安県に衢州が置かれた。625年(武徳8年)、衢州は廃止され、婺州に編入された。686年(垂拱2年)、再び衢州が置かれた。742年(天宝元年)、衢州は信安郡と改称された。758年(乾元元年)、信安郡は衢州の称にもどされた。衢州は江南東道に属し、信安・竜丘・盈川・須江・常山の5県を管轄した[1]。
宋のとき、衢州は両浙路に属し、西安・竜游・江山・常山・開化の5県を管轄した[2]。
1276年(至元13年)、元により衢州は衢州路総管府と改められた。衢州路は江浙等処行中書省に属し、録事司と西安・竜游・江山・常山・開化の5県を管轄した[3]。1359年、朱元璋により衢州路は衢州府と改められた。
明のとき、衢州府は浙江省に属し、西安・竜游・江山・常山・開化の5県を管轄した[4]。