オグルンチ・テギン(玉古倫赤的斤/Ögrünč tigin、生没年不詳)は、モンゴル帝国ウイグル王国の王(イディクート[1]

元史』などの漢文史料では玉古倫赤的斤(yùgǔlúnchì dejīn)、『世界征服者史』などのペルシア語史料ではاوکنج(ūknchī)と記される。前者に基づいて「ユグルンチ」、後者に基づいて「ウグンチュ」とも表記される[2]が、原音は「歓喜」を意味するÖgrünčであると考えられている[3]

生涯

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バルチュク・アルト・テギンの子として生まれる。

1252年、兄であるイディクート(ウイグル国王)のサランディ・テギンが領内のイスラム教徒を虐殺しようとしているという冤罪をかけられ、モンゴル帝国のもと公衆の面前で処刑された。これを機にモンケ・カアンはウイグル王国内のオゴデイ派を一掃し、その上でオグルンチにウイグル王国のイディクート位を授与した。

オグルンチが死去すると、子のマムラク・テギン(馬木剌的斤)が後を継いだ[4][5]

天山ウイグル王家

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脚注

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  1. ^ イディクート(Īdï Qūt、亦都護)とは天山ウイグル王国の王号である。テュルク語でïdïqとは「神から贈られた」「至福の」「神聖な」という意味で、qūtとは「息」「魂」「生命」から転じて「幸福」「吉祥」という意味である。バルトールドによるとこの称号はバシュキル族の首長の名でそれを受け継いだものだという。<村上 1976,p84>
  2. ^ 『モンゴル帝国史2』p293
  3. ^ 劉1984,p.81
  4. ^ 佐口 1968,p292 - 293
  5. ^ 『新元史』巻116列伝13巴而朮阿而忒的斤亦都護伝,「命其弟玉古倫赤的斤代立。憲宗方有慊于太宗子孫、凡太宗旧人在畏兀児者、縁此斥逐殆尽。玉古倫赤的斤卒、子馬木剌的斤嗣」

参考文献

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  • 佐口透訳注 ドーソン『モンゴル帝国史 2』平凡社、1968年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
  • 劉迎勝・Kahar Barat「亦都護高昌王世勲碑回鶻文碑文之校勘与研究」『元史及北方民族史研究集刊』8、1984年
先代
サランディ・テギン
天山ウイグル王国の国王
1252年 - ?年
次代
マムラク・テギン