テムル・ブカ (高昌王)
テムル・ブカ(Temür buqa、生没年不詳)は、14世紀中に活躍した大元ウルスの準王族(キュレゲン)。本来は天山ウイグル王国の君主(イディクート)であるが、祖父・父の時代にカイドゥの侵攻によって本領(ウイグリスタン)を失ってしまったため、大元ウルスにおいて準王族として活動した。
概要
編集テムル・ブカはモンゴル帝国に臣従した天山ウイグルの君主バルチュク・アルト・テギンの末裔にあたるが、天山ウイグル王国は父のネウリン・テギンの治世にカイドゥの侵攻によって失われ、王家は永昌路に移住していた。テムル・ブカはネウリン・テギンと第2代皇帝オゴデイの孫娘のバブシャとの間に生まれ、テムル・ブカ自身はコデン(オゴデイの息子の一人)の孫娘のドルジスマンを娶った。クルク・カアン(武宗カイシャン)の治世にテムル・ブカは父とともにカアンに謁見し、その親衛隊(ケシクテイ)に入った。父が永昌路で亡くなったとの報が届くと、叔父のキプチャクダイに高昌王位を譲ろうとしたが、キプチャクダイがこれを固持したため、テムル・ブカが高昌王位を継ぐことになった。
ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の治世には永昌路の属する甘粛行省の諸軍を統べていたが、イェスン・テムル・カアン(泰定帝)の治世には威順王コンチェク・ブカらとともに襄陽での駐屯を命じられ、同時に湖広行省の平章政事に任じられた。天暦の内乱を経てジャヤガトゥ・カアン(トク・テムル)が即位すると今度は中央に召還され、以後中央でジャヤガトゥ・カアンの治世を補佐した。その後、ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の治世まで健在であったが、時の権力者バヤンの起こした疑獄事件によってモンケ王家のチェチェクトゥとともに罪なくして殺されてしまった[1][2]。
子孫
編集『元史』にはテムル・ブカの息子について何も記されていないが、宋濂の「故懐遠将軍同知指揮使事和賞公墳記」などによるとテムル・ブカにはブダシリ(不答失里/Budaširi)という息子がおり、時期は不明であるが高昌王位を継いだという[4]。ブダシリは、先祖同様にチンギス・カンの一族のアカ・エセン・クト公主(阿哈也先忽都/Aqa esen qutu)を娶っている[5]。
また、ブダシリの息子と見られる「高昌王和尚」なる人物が、1370年(洪武3年)に明朝に投降したことが『明実録』に記録されている[6]。時期から見て、この「高昌王和尚」こそが最後の高昌王だったとみられる[4]。
天山ウイグル王家
編集- ヨスン・テムル(Üsen temür >月仙帖木児/yuèxiān tièmùér)
- バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin >巴而朮阿而忒的斤/bāérzhú āértè dejīn,بارجق/bārjūq)
- キシュマイン(Kišmain >کیشماین/kīshmāīn)
- サランディ・テギン(Salandi tigin >سالندی/sālandī)
- オグルンチ・テギン(Ögrünč tigin >玉古倫赤的斤/yùgǔlúnchì dejīn,اوکنج/ūknchī)
- マムラク・テギン(Mamuraq tigin >馬木剌的斤/mǎmùlà dejīn)
- コチカル・テギン(Qočqar tigin >火赤哈児的斤/huǒchìhāér dejīn)
- ネウリン・テギン(Neülin tigin >紐林的斤/niǔlín dejīn)
- キプチャクタイ(Qipčaqtai >欽察台/qīnchátái)
- イル・イグミシュ・ベキ(Il yïγmïš begi >也立亦黒迷失別吉/yělì yìhēimíshī biéjí)
- ソソク・テギン(Sösök tigin >雪雪的斤/xuěxuě dejīn)
- ドルジ・テギン(Dorǰi tigin >朶児的斤/duǒér dejīn)
- バヤン・ブカ・テギン(Bayan buqa tigin >伯顔不花的斤/bǎiyán bùhuā dejīn)
- ドルジ・テギン(Dorǰi tigin >朶児的斤/duǒér dejīn)
- コチカル・テギン(Qočqar tigin >火赤哈児的斤/huǒchìhāér dejīn)
- マムラク・テギン(Mamuraq tigin >馬木剌的斤/mǎmùlà dejīn)
- バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin >巴而朮阿而忒的斤/bāérzhú āértè dejīn,بارجق/bārjūq)
脚注
編集- ^ 『庚申外史』巻上,「辛卯至正十一年……于是起大獄、以謀害大臣、置前相高昌王益都忽並韓家奴于死地」
- ^ 『南村輟耕録』巻8,「岷江太師伯顔擅権之日、剡王徹徹都・高昌王帖木児不花、皆以無罪殺」
- ^ 『元史』巻122列伝9巴而朮阿而忒的斤伝,「子二人、長曰帖木児補化、次曰籛吉、皆八卜叉公主所生也。帖木児補化、大徳中、尚公主曰朶児只思蛮、闊端太子孫女也。至大中、従父入覲、備宿衛。又事皇太后於東朝、拜中奉大夫、領大都護事。又以資善大夫出為鞏昌等処都総帥達魯花赤。奔父喪於永昌、請以王爵讓其叔父欽察台、叔父力辞、乃嗣為亦都護高昌王。至治中、領甘粛諸軍、仍治其部。泰定中召還、与威順王寛󠄁徹不花、宣靖王買奴・靖安王闊不花分鎮襄陽。俄拜開府儀同三司・湖広行省平章政事。文宗召至京師、佐平大難。時湖広左丞有以忌嫉害政者、詔命誅之。帖木児補化乃為申請曰『是誠有罪、然不至死』。人服其雅量。天暦元年、拜開府儀同三司・上柱国・録軍国重事・知枢密院事。明年正月、以旧官勲封拜中書左丞相。三月、加太子詹事。十月、拜御史大夫。其弟籛吉乃以譲嗣為亦都護高昌王」
- ^ a b 劉1984,104頁
- ^ 劉1984,106頁
- ^ 『明太祖実録』洪武三年八月丙寅(十日)「故元高昌王和尚・岐王桑哥朶児只班、以其所部来降」
参考文献
編集- 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 劉迎勝・Kahar Barat「亦都護高昌王世勲碑回鶻文碑文之校勘与研究」『元史及北方民族史研究集刊』8、1984年
- 『元史』巻122列伝9
- 『新元史』巻109列伝13
- 『蒙兀児史記』巻36列伝18
- 『庚申外史』巻上
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