トロンプ (軽巡洋艦)
トロンプ (オランダ語: Hr. Ms. Tromp) は[注釈 1]、オランダ海軍の軽巡洋艦[3][注釈 2]。 トロンプ級軽巡洋艦の一番艦(ネームシップ)で[4]、姉妹艦はヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク (Hr. Ms. Jacob van Heemskerck) [注釈 3]。 艦名は、八十年戦争や英蘭戦争を戦ったマールテン・トロンプ提督と、その息子であるコーネリス・トロンプ提督にちなんで名付けられた[注釈 4]。
基本情報 | |
---|---|
建造所 | オランダ造船[1] |
運用者 | オランダ海軍[1] |
艦種 | 軽巡洋艦[1] |
級名 | トロンプ級軽巡洋艦[1] |
艦歴 | |
起工 | 1936年1月17日 |
進水 | 1937年5月24日 |
就役 | 1938年8月18日[1] |
退役 | 1955年12月1日 |
除籍 | 1958年12月[1] |
要目 | |
排水量 | 基準:3,787トン(新造時)[1] |
全長 | 132.0m[1] |
最大幅 | 12.4m |
吃水 | 4.8m |
機関 |
ヤーロー重油専焼缶4基+パーソンズ・ギヤードタービン2基2軸推進 最大出力:56,000軸馬力[1] |
最大速力 | 33.5ノット[1] |
乗員 | 380名 |
兵装 |
15cm(50口径)連装砲×3基 7.6cm高角砲×4門 ボフォース40mm連装機関砲×2門 エリコンKA 20mm単装機関砲×6門 533mm 三連装魚雷発射管×2基 爆雷投下軌条×2条 |
搭載機 | フォッカー C.XI水上機×1機 |
艦歴
編集トロンプはアムステルダムのオランダ造船で建造された[8]。1936年(昭和11年)1月17日に起工、1937年(昭和12年)5月24日に進水し、1938年(昭和13年)8月18日に就役した[1]。当初は嚮導駆逐艦 (Flotilla leader) として計画され[8]、諸外国もそのように認識していた[注釈 2]。その後、大日本帝国海軍の水雷戦隊に対抗するために艦形を拡大して駆逐艦隊の旗艦となる軽巡洋艦となった[1]。本艦の基準排水量は日本海軍の軽巡夕張[9](基準排水量2,890トン)[10]より若干大きいが4,000トンを下回り、第二次世界大戦当時の巡洋艦としては最小クラスである[11]。 就役後は、とりあえず海防戦艦ヘルトーグ・ヘンドリック (Hr.Ms.Hertog Hendrik) の代艦として練習任務に使用される予定だったという[注釈 5]。
1939年(昭和14年)4月28日、オランダ王国のウィルヘルミナ女王とベルナード公はトロンプを御召艦とし、北海における演習を統監した[注釈 3]。8月19日、トロンプは母国を離れ、オランダ領東インドのある極東に向かった[注釈 6]。
1940年(昭和15年)5月中旬、オランダ王国はナチス・ドイツにより占領され、オランダ王室はイギリスに亡命してオランダ亡命政府を樹立した(オランダの歴史)。オランダに残された主要な領土は、今や東インドネシアの植民地になった。
1941年(昭和16年)11月19日、オーストラリア海軍の軽巡「シドニー」 (HMAS Sydney) と、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) の仮装巡洋艦「コルモラン」 (Kormoran) が相撃ちとなって沈没する(オーストラリア海域における枢軸国海軍の活動)。シドニーの全乗組員が行方不明となり、トロンプも連合国の捜索活動を支援した。 同年12月8日に太平洋戦争が始まり、日本軍が南方作戦を発動して東南アジアに攻め込んできた。マレー半島の攻略やフィリピンの攻略に目途をつけた日本軍は、蘭印作戦に本腰を入れ始め、ボルネオ島に上陸を始めた[13]。
1942年(昭和17年)2月4日、ABDA司令部の水上艦艇部隊はオランダ海軍のカレル・ドールマン少将に率いられ、オランダ軽巡2隻(デ・ロイテル、トロンプ)、アメリカ重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) 、軽巡洋艦マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) 、随伴駆逐艦と共に日本船団の攻撃に向かう[14]。だがマカッサル海峡で日本海軍の陸上攻撃機(九六陸攻、一式陸攻の攻撃を受ける[15]。マーブルヘッドが大破、ヒューストンやデ・ロイテルが小破した[16]。トロンプも至近弾で軽微な被害をうけた[17](ジャワ沖海戦)[注釈 7]。
2月中旬、日本軍はスマトラ島やカリマンタン島に対する攻略作戦を開始(パレンバン空挺作戦)[19]、ABDA艦隊はオランダ軍守備隊を救援するため出撃する。2月14日、ガスパル海峡を航行中のオランダ軽巡(デ・ロイテル、トロンプ、ジャワ)と英連邦巡洋艦(エクセター、ホバート)および駆逐艦部隊を、日本海軍の陸攻部隊と軽空母龍驤艦上攻撃機隊が空襲する[20]。制空権のないABDA艦隊は反転してバタヴィアに戻った。
2月19日、日本軍がバリ島にも侵攻してきたので、ドールマン提督(旗艦デ・ロイテル)は動ける艦艇を掻き集めて迎撃にむかう[21]。トロンプもバリ島に急行したが[注釈 8]、阿部俊雄司令が率いる第8駆逐隊(大潮、朝潮、満潮、荒潮)とバリ島沖海戦で交戦し[22]、大潮に15センチ主砲弾を命中させた[23]。また僚艦と共に満潮を撃破した[24]。だが、本艦も12.7センチ砲弾多数を被弾して中破した[24]。トロンプとスチュアートはスラバヤで緊急修理を受ける[23]。トロンプは応急修理に成功してオーストラリアへ撤退し、シドニーで修理を受けた[25][注釈 9][注釈 10]。
その後はイギリス東洋艦隊に所属し、船団護衛や空母の護衛に従事した。1944年3月下旬、イギリス海軍の空母機動部隊(空母「イラストリアス」ほか)と、アメリカ海軍の空母機動部隊(空母「サラトガ」ほか)がインド洋で演習を実施し、本艦は補給部隊を護衛した(ディプロマット作戦)。7月25日、サバン攻撃(クリムズン作戦)に参加する[29]。「トロンプ」は駆逐艦「Quilliam」、「Quality」、クイックマッチ」と共に港内に入って攻撃を行い、「トロンプ」は4発の不発弾を受けた[30]。
1944年11月下旬、イギリス海軍は東洋艦隊を再編し、極東艦隊 (Far East Fleet) と太平洋艦隊 (British Pacific Fleet) を新編した。
1945年(昭和20年)4月終わりから5月初めにラングーンへの上陸作戦に陽動として行われたアンダマン・ニコバル諸島への攻撃(ビショップ作戦)にトロンプも参加し、ポートブレアなどを砲撃した。その後、アメリカ海軍の第7艦隊に編入され、バリクパパン侵攻作戦にも参加し終戦まで働いた。
第二次大戦後、イギリス太平洋艦隊に所属して戦後処理に参加したあと、「トロンプ」は練習艦任務に就いた。1955年(昭和30年)12月1日に退役した。1958年(昭和33年)に除籍され、1968年(昭和43年)12月にスクラップとして売却、1969年(昭和44年)に解体された。
出典
編集注釈
編集- ^ 日本語ではトロムプと表記することがある[2]。
- ^ a b 七、其の他の歐洲諸國(略)[2](ハ)和蘭 巡洋艦デ・ルイター(De Ruyter)は一九三六年夏就役し、東印度警備に服する豫定である。現在建造中のものは小型巡洋艦トロムプ(Tromp)、掃海艇四隻、潜水艦二隻である。トロムプは元來嚮導驅逐艦と稱せられてゐたが、五.九吋砲六門、四〇粍高角砲六門、一二.七粍砲四門、二十一吋發射管六門及び爆雷投射機四基を装備する三,三五〇噸の軍艦なることが判明した。(以下略)
- ^ a b 他の歐洲諸國(略) 和蘭 蘭國は今その歴史上最大の建艦計畫に箸手した。之に依れば既に引渡濟のものを除き、次の諸艦を含んでゐる。八,三五〇噸の巡洋艦デ・セヴェン・プロビンツエン及びキークドウイン(兩艦に就ては昨年本蘭にて若干説明した。) 三,三五〇噸級巡洋艦ヘームスケルク(目下蘭領東印度に在るトロンプの姉妹艦となる筈) 機械及び罐をヤロー會社より供給する筈の一,六二八噸驅逐艦四隻(中略)[5] 一九三九年四月二十八日ウイルヘルミナ女王はベルナード公を伴ひ巡洋艦トロムプに乗艦して北海に於ける海軍演習に臨まれた。
- ^ 直近では1903年5月2日起工、翌年6月15日進水、1905年11月17日竣工の海防戦艦「マールテン・ハーペルソン・トロンプ」 (Hr.Ms. Marten Harpertsz. Tromp) がいる[6]。同艦は蘭印で運用され、幾度か大日本帝国を訪問した[7]。1932年(昭和7年)に除籍、翌年解体された[7]。
- ^ "第七節、其の他の歐洲諸國(略)[12]三、和蘭 (略)巡洋艦デ・ルイターは昨年公試を行ひ三二節の速力を得て成功した。同艦は東印度勤務として十月三日に就役した。同日は女王の検閲を受けてゐる。アムステルダムにて建造中の小型巡洋艦トロムプ號は従來の舊式海防艦ヘルトッグヘンデリックに代りて内地における練習任務に使用される豫定である。(以下略)
- ^ 既に軽巡デ・ロイテル (Hr.Ms. De Ruyter) も蘭印に派遣されていた[12]。
- ^ 日本側の大本営発表では、トロンプおよびジャワ級軽巡洋艦2隻撃沈となっている[18]。
- ^ ABDA艦隊は二つのグループにわかれており、トロンプは第二陣(蘭軽巡トロンプ、アメリカ駆逐艦スチュワート、パロット、エドワーズ、ピルスバリー)であった[21]。
- ^ 駆逐艦スチュアート (USS Stewart, DD-224) は入渠修理中に事故と空襲で損傷[23]、連合国の撤退時に爆破処理された[26]。ジャワ島を占領した日本軍はスチュアートを鹵獲して復旧し、第102号哨戒艇として運用した[27]。
- ^ 僚艦のデ・ロイテル (Hr.Ms. De Ruyter) やジャワ (Hr.Ms. Java) はスラバヤ沖海戦で撃沈された[28]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 「写真シリーズ/懐かしの艦影/その425 オランダ軽巡洋艦「トロンプ」」 『世界の艦船』第764集(2012年8月特大号) 海人社 P.142
- ^ a b ブラッセー海軍年鑑 1936, p. 41原本48-49頁
- ^ 世界の艦船、写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 109「トロンプ」Tromp
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 137aオランダ/軽巡洋艦「トロンプ」級 TROMP CLASS
- ^ ブラッセー海軍年鑑 1940, p. 29原本42-43頁
- ^ 橋本、海防戦艦 2022, pp. 307a-308海防戦艦『マール店・ハーペルツォーン・トロンプ』
- ^ a b 橋本、海防戦艦 2022, pp. 307b-308.
- ^ a b 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 137b.
- ^ 世界の艦船、写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, pp. 8–9「夕張」Yubari
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 51日本/二等巡洋艦「夕張」YUBARI
- ^ 世界の艦船、写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 125オランダ/「トロンプ」Tromp
- ^ a b ブラッセー海軍年鑑 1937, p. 36原本47頁
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, pp. 200–202蘭印基地攻略作戦
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 202.
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, pp. 146–147ジャワ沖海戦
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 150.
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ^ 「大東亜戦争大本営発表(防衛省防衛研究所)撃沈・撃破・沈没 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C16120680600 (昭和17年2月14日)〔 2-4ジャワ沖海戦|撃沈:蘭巡ジャワ型2 蘭巡トロンプ 〕
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, pp. 138–139スマトラ攻略
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 152.
- ^ a b 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 160.
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 204バリ島沖海戦/昭和17年2月20日第二次合戦
- ^ a b c 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 161.
- ^ a b 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 205.
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 187(シドニーで停泊中のトロンプ写真)
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 184.
- ^ 丸、写真太平洋戦争2巻 1995, p. 162.
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 136オランダ/軽巡洋艦「デ・ロイテル」 DE RUYTER
- ^ The Royal New Zealand Navy, pp. 359-360
- ^ The Royal New Zealand Navy, p. 360
参考文献
編集- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『写真シリーズ 軍艦の構造美を探る(3) 巡洋艦 WORLD CRUISERS IN REVIEW』株式会社海人社〈世界の艦船 別冊〉、2007年6月。
- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。
- 橋本若路『海防戦艦 設計・建造・運用1872~1938』イカロス出版株式会社、2022年7月。ISBN 978-4-8022-1172-7。
- 雑誌「丸」編集部 編『写真 太平洋戦争<第二巻> 中部・南部太平洋方面攻略作戦 蘭印攻略作戦/インド洋作戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年1月。ISBN 4-7698-2071-2。
- S. D. Waters, The Royal New Zealand Navy, Historical Publications Branch, 1956
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終會編輯部同人 共譯『一九三六年版 ブラッセー海軍年鑑(譯書) ― 本文全譯 ―』海軍有終會、1936年7月 。
- 海軍有終會編輯部同人 共譯『一九三七年版 ブラッセー海軍年鑑(譯書) ― 本文全譯 ―』海軍有終會、1937年7月 。
- 海軍有終會編輯部同人 共譯『一九四〇年版 ブラッセー海軍年鑑(譯書) ― 本文全譯 ―』海軍有終會、1940年10月 。