ジャワ (Hr. Ms. Java) は、オランダ海軍軽巡洋艦[注釈 1]ジャワ級。 建造にはクルップ社ドイツ帝国企業)の技術援助を受けている[2]第一次世界大戦中に起工したが、竣工したのは1925年だった[3]観艦式のため、大日本帝国を訪問したこともある[4]第二次世界大戦太平洋戦争勃発後の1942年2月末、スラバヤ沖海戦で沈没した[5]

軽巡洋艦ジャワ(1939年、近代化改装後)
艦歴
発注 1915/6年計画
起工 1916年5月31日
進水 1921年8月9日
就役 1925年5月21日
その後 1942年2月28日沈没
除籍
性能諸元
排水量 基準:6,670t、満載:8,210t
全長 153.3m
全幅 16.0m
吃水 5.50m
主缶 シュルツ・ソーニクロフト式重油専焼水管缶8基
機関 クルップ・ゲルマニア式ギヤード・タービン3基3軸推進(出力7万2千馬力)
最大速 31.0kt
航続距離 12.0kt 4,800浬
兵員 480名
兵装 50口径15cm単装砲10門
7.5cm単装高角砲4門
機銃4挺
航空機 水上機2機

艦歴

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K.M.シェルデ社フリッシンゲン造船所において1916年(大正5年)5月31日に起工し、1921年(大正10年)8月9日に進水、1925年(大正14年)5月1日に就役した[1]。同年10月初旬にアムステルダムを出発した。12月上旬、インドネシア北ジャカルタ英語版オランダ語版タンジュンプリオクに到着した。海防戦艦デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」より東インド艦隊の旗艦を引き継ぐ[6][注釈 2]

1928年(昭和3年)12月4日[8][9]横浜沖合の東京湾大日本帝国御大礼特別観艦式を実施した[10][注釈 3][注釈 4]。 この特別観艦式に「ジャワ」[12][4](オランダ東インド艦隊旗艦)も参列する[注釈 5]。 後にスラバヤ沖海戦でジャワを撃沈する重巡「那智」も[1][14]、この御大礼特別観艦式に参列していた[15][注釈 6]6日、ホクストラ少将(オランダ東印度艦隊司令官)は昭和天皇に拝謁した[17]。ジャワ艦長も勲三等瑞宝章を授与された[13]。その後、乗組員らは松浦厚邸で歓待を受けた[18]8日、「ジャワ」は横浜港を出港する[19]名古屋港神戸港長崎港に寄港したあと、18日に長崎から離日した[20]

1933年(昭和8年)2月4日[21]、給料の削減をきっかけに[22][注釈 7]、海防戦艦(砲艦)「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」で反乱が勃発した[24]。「ジャワ」は駆逐艦2隻を率いてスラバヤを出発し、2月10日に「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」を捕捉して降伏勧告を行う[注釈 8]。無視されたので、水上機2機が爆撃をおこなう[注釈 8]。艦橋への直撃弾で首謀者たちが死亡し[26]、反乱艦は降伏した[7]

1934年(昭和9年)5月30日、日本海軍の東郷平八郎元帥が死去し[27]6月5日国葬がおこなわれた[28]。列強各国はアジア方面に配置していた巡洋艦と、艦隊司令官(司令長官)を日本に派遣する[29][30]。 オランダもスラバヤ在泊中の本艦を派遣したが、横浜港で実施された式典に間に合わなかったという[31]。同年から1935年にかけて、近代化改装をおこなった[1]

1936年(昭和11年)8月23日、ジャワ島スラバヤでオランダの観艦式がおこなわれ、軽巡2隻(ジャワ、スマトラ)と駆逐艦3隻(ピート・ハインヴァン・ガレンヴィッテ・デ・ウィット)などが参加した。 同年11月13日、ヘルフリッヒ提督が率いるオランダ軽巡2隻(ジャワ、スマトラ)と駆逐艦3隻および潜水艦部隊はシンガポールを訪問した[32][33]。 同地滞在中の蘭印艦隊は、イギリス海軍各艦、合衆国アジア艦隊(重巡オーガスタなど、司令官ヤーネル少将)と交流した[33][34]。。

その後、「ジャワ」はヨーロッパに戻る。1937年(昭和12年)5月20日、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参列した[注釈 9][注釈 10]

1938年(昭和13年)5月、「ジャワ」はヨーロッパを離れてオランダ領東インドに移動する。蘭印到着後の10月13日、スンダ海峡でオランダ駆逐艦「ピート・ハイン」で衝突事故を起こし、スラバヤで修理をおこなった。

1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦がはじまったとき、オランダ王国中立を宣言した(オランダの歴史)。1940年(昭和15年)5月にナチス・ドイツの侵攻で本国が占領されオランダ亡命政府英語版オランダ語版イギリスで樹立した(第二次世界大戦時のオランダ女王)。ドイツ海軍インド洋オーストラリア近海でも活動しており、極東配備のオランダ海軍艦艇も船団護衛に従事した。

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争大東亜戦争)以降、本艦はABDA艦隊の主力艦として日本軍の蘭印作戦に立ち向かう[注釈 11]。1942年(昭和17年)2月14日、ガスパル海峡海空戦に参加、日本海軍の航空攻撃で退却を余儀なくされた[36]。2月20日、バリ島沖海戦に参加する[37][注釈 12]

2月27日[40]スラバヤ沖海戦[41](連合軍呼称[42]、“ジャヴァ海海戦”)に参加[43][44]日本海軍妙高型重巡洋艦および水雷戦隊[注釈 13]との昼間砲雷撃戦により、ABDA艦隊の駆逐艦2隻が沈没し、イギリス海軍の重巡「エクセター」が損傷して戦場を離脱した[47][48]。 ABDA艦隊を率いるカレル・ドールマン少将は、健在の巡洋艦を率いて第五戦隊(那智羽黒)に夜戦を挑む[5][49]。日本時間2月28日の日付変更直後、第五戦隊が連合軍巡洋艦4隻(デ・ロイテル、ヒューストン、パース、ジャワ)に魚雷攻撃をおこなう[50][注釈 14]。この雷撃が本艦と旗艦「デ・ロイテル」に命中し、2隻とも沈没した[14][51]。同航していたアメリカ海軍の重巡「ヒューストン」とオーストラリア海軍の軽巡「パース」は、雷撃を回避して逃げ延びた[注釈 15][注釈 16]

3月1日、哨戒中の第五戦隊および駆逐艦「山風」と「江風」は漂流する「ジャワ」の生存者を発見、37名を救助した[56]。第四水雷戦隊の戦闘詳報によれば、救助されたジャワ生存者1名が、他艦の捕虜と共に日本陸軍に引き渡された[57]

出典

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注釈

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  1. ^ (オランダ海軍)ジャワ級巡洋艦 植民地警備用に計画された第一次世界大戦型の軽巡洋艦[1]
  2. ^ 「プロヴィンシェン」は1930年代後半に砲術練習艦になり、「スラバヤ (Hr. Ms. Soerabaja) 」と改名した[7]。1942年(昭和17年)2月18日、スラバヤ港停泊中に日本軍の空襲で大破、のちに自沈した[7]
  3. ^ 昭和三年十二月四日横濱港沖に於て陸軍の觀兵式に對し海軍の御大禮特別觀艦式を擧行あらせらる、茲に御召艦以下を左の如く定められたり/御召艦 榛名 供奉艦 金剛(御先導)比叡 岩手 賜饌艦 榛名 金剛 比叡 赤城/觀艦式参列の艦船は、聯合艦隊並に練習艦隊の各艦、各鎭守府要港部の警備艦、第一豫備艦の大部、練習艦艇及び行動上参加可能なる在役特務艦にして合計百八十六隻、此の外 英、米、佛、伊、蘭、諸國より特派したる軍艦七隻及び部外船舶十五隻も亦参列す(以下略)[11]
  4. ^ ◎大禮特別觀艦式行幸ノ件 昭和三年九月二十四日(官報二五一〇ノ五)[8] 今秋御大禮ヲ訖リ東京ニ 還幸アラセラレタル後十二月四日(同五日豫備日)横濱沖ニ於テ大禮特別觀艦式ヲ擧行 御親閲アラセラル/天皇陛下ニハ十二月四日午前八時五分宮城 御出門九時五分横濱港驛 御着車税關桟橋ヨリ 御乗艇 御召艦榛名ニ 乗御 横濱港沖ニ於テ行ハセラレタル大禮特別觀艦式 御親閲終テ左ノ勅語ヲ賜フ(以下略)
  5. ^ 外国参加艦船は7隻で、本艦の他にアメリカ合衆国の装甲巡洋艦ピッツバーグイギリス重巡洋艦3隻(ケントサフォークバーウィック)、フランスの装甲巡洋艦ジュール・ミシュレイタリア王国の防護巡洋艦リビアが参列した[13]
  6. ^ 妙高型重巡洋艦の「那智」は御大礼特別観艦式に参加するため艤装工事を促進し、1928年(昭和3年)11月26日に竣工した[16]。これは観艦式に参加予定のイギリス重巡洋艦ケント級)に対抗するためだったという[16]
  7. ^ 二月十日後着 内田外務大臣宛 在「メダン」内藤領事發電報[23] Z、P號ニ付テハ乗組員ニ何等共產黨的意思アルニ非スシテ單ニ減棒ニ反對シ「スーラバヤ」ニ於ケル同僚ノ逮捕ニ抗議センカ爲艦ニ残留セル乗組員全部カ共同シテ艦長上陸中軍艦ヲ持逃ケシメタルモノニシテ同號カ十日午前「ベンクーレン」沖ヲ南航中巡洋艦「ジャバ」號及二潜水艦ニ出遭ヒ飛行機上ヨリ五〇瓩ノ爆彈投下セラレ死者十二傷者二十五人ヲ出シタルノ結果九時十五分直ニ降参セリ(おわり)
  8. ^ a b 十日午前六時四十六分ニ至リZP號カ「ベンクーレン」沖ヲ過キ「スンダ」海峡ニ向ヒタルトキ六日午後海軍根拠地「スラバヤ」ヲ發航シタル巡洋艦「ジャバ」號及驅逐艦EvertsenPiet Hein號ニ出會シタルカ「ジャバ」號ヨリノ無電ニ接シ「白旗ヲ掲揚シ甲板上周圍ニ白布ヲ張リ艦ノ進行ヲ停止シ右ヲ十分以内ニ行フヘシ」ト命セラレタルニ付Z、P號ハ前信同様ノ電文ト「邪魔スルナ」ト最後ニ追加返電シタルニ間モナクDorniers海上飛行機飛來シタルニ付乗組員ハ甲板上ニ出テ同飛行機ヲ見物シ居リタル處五十瓲ノ爆彈司令塔附近ニ投下(十一彈ヲ投下シタリト云フ)セラレ即死十二名負傷者二十五名ヲ出シ小火災ヲ起シタルヲ以テ乗組員ハ午前九時十八分直ニ降伏セリ斯クテ一時世間ヲ騒カシタル本事件モ六日ノ後茲ニ終局スルニ至レリ[25](以下略)
  9. ^ 日本海軍は重巡「足柄」を派遣した[35]
  10. ^ La gran Revista Naval de 1937 por la Coronacion de Jorge VI記念観艦式の説明のあるページ。参加艦艇の写真がある。
  11. ^ 姉妹艦スマトラは修理未了のまま蘭印を出発し、イギリスに脱出した[1]
  12. ^ この海戦で第8駆逐隊(大潮朝潮満潮荒潮)と交戦したABDA部隊側は[38]、駆逐艦満潮撃破と引き換えにオランダ駆逐艦ピート・ハインが沈没し、オランダ軽巡トロンプ、アメリカ駆逐艦スチュワートが損傷を受けた[39]
  13. ^ 第五戦隊(司令官高木武雄少将)[45]、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)[46]
  14. ^ 那智は酸素魚雷8本を、羽黒は酸素魚雷4本を発射した[48]
  15. ^ ジヤヴア沖、敵聯合艦隊撃滅詳報[52]【○○にて佐藤、坂元兩海軍報道班員二十日發】スラバヤ沖海戰に敵の聯合艦隊を撃滅赫々の偉勲を樹てた無敵艦隊が舳艫相揮銜んで堂々と○○基地に凱旋して來た、世界海戰史上に萬古不滅の燦たる一頁を記録して今ぞ歸港した我無敵の艨艟、而も武威に傲らず聊かの損傷も認めず熱帶の海に浮かぶ鐡城、儼たるその威容を感激の涙して迎へた記者達は砲煙の下に奮戰した○○海軍大佐にスラバヤ沖海戰の生々しい大勝の詳報を聽いた。】(戦闘経過略)
  16. ^ この時は日本海軍を振り切った連合軍巡洋艦2隻だが[53]、直後のバタビア沖海戦で沈没した[54][55]

脚注

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  1. ^ a b c d e イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 151.
  2. ^ 世界の艦船、写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 125aオランダ/「ジャワ」Java
  3. ^ 世界の艦船、写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 108「ジャワ」java
  4. ^ a b #御親閲当日式場光景 p.3〔 昭和三年 大禮特別觀艦式 式場圖 〕(参列艦艇配置図)
  5. ^ a b 主力艦喪失十二隻餘 聯合艦隊支離滅裂 ジャヴァ、スラバヤ沖海戰 米、英側共同發表/撃沈、轟沈の敵艦”. Hoji Shinbun Digital Collection. Manshū Nichinichi Shinbun. pp. 01 (1942年3月17日). 2023年10月23日閲覧。
  6. ^ 橋本、海防戦艦 2022, pp. 309–313海防戦艦『デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン』
  7. ^ a b c 橋本、海防戦艦 2022, p. 312.
  8. ^ a b 海軍制度沿革、第1巻 1937, pp. 210–2121原本375-376頁
  9. ^ 今上天皇陛下大礼紀要 1929, p. 123(原本223頁)第一節 外國軍艦招請
  10. ^ 昭和3年12月06日(木)官報第583号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(原本130)〔 ◎行幸 天皇陛下ハ一昨四日午前八時五分御出門横濱港沖ニ於テ行ハセラレタル大禮特別觀艦式ヘ行幸午後四時還幸アラセラレタリ 〕
  11. ^ 昭和御大礼参列記念録 1936, pp. 138-139(原本248-251頁).
  12. ^ 公文備考 儀制40止 巻59 大礼特別観艦式16止(防衛省防衛研究所)宮城御出門 」 アジア歴史資料センター Ref.C04016160200 
  13. ^ a b 今上天皇陛下大礼紀要 1929, p. 124(原本224-225頁)
  14. ^ a b 写真日本の軍艦(5)重巡(I) 1989, pp. 178–179瀬名堯彦/スラバヤ沖海戦の雷撃効果
  15. ^ #御親閲当日式場光景 p.2
  16. ^ a b 写真日本の軍艦(5)重巡(I) 1989, p. 148.
  17. ^ 昭和3年12月08日(土)官報第585号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(原本195)〔 ◎謁見 蘭國東印度艦隊司令官海軍少将ラン、ブロック、ホクストラ外一名竝ニ伊國極東艦隊先任指揮官海軍大佐ビニー今般渡來ニ付敬意ヲ表スルタメ一昨六日午後三時 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ 〕
  18. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、530頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  19. ^ #ジャヴァ来航(大礼特別観艦式) p.8(昭和3年12月8日)〔 軍艦「ジャバ」号出港ス 〕、#ジャヴァ件 p.5(海軍公報 第559号、昭和3年11月15日)〔 ○和蘭國巡洋艦「ジャヴァ」號行動豫定 〕
  20. ^ 海軍省年報、昭和3年 1933, pp. 47–49第四 外國艦船本邦沿岸出入一覧 昭和三年度
  21. ^ #欧2普通第80号 pp.4-5
  22. ^ 日本との対立抗争 2009, p. 8.
  23. ^ #欧2普通第39号 p.3
  24. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Kashū Mainichi Shinbun, 1933.02.10、p.1、2023年5月13日閲覧
  25. ^ #欧2普通第80号 p.7
  26. ^ 日本との対立抗争 2009, p. 9.
  27. ^ 東郷元帥読本 1938, p. 162附録、東郷元帥年表
  28. ^ 東郷元帥読本 1938, pp. 147–152(原本273-275頁)荘嚴なる國葬儀
  29. ^ 第2576号 9.6.2 外国海軍指揮官接待に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.C05023436600 
  30. ^ #東郷元帥薨去弔意 p.13〔 七、各國弔意表明振 (イ)軍艦特使 〕
  31. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 184–186中華民国巡洋艦“寧海級”
  32. ^ 蘭印艦隊 今朝當地訪問”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 03 (1936年11月13日). 2023年10月23日閲覧。
  33. ^ a b けさ朝靄ついて米艦隊堂々入港”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 03 (1936年11月16日). 2023年10月23日閲覧。
  34. ^ 賑ひの軍港風景 英米蘭・十八隻の水兵四千 未曾有の"海の豪華"”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō. pp. 03 (1936年11月18日). 2023年10月23日閲覧。
  35. ^ 写真日本の軍艦(5)重巡(I) 1989, pp. 84–86(観艦式会場の足柄写真と解説)
  36. ^ 戦史叢書80 1975, p. 196.
  37. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 50–51バリ島の要地を占領
  38. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 192–193バリ島攻略とバリ島沖海戦
  39. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 51–52.
  40. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 196–197スラバヤ沖海戦
  41. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 52–53スラバヤ沖海戦
  42. ^ 主要海空戰日米呼稱對照表 二一、五、六 史實調査部”. アジア歴史資料センター. 防衛省防衛研究所. pp. 04. 2023年10月23日閲覧。
  43. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 105–109四国艦隊の危機
  44. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 12–13スラバヤ沖海戦バトル・オーダー ―米英蘭濠連合国部隊vs日本海軍部隊参加兵力比較―
  45. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 121–124沈黙する司令部
  46. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, p. 54.
  47. ^ ニミッツ 1962, pp. 36–39ジャヴァ海海戦
  48. ^ a b 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 14–15スラバヤ沖激闘7時間35分
  49. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 143–145恐るべきウエーキ
  50. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 147–152魚雷十二射線のみ
  51. ^ 巡洋艦戦記 2011, p. 149スラバヤ沖夜戦(第2合戦)
  52. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Manshū Nichinichi Shinbun, 1942.03.22、p.1、2023年5月8日閲覧
  53. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 153–154長蛇を逸す
  54. ^ ニミッツ 1962, pp. 39–40ジャヴァから退却
  55. ^ 戦史叢書80 1975, p. 197バタビア沖海戦
  56. ^ #S1703五戦隊日誌(2) p.31〔 3-1|(1)支援隊「クラガン」北方哨戒中(28日夜戦ニテ敵艦沈没位置附近海面)0020頃漂流救助ヲ求ムルモノアリ江風ヲシテ之ヲ救助セシメタルニ蘭巡「ジャバ」乗員ニシテ37名アリ全部江風ニ救助収容ス 〕
  57. ^ #S1702四水戦戦闘詳報(4) p.66〔 捕虜調査表「スラバヤ」沖海戰々場附近ニ於テ救助セシ捕虜(デ・ロイテル、ジャワ、ジュピターエレクトラ、表略)〔註〕捕虜ハ全部「クラガン」ニ於テ陸軍48Dニ引渡セリ(終) 〕

参考文献

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  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『写真シリーズ 軍艦の構造美を探る(3) 巡洋艦 WORLD CRUISERS IN REVIEW』株式会社海人社〈世界の艦船 別冊〉、2007年6月。 
  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。 
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  • 「丸」編集部編『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
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  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • 歴史群像編集部編『勇躍インド洋作戦 南方資源地帯確保へさらなる進攻と南雲機動部隊の西進作戦を徹底分析』 第3巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年6月。 
  • アジア歴史資料センター(公式)
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    • 『公文備考 儀制40止 巻59 大礼特別観艦式16止(防衛省防衛研究所)御親閲当日式場の光景』。Ref.C04016160100。 
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    • 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030110900。 

関連項目

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