ジェームズ・ブキャナン

アメリカ合衆国の大統領

ジェームズ・ブキャナン・ジュニアJames Buchanan, Jr., 1791年4月23日 - 1868年6月1日)は、アメリカ合衆国政治家。第15代大統領を務めた。18世紀生まれの最後の大統領であり、結婚しなかった唯一の大統領である。また、ペンシルベニア州から選出された初の大統領でもある [注釈 1]

ジェームズ・ブキャナン
James Buchanan


任期 1857年3月4日1861年3月4日
副大統領 ジョン・ブレッキンリッジ

任期 1845年3月10日1849年3月7日
大統領 ジェームズ・ポーク

任期 1834年12月6日 – 1845年3月5日

任期 1832年1月4日1833年8月5日
大統領 アンドリュー・ジャクソン

任期 1853年1856年
大統領 フランクリン・ピアース

任期 1823年3月4日 – 1831年3月3日

任期 1821年3月4日 – 1823年3月3日

任期 1829年3月4日 – 1831年3月3日

出生 1791年4月23日
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ケーブ・ギャップ
死去 1868年6月1日(1868-06-01)(77歳没)
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ランカスター
政党 民主党
出身校 ディッキンソン大学
署名

ブキャナンは人気があり経験豊富な州の政治家で、非常に成功した弁護士であった[1]。彼はペンシルベニア州選出の下院議員となり、後には上院議員に転身、アンドリュー・ジャクソン内閣ではロシア担当大臣を務めた。また、ポーク内閣では国務長官も務めている。2017年時点では国務長官を経験した最後の大統領である[2]。最高裁長官の指名を断った後、ピアース内閣ではイギリス担当大臣を務め、オステンド・マニフェストの作成を手助けした。

1844年1848年1852年の大統領選において民主党の候補指名に失敗したが、「オールド・バック Old Buck」は1856年の大統領選で民主党の大統領候補に指名された。ピアース大統領の任期の大半、ブキャナンはイギリス担当大臣としてロンドンに滞在していたため、合衆国を支配した派閥政治の十字砲火の中に交わることはなかった。ブキャナンは奴隷制度問題において両派の間で妥協した態度を取ったと見なされた。選挙はジョン・フレモントミラード・フィルモアとの三つどもえの戦いとなった。大統領として彼はしばしば「doughface」(奴隷制度に賛成した北部自由州の議員)と呼ばれ、民主党の主導権をスティーブン・ダグラスと争った。ブキャナンは北部と南部の間の平和を維持するため努力したものの、両陣営は疎遠となり、南部諸州の合衆国からの脱退により南北戦争へと突入する。記録に寄ればブキャナンは南部諸州の脱退は不法なものであったが、それを止めるために戦争を行うのも不法であったと考えていたとされる。ブキャナンは第一に弁護士として「私は法以外の支配を全く承認しない」という決まり文句で有名であった[3]

彼が公職を退く時までに、世論は彼に批判的なものとなった。そして民主党は二つに分裂した。ブキャナンはかつて、アメリカ史上におけるジョージ・ワシントンの位置と同じ格付けを切望した[4]。しかしながら、国が分裂と内戦へ進むのを防ぐための統率力を発揮せず、消極的な対応に終始したことにより、現在も歴史家による格付けでは決まって最悪の大統領の一人として位置づけられる。ブキャナンの伝記執筆者、フィリップ・クラインはこれらの格付けを取り入れている。「空前の怒りの感情の波が国を覆い尽くしたとき、ブキャナンはリーダーシップを引き受けた。この革命的な時代に、抑制して敵対したセクションをもったことは、本来注目に値する業績であった。彼の任期は激動の時代であったが、その弱点は南北の怒れる党派によって拡大された。彼の多くの才能は、より静かな時代においては偉大な大統領として認められるものであったかもしれないが、南北戦争という時代の大変動と、偉大なるエイブラハム・リンカーンによって霞んだものとなった」[5]。また、アンドリュー・ジャクソンには「できるだけ遠くに追いやりたかった。北極に大使館があったら、私は彼をそこに赴任させただろう」と評されており、ジェームズ・ポークは日記で「ミスター・ブキャナンは有能な人物ではある。しかし、どうでもよい問題で迷ったりするし、ひがみっぽい」と評している[6]

生い立ち

編集

ジェームズ・ブキャナン・ジュニアは1791年4月23日にペンシルベニア州フランクリン郡ハリスバーグの近く、ケーブ・ギャップ丸太小屋で、裕福な商人のジェームズ・ブキャナン・シニア(1761年 - 1833年)とその妻エリザベス・シュペーア(1767年 - 1833年)の間に生まれた(現在ブキャナン生誕地州立公園として公開されている)。両親はスコットランド=アイルランド系であり、父親は1783年に北アイルランドから移住した。ブキャナンは11人兄弟の2番目で、兄弟の内の3人は幼少期に死去している。ブキャナンには6人の姉妹と4人の兄弟がいたが、1840年まで生き残ったのは1人のみであった[7]

1799年に一家はマーセスバーグに移り住む。マーセスバーグの家は後にジェームズ・ブキャナン・ホテルとなった[8]

ブキャナンは村の学校に入学し、その後ペンシルベニア州カーライルディッキンソン大学に進学した。不品行な振る舞いで放校されそうになったが、第二のチャンスを嘆願し、その後1809年9月19日に抜群の成績で卒業した[9]。同年彼はペンシルベニア州ランカスターへ転居し法律を学び、1812年に法曹界入りした。彼は熱心な連邦党員として、当初は米英戦争に反対した。しかしながらイギリス軍がメリーランド州に侵入すると、彼は志願兵として竜騎兵部隊に加わり、ボルチモア防衛戦に参加した[10]

ブキャナンは生涯を通じて活発なフリーメイソンのメンバーであり、ランカスターの第43ロッジのマスターであった。また、ペンシルベニアのグランドロッジの副グランドマスターでもあった[11]

政治経歴

編集

1814年から1815年までペンシルベニア州選出下院議員だった。その後第17から次の4つの議会(1821年3月4日 - 1831年3月3日)に選任された。第21議会では司法部委員会の議長を務めた。1832年から1834年まで駐ロシア大使を務めた。

ウィリアム・ウィルキンスの辞職によって生じた空席を満たすために、ブキャナンは1834年12月6日民主党の上院議員として選出された。1837年と1843年に再選され、閣僚に任命されたのに伴い1845年3月5日に辞職した。彼は外交関係委員会の議長だった(第24から第26議会)。

ブキャナンは上院議員ウィリアム・ルーファス・キングと親しい友達で、数年間ワシントンD.C.で彼と暮らした。また、婚約者が自殺したため、生涯独身を貫いた。

1845年から1849年までジェームズ・ポーク大統領の国務長官を、その後1853年から1856年まで駐英国大使を務めた。彼は1856年に大統領に選出され、1857年3月4日から1861年3月4日まで在任した。

 
幕府使節団を迎えるブキャナン大統領

1857年9月に始まった1857年恐慌は、クリミア戦争終結に伴う欧州市場での穀物価格の急落に端を発する初の世界恐慌となり、1859年の終結宣言が出された。しかし、その後も経済回復の無い状態は南北戦争まで続いた。この事も世論が彼に批判的となった理由の一つである。

なお、1859年(安政6年)には日本の江戸幕府における神奈川奉行外国奉行で、日米修好通商条約批准書交換使節(万延元年遣米使節)として渡米した新見正興と謁見した。大統領として特に実績のない彼にとっては、日本史の舞台に登場する数少ない出来事である。孝明天皇にはウォルサムの懐中時計を贈呈している。

彼自身は生涯独身であったが、大統領官邸内での雑事は姪のハリエット・レーンHarriet Lane)に任せており、それがファーストレディと呼ばれ、現在の大統領夫人の別名の起源となった。

引退後はペンシルベニア州ランカスターの近くの自宅「ウィートランド」で暮らした。1868年6月1日に死去し、ランカスターのウッドワード・ヒル墓地に埋葬された。子孫の血統は途絶えている。

内閣

編集
職名 氏名 任期
大統領 ジェームズ・ブキャナン 1857年 - 1861年
副大統領 ジョン・ブレッキンリッジ 1857年 - 1861年
国務長官 ルイス・カス 1857年 - 1860年
ジェレマイア・ブラック 1860年 - 1861年
財務長官 ハウエル・コブ 1857年 - 1860年
フィリップ・トマス 1860年 - 1861年
ジョン・アダムズ・ディクス 1861年
陸軍長官 ジョン・ブキャナン・フロイド 1857年 - 1861年
ジョセフ・ホルト 1861年
司法長官 ジェレマイア・ブラック 1857年 - 1860年
エドウィン・スタントン 1860年 - 1861年
郵政長官 アーロン・ヴェナブル・ブラウン 1857年 - 1859年
ジョセフ・ホルト 1859年 - 1861年
ホレイショ・キング 1861年
海軍長官 アイザック・トウシー 1857年 - 1861年
内務長官 ジェイコブ・トンプソン 1857年 - 1861年

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 2人目はジョー・バイデン。『文藝春秋オピニオン 2021年の論点100』2021年1月1日、p.114

出典

編集
  1. ^ Thomas Bailey, Lizabeth Chen and David Kennedy. The American Pageant. 13th Edition. Houghton Mifflin Company. New York: 2006, p. 415
  2. ^ 『アメリカ大統領を読む事典』宇佐美滋著、講談社+α文庫、p290、p421。なお、2016年アメリカ合衆国大統領選挙では、国務長官経験者であるヒラリー・クリントン民主党の指名を得たが、ドナルド・トランプに敗れた。
  3. ^ Klein (1962), p. 305
  4. ^ Klein (1962), pp. xviii.
  5. ^ Klein (1962), p 429
  6. ^ 『アメリカ大統領の履歴書』、笠倉出版社、p26。
  7. ^ [1]
  8. ^ James Buchanan Hotel website
  9. ^ Klein (1962), pp. 9-12.
  10. ^ Baker (2004), p. 18.
  11. ^ Klein (1962), p. 27.

外部リンク

編集
公職
先代
フランクリン・ピアース
  アメリカ合衆国大統領
1857年3月4日 - 1861年3月4日
次代
エイブラハム・リンカーン
先代
ジョン・カルフーン
アメリカ合衆国国務長官
Served under: ジェームズ・ポーク

1845年3月10日 - 1849年3月7日
次代
ジョン・M・クレイトン
アメリカ合衆国上院
先代
ウィリアム・ウィルキンス
  ペンシルベニア州選出上院議員(第3部)
1834年 - 1845年
同職:サミュエル・マッキーン, ダニエル・スタージョン
次代
サイモン・キャメロン
アメリカ合衆国下院
先代
ジェイコブ・ヒブスマン
ペンシルベニア州選出下院議員
ペンシルベニア州3区

1st seat
1821年 - 1823年
次代
ダニエル・H・ミラー
先代
ジェームズ・S・ミッチェル
ペンシルベニア州選出下院議員
ペンシルベニア州4区

1st seat
1823年 - 1831年
次代
ウィリアム・M・ヒースター
先代
フィリップ・P・バーバー
下院司法委員会委員長
1829年 - 1831年
次代
ウォーレン・R・ディヴィス
外交職
先代
ジョセフ・R・インガーソル
アメリカ合衆国イギリス担当大臣
1853年 - 1856年
次代
ジョージ・ダラス
先代
ジョン・ランドルフ
アメリカ合衆国ロシア担当大臣
1832年 - 1833年
次代
マーロン・ディカーソン
党職
先代
フランクリン・ピアース
1852年
民主党大統領候補
1856年
次代
スティーブン・ダグラス
ジョン・ブレッキンリッジ1
1860年
名誉職
先代
マーティン・ヴァン・ビューレン
最長寿のアメリカ合衆国大統領
1862年7月24日 - 1868年6月1日
次代
ミラード・フィルモア
注釈
1. 民主党は1860年に分裂し、2人の候補を擁立した。ダグラスは北部民主党の候補となり、ブリッキンリッジは南部民主党の候補となった。