神奈川奉行

江戸幕府の職制のひとつ

神奈川奉行(かながわぶぎょう)は、江戸幕府の役職。旗本が任じられる遠国奉行の一つ。神奈川奉行所(かながわぶぎょうしょ、奉行役所)で執務した。

概要

編集

神奈川奉行は、横浜港が開港された安政6年(1859年)に設置された役職である[1]。同年6月4日(同年7月3日)、開港場建設の事務に当たっていた外国奉行酒井忠行水野忠徳村垣範正堀利煕加藤則著の5名に神奈川奉行兼帯の命が下った。5名は輪番で神奈川奉行の職務を行った。

設置当初の神奈川奉行は、青木町(神奈川県横浜市神奈川区青木町)に会所、戸部村宮ヶ崎(同西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センター)に奉行役所を置き、また、横浜村(同中区日本大通、現・神奈川県庁付近)の波止場近傍に運上所を置いて事務を執った。奉行役所は戸部役所と呼ばれて内国司法・行政の事務を取り扱い、運上所では関税及び外務全般の事務を取り扱った。万延元年(1860年)に神奈川奉行は専任となり、松平康直都筑峰暉の2名が任命された。神奈川奉行所の役人の人数は、時期によって変動があるものの、同心足軽などを含めれば最大時で1000人を超えたとされる[2]。また、兼任職時代から廃止までの奉行職には計22名の幕臣が登用され、奉行並職についても5名、支配組頭14名、支配定番役取締4名、支配調役21名が任命されている[3]

慶応4年/明治元年3月19日(1868年4月11日)、明治政府は神奈川奉行所を廃止して新たに横浜裁判所を置き、運上所・戸部役所の業務を引き継がせた[4]。奉行所の新政府への引き渡しは奉行並の依田盛克がつとめた。横浜裁判所は、同年4月20日(同年5月12日)には神奈川裁判所、同年6月17日(同年8月5日)には神奈川府へと名称変更され、同年9月21日(同年11月5日)には神奈川県に名称変更された。

イギリス式軍隊の整備

編集

神奈川奉行所では攘夷派からの襲撃や治安維持、また国際関係が悪化した場合に英仏横浜駐屯軍への防衛対応を目的として警察力・軍事力が整備された。指揮官の窪田鎮章は書物により洋式兵制を学び、また幕府からの働きかけで駐留英軍より直接伝習を受けることで軍備を調えた。

幕臣などから任命される士官としての「定番役」と近隣よりの徴募による歩兵「番所附下番」で組織された。文久3年(1863年)から始まった定番役と下番の採用は急激に拡大し、文久3年(1864年)9月頃には定番役1300人と下番1300人が居た。定番役には定番役頭取取締、定番取締役、定番役、定番役出役、定番役並、定番役並出役の階級があったとされる。兵隊として徴募された下番は、文官である「役所附下番」と区別され、武官であり「番所附下番」と呼ばれた。元治元年11月、老中の水野和泉守、阿部豊後守、諏訪因幡守がイギリス公使オールコックに対し、横浜駐留のイギリス軍による技術伝習を依頼した。この結果、定番役頭取取締窪田鎮章以下がイギリス軍司令官ブラウン大佐より伝習を受け、合同演習も実施された。


慶応2年(1866年)5月になると神奈川奉行では定番役と番所附下番を廃止し、関所や番所の警備を支配役御用出役と役所附下番の文官に代替させることが通達され、神奈川奉行独自の軍事力は廃止された。定番役は別手組へ、番所附下番は歩兵組へ配属された。また、不足する警備力を補うため、神奈川奉行は幕府歩兵と千人隊(八王子千人同心)を動員している。この動員も慶応3年には変更され、役所附下番が足軽と改称されると、大幅な徴募が行われて千人隊の動員は廃止され、横浜警備は足軽のみで行われるようになった。

略年表

編集

脚注

編集
  1. ^ 横浜港の開港は安政6年6月2日(1859年7月1日)で、横浜市では6月2日を開港記念日としている。
  2. ^ 開港場物語(16)武家町だった野毛 奉行所核に役人住む、『読売新聞』、2009年5月30日閲覧。
  3. ^ 「神奈川奉行所関係資料について」(『開港のひろば』第37号、2002年4月、横浜開港資料館
  4. ^ 神奈川県史では、横浜裁判所が設置された慶応4年3月19日を立庁記念日としている。
  5. ^ 1859年7月4日(安政6年6月5日)は月曜日で、アメリカ合衆国の独立記念日でもある。

参考文献

編集
  • 『神奈川県史』神奈川県県民部県史編集室

関連項目

編集

外部リンク

編集