コンゴ民主共和国

アフリカ中部の国
コンゴ民主共和国
République démocratique du Congo
コンゴ民主共和国の国旗 コンゴ民主共和国の国章
国旗 (国章)
国の標語:Justice – Paix – Travail
(フランス語:正義、平和、勤労)
国歌Debout Congolais(フランス語)
起て、コンゴ人よ
コンゴ民主共和国の位置
公用語 フランス語
首都 キンシャサ特別州
最大の都市 キンシャサ(都市州)
政府
大統領 フェリックス・チセケディ
首相 ジュディス・スミンワ英語版
面積
総計 2,345,410km211位
水面積率 3.3%
人口
総計(2022年 108,407,721[1]人(14位
人口密度 39.506[2]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2020年 90兆1810億4800万[3]コンゴ・フラン
GDP(MER
合計(2020年487億700万[3]ドル(86位
1人あたり 543.834[3]ドル
GDP(PPP
合計(2020年1022億5400万[3]ドル(98位
1人あたり 1141.725[3]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
ベルギーより
1960年6月30日
通貨 コンゴ・フランCDF
時間帯 UTC+1 ~ 2 (DST:なし)
ISO 3166-1 CD / COD
ccTLD .cd
国際電話番号 243
コンゴの歴史
コンゴ王国
コンゴ自由国 フランス領コンゴ ポルトガル領
コンゴ
ベルギー領コンゴ フランス領
赤道アフリカ
ポルトガル領
アンゴラ
コンゴ共和国 コンゴ共和国 アンゴラ
人民共和国
コンゴ民主共和国
ザイール共和国 コンゴ人民共和国
コンゴ民主共和国 コンゴ共和国 アンゴラ

コンゴ民主共和国(コンゴみんしゅきょうわこく、: République démocratique du Congo)は、中部アフリカに位置する共和制国家。首都はキンシャサ特別州

衛星写真

北西にコンゴ共和国、南西にアンゴラ、南にザンビア、東にタンザニアブルンジルワンダ、北東にウガンダ南スーダン、北に中央アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。かつてはザイールと称していた。

概要

編集

同国はバントゥー語で「山」を意味するコンゴと呼ばれる地域の一部から成り立っている。

アフリカ大陸中央部のコンゴ川流域に広がり、アルジェリアに続いてアフリカ大陸で第2位の面積を擁し、世界全体でも第11位の面積を擁する。

15世紀ごろまではコンゴ王国の一体的な領域だったが、16世紀ポルトガルによる征服を経た後、19世紀ベルリン会議で3つの領地に分割されたことからベルギー領となり、約50年の植民地時代が続いた。

のちに独立を果たすが、国体が幾度か変更され1971年からザイール共和国となる。1997年には国名をザイールから現在のものへ改称した。

また、2022年に7番目の東アフリカ共同体加盟国となった。

1960年6月30日に独立したが、その後の混乱(コンゴ動乱)やパトリス・ルムンバ首相の暗殺、1965年のクーデターによるモブツ・セセ・セコの台頭と権力掌握に直面した。モブツは1971年に国名をザイールに変更し、個人独裁体制を敷いた。モブツの時代、腐敗は最も深刻であったが、中央政府によって賄賂などの行為は無視され、IMFからの借款を不正に流用するクレプトクラシーを行った。

1997年にローラン・カビラのクーデターによりモブツは打倒され、国名を「コンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo、DRC)」に戻し、社会主義資本主義の両立を掲げる新政府が発足したが、経済管理の失敗や反ルワンダ感情、反ウガンダ感情による混乱により2001年に暗殺された。その後、ローラン・カビラの息子であるジョゼフ・カビラが29歳の若さで就任。ジョゼフ・カビラ政権下では国内の建て直しが行われたが、同国は依然として人権侵害拷問虐殺貧困問題紛争英語版に悩まされている。

コンゴは天然資源が非常に豊富だが、政情不安、インフラの不足、汚職、何世紀にもわたる商業および植民地での採掘と搾取に悩まされ、その後60年以上独立してきたが、広範な開発はほとんどなかった。首都キンシャサの他に、ルブンバシムブジマイは、どちらも鉱山の影響を受けるコミュニティである。近年は、中国との貿易関係が深くなっている。人間開発指数では、コンゴは191か国中179位にランクされ、20年に及ぶさまざまな内戦と国内紛争の継続を経て、2018年の時点で約60万人のコンゴ難民が依然として近隣諸国に住んでいる。また、200万人の子供たちが飢餓の危険にさらされており、戦闘により450万人が避難を余儀なくされている。

国名

編集

正式名称はフランス語で、République Démocratique du Congo(レピュブリク・デモクラティク・デュ・コンゴ)。

公式の英語表記は、Democratic Republic of the Congo(デモクラティク・リパブリク・オヴ・ザ・コンゴ)。

日本語の表記は、コンゴ民主共和国。報道などでの略称は「コンゴ(旧ザイール)」が多いが、「DRコンゴ」と呼ばれることもある。「コンゴ」はバントゥー語で「山」を意味する[4]

1960年から1964年の間の正式名称は西のコンゴ共和国と同じ「コンゴ共和国」であり[5][6][7]、混同を避ける為にコンゴ・レオポルドビル、コンゴ・キンシャサなどの名称で呼ばれた。

なお国際連合に「コンゴ」名義で加入しているのはコンゴ共和国である[8]。コンゴ民主共和国は政体名を含めた正式名称で加盟しており、「民主共和国」が省略されることはない[9]。1960年、国際連合に「コンゴ (レオポルトヴィル)」として「コンゴ (ブラザヴィル)」(現在のコンゴ共和国)と同時に加盟したが[10]、1971年にザイールへ改名した際に区別する必要が無くなったとしてコンゴ人民共和国(現在のコンゴ共和国)がコンゴ名義へ変更した[11]。1997年に同国で「コンゴ」が国名に復活したが、先にコンゴ共和国がコンゴを名乗っており、重複を避けるため正式名称を使用することになった[12]

歴史

編集

コンゴ王国

編集

13 - 17世紀にかけてコンゴ王国が栄えたほか、南部にはクバ王国があった。

ベルギー植民地時代

編集

1885年にベルギー国王レオポルト2世の私有地「コンゴ自由国」(フランス語: État indépendant du Congo1885年 - 1908年)とされた。「国」となっているが、当時のコンゴは、ベルギー議会の影響も及ばない国王の完全な私有地であった。当初、レオポルド2世は私費を切り詰めて鉄道を建設するなどコンゴの近代化を推進したが、すぐに圧政に転じた。現地住民は象牙ゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦なく科された。当時、大なり小なり、植民地での強制的な収奪を当たり前のものとしていた欧州諸国においてもこの圧政は非難の的となり、植民地経営に関心がなかったベルギー政府を動かすこととなった。

1908年、ベルギー政府は国王からコンゴを買い取り、所有権がベルギー政府に移され、コンゴは正式に植民地ベルギー領コンゴ1908年 - 1960年)となった。1950年代後半からジョゼフ・カサブブコンゴ人同盟英語版(Alliance des Bakongo)、パトリス・ルムンバコンゴ国民運動英語版(MNC)が独立闘争を開始。

独立から50年以上経過した2020年フィリップ国王はコンゴの大統領に宛てた書簡で、植民地支配について「遺憾の極み」を伝えた。さらに2022年にはコンゴを訪問。演説の中で植民地支配により同国に与えた「苦痛と屈辱」に対し、改めて遺憾の意を表明した[13]

独立とコンゴ動乱

編集

1960年6月30日にコンゴ共和国(1964年、コンゴ民主共和国に改称)としてベルギーから独立。カサブブは大統領、ルムンバは首相に就任。独立から1週間も経たずして内乱とベルギー軍の介入を経験し、「コンゴ動乱」が始まる。1961年、ルムンバ首相が殺害される。

ザイール共和国(モブツ政権)・第一次コンゴ戦争

編集
 
ザイール共和国の国旗

1965年11月、モブツ商務・雇用・貿易相がクーデターで実権を掌握。1997年までの32年間モブツ大統領の独裁が続いた。

1971年に国名をザイール共和国 (République du Zaïre) に改める。同時に通貨がコンゴ・フランからザイールに変更された。革命人民運動 (MPR) の一党独裁制が敷かれ、民族主義的なザイール化政策英語版 が推進される。

1974年10月30日ベトナム戦争への徴兵を拒否してWBAWBC統一ヘビー級王座を剥奪されたモハメド・アリジョージ・フォアマンに挑戦し、ザイールの首都キンシャサで "The Rumble in the Jungle"(キンシャサの奇跡)と呼ばれる王者奪還劇を果した。当時のザイールではモブツを支援したアメリカに反発する感情が根強く、アリへの大声援(スワヒリ語で "Ali bomaye!" と言っていた[14])が送られる模様がテレビで夜10時から全米に生中継された。

1977年エボラ出血熱エボラ川流域で確認された[15]1977年3月8日第一次シャバ紛争英語版1978年5月11日第二次シャバ紛争英語版1978年5月18日コルヴェジの戦い英語版

1990年4月、民主化要求の高まりを受け議会は11月に複数政党制への道を開く憲法修正案を可決する。12月、任期2期を満了したモブツ大統領が3選を禁止した憲法条項を無視し辞任を拒否した。

議会は1996年4月、東部南キヴ州ツチバニャムレンゲの追放を決議し政府軍が攻撃。ルワンダウガンダブルンジなど周辺諸国に支援されたバニャムレンゲコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) などの武装組織が反撃し、1997年5月の第一次コンゴ戦争ではアンゴラザイールに出兵し、キンシャサを制圧してモブツ政権は崩壊した。

コンゴ民主共和国・第二次コンゴ戦争

編集
 
第二次コンゴ戦争の交戦国。黒: コンゴ民主共和国 (DRC)、緑: 反DRC連合、濃青: DRC連合、薄青: DRC連合(直接は介入せず)

AFDLのローラン・カビラ議長が大統領に就任、国名をザイール共和国からコンゴ民主共和国に変更した。カビラは司法権を除く全権を自身に付与することを発表するなど、強権支配体制を敷いた。カビラはツチ系が政権を握るルワンダなどの影響力が強まることを恐れ、政権や軍部からツチ系の排除を始めたために1998年8月に東部を中心として第二次コンゴ戦争に発展(イトゥリ紛争英語版の継続、キヴ紛争の開始)。国内のダイヤモンドコバルトなどの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、反政府勢力コンゴ民主連合 (RCD) を主にウガンダとルワンダが、政府軍を主にジンバブエナミビア、アンゴラが支援する事態となった。戦闘などで住民20万人以上が死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が死亡したとされる。

1998年から2000年東部州(現高ウエレ州)の金鉱山(ドゥルバ鉱山英語版ワツァ鉱山英語版)でマールブルグ熱の感染により128人が死亡した。

政府と介入5か国は1999年7月、ザンビアのルサカルサカ停戦協定英語版に調印。しかしカビラ大統領は国連部隊の自由な展開を拒否し、停戦は事実上無効化した。2001年1月16日、ローラン・カビラ大統領が暗殺され(護衛兵に撃たれ死亡)、26日に後継者に第二次コンゴ戦争をコンゴ軍参謀総長として指揮していた長男のジョゼフ・カビラが選ばれ、当時世界最年少の大統領となった[16]

和平協定に向け、2001年10月15日からエチオピアアディスアベバで対話が実現。ルワンダが支援するコンゴ民主連合 (RCD)、ウガンダが支援するコンゴ解放運動英語版 (MLC)、そしてRCDから分離したコンゴ民主連合解放運動英語版 (RCD-ML) [注釈 1]の主要反政府勢力3組織などが、協議継続などをうたった共同声明に調印した。

2002年2月25日、戦争終結を目指す各派の対話がボツワナクェット・マシーレ前大統領を調停役として南アフリカサンシティで再開されたが決裂。対話は南アフリカのプレトリアで、セネガルのニアセ前首相の仲介で再開され、反政府勢力からRCDとMLCが参加した。2002年8月、ムベキ南アフリカ大統領の仲介により、12月にプレトリア包括和平合意が成立した。この第二次コンゴ戦争で起きた虐殺・病・飢えで死んだものは500~600万人とされる。

2003年にはコンゴ共和国の感染爆発が飛火した北部地方でエボラ出血熱が流行。死亡者は100名以上に及んだ。また、同国を生息地とするゴリラへも感染が広がり、2005年までに全個体数の2/3にあたる約5,500匹が死亡したと発表されている。2003年7月、合意に基づきコンゴ民主共和国暫定政府が正式に発足。しかし暫定政権はその後も国内すべてを掌握できず、引き続き戦争状態が続いた。民族対立とも相まって東部(イトゥリ州南キヴ州北キヴ州)は虐殺・略奪・強姦の頻発する一種の無法地帯となった。

民主化

編集

和平合意により2005年に大統領選挙と国民議会選挙を行い民主的政権に移管する予定だったが、同年7月に選挙準備の遅れを理由に延期された。2005年12月には、この選挙の前提としての憲法草案に対する国民投票が行われ、賛成多数で可決した。この結果を受けて2006年2月18日に新憲法が発効され、2006年6月に選挙が実施されることが決まった。

しかし、各地で武装組織の活動が続き、不穏な情勢の中で投票日を迎えた。2006年6月までに実施を予定していたが、実施されたのは同年7月30日であった。2006年7月30日、大統領選挙と議会選挙が行われた。定数500。8月20日、大統領選挙の暫定公式結果が発表された。当選に必要な過半数の得票率の候補者がなく10月29日に上位2人の決選投票が行われることになった。独立選挙委員会の発表によると、「大統領多数派連合」から立候補したカビラ暫定政府大統領の得票数は44.81%。元コンゴ解放運動英語版 (MLC) 指導者で暫定政府副大統領のベンバが20.03%で2位。投票率は、約2500万人の登録有権者のうち70%が投票した。

2007年以降の暴力・紛争

編集

2007年8月3日アルバート湖ホイマ県タロー石油)で石油探査中のウガンダ側のヘリテージ・オイル社とコンゴ側が交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。ウガンダと南スーダン自治政府軍による神の抵抗軍(LRA)掃討作戦ガランバ攻勢英語版2008年12月14日 - 2009年3月15日)に協力する部隊を派遣した。神の抵抗軍の国内における組織的な活動は低下し、2013年現在、国軍は、国内でLRAは活動していないとしている。

2009年時点でコンゴ国民は毎月およそ45000人が亡くなっていたと考えられており[18] 、長い紛争の間に死亡した人数は90万人から540万人程度と推計された[19]。死亡者数は蔓延る感染病と飢饉によるものである。報告によれば、亡くなった人のほぼ半数が5歳以下の子供であった[20]。民間人を殺害する武器の運び屋や、資産の破壊、性的暴力の拡散[21]、何十万もの人々を家から逃げ出させる人道主義や人権法違反が度々報告されていた。コンゴ民主共和国では毎年40万人以上の女性がレイプされているとの研究結果もある[22]

2012年11月20日ウガンダルワンダに支援された3月23日運動が紛争を起こした(3月23日運動の反乱英語版)。政府は両国を非難した。

2013年2月24日、コンゴ民主共和国を安定化させるための国際連合が後援する協定(コンゴ民主共和国と周辺地域の安全保障・協力にむけた枠組み)がエチオピアの首都アディスアベバで調印された。調印したのはコンゴ民主共和国、コンゴ共和国アンゴラブルンジ中央アフリカ共和国ルワンダ南アフリカ南スーダンウガンダタンザニアからなるアフリカの11ヶ国である (UN News Centre 2013年)[23]。同年3月28日の国際連合安全保障理事会決議2098により国連初の目標を限定した平和執行部隊である強制介入旅団英語版(FIB)が設置され、国連による本格的な武力介入が始まり、同年11月6日に3月23日運動は壊滅的打撃を受けて降伏した。

2014年6月11日、コンゴ民主共和国とルワンダの国境付近で双方の軍が自国側に侵入したとして発砲を開始。コンゴ民主共和国軍の5人が死亡した[24]

2018年の大統領選挙

編集

2016年12月、同月19日に任期が切れたにも拘らず退陣せず居座るカビラ大統領に対し退陣デモが発生し、治安部隊の鎮圧により少なくとも40人が死亡し460人が拘束された[25]2017年末までに大統領選を実施することで与野党が合意したものの、選挙管理委員会は有権者登録の遅れを理由に選挙実施を2019年4月以降に延期した[26]

2018年12月30日、カビラ大統領の後継者と野党の2候補の計3人による大統領選挙が行われたが、開票の結果全ての候補者が優勢であることを主張するなど情勢は混乱を極めた。2019年1月1日、コンゴ政府はインターネットを通じた主張が騒乱を招くとしてネットの遮断を行った[27]。その後、1月10日選挙管理委員会は野党候補である民主社会進歩同盟(UDPS)のフェリックス・チセケディが約38.6%の得票率を得て勝利したと発表した。

政治

編集

政府

編集

政治体制は共和制

議会

編集

二院制で、元老院英語版(上院に相当、間接選挙)と国民議会英語版(下院に相当、直接選挙、500議席)で構成される。

政党

編集

チセケディ政権与党の民主社会進歩連合英語版 (UDSP)、旧カビラ政権の与党再建民主人民党 (PPRD)、ADFLの後身人民権力委員会 (CPP) のほか、旧モブツ政権下の独裁政党革命人民運動 (MPR)、そしてキリスト教民主社会党 (PDSC) など。

国際関係

編集

日本

編集

1960年のコンゴ民主共和国独立と同時に国家承認し、大使館を開設[28]。コンゴ川に唯一架かるマタディ橋日本の援助で建設された。

明治初期、岩倉使節団はベルギーを訪問した際、後に「コンゴ自由国」の支配者となるレオポルド2世に謁見した。

1921年大正10年)の3月3日から9月3日までの6ヶ月間、当時皇太子であった裕仁親王(後の昭和天皇)が、欧州訪問を行った際(皇太子裕仁親王の欧州訪問)、ベルギーに滞在していた6月11日、レオポルド2世の墓に参拝した。

昭和戦後には、京都大学京都大学霊長類研究所 が設置され、 山極寿一松沢哲郎などの霊長類学の研究者によって、コンゴ民主共和国におけるゴリラやチンパンジー、ボノボなどの霊長類などの調査・研究が行われている。

在留日本人数 - 98人(2022年6月現在)[29] 在日コンゴ民主共和国人数 - 495人(2021年6月)[29]

駐日コンゴ民主共和国大使館

編集

中華人民共和国

編集

1972年に国交を樹立[30]、モブツやカビラ親子の時代から軍事的にも経済的にも密接な関係を持ってきた。ザイールの時代には第一次シャバ紛争英語版などで中国から軍事顧問団の派遣や戦車などの武器供与を受け[31][32][33]、モブツの所有する中国庭園やコンゴ議会の所在するキンシャサ人民宮殿英語版と国立競技場のスタッド・デ・マルティールなども中国の援助で建設された[34][35][36][37][38]。コンゴ軍参謀総長を務め、コンゴ初の普通選挙で選ばれた大統領でもあるジョゼフ・カビラは中国人民解放軍国防大学に留学していた経歴を持つ[39][40]

国際連合コンゴ民主共和国安定化ミッションでは中国人民解放軍の平和維持部隊を派兵し[41]、コンゴ軍の訓練も行っていた[42][43]。コンゴ民主共和国への投資も積極的に行い[44]、なかでも中国企業の洛陽欒川モリブデン英語版による世界最大の銅コバルト鉱山テンケ・フングルーメ鉱山の買収はコンゴ最大の外国投資とされる[45][46]。人権団体のアムネスティは児童労働などでコンゴから得て硫酸コバルトや酸化コバルトなどコバルトの精製品の8割近くを生産している中国企業がAppleマイクロソフトサムソンソニーダイムラーフォルクスワーゲンなど多国籍企業に供給していると批判して問題となった[47][48][49][50]。コンゴ民主共和国にとって重要な資源輸出経路であるベンゲラ鉄道は中国の支援で開通している[51]

国家安全保障

編集

地理

編集
 
コンゴ民主共和国の地形図

コンゴ民主共和国の面積は西ヨーロッパに匹敵する。3分の1が赤道の北側に、3分の2が南側に位置する。非常に雨が多く、雷も地球上で最も多い。年間降雨量は場所により2,000ミリを超え、アマゾンに次ぐ広さの熱帯雨林を抱える。西の大西洋へゆっくり下るコンゴ川の流域は広大なコンゴ盆地の大部分を占める。南はサバンナに続く高地に、西は山がちの台地に、北は草地に囲まれ、最も東には氷河で覆われる高山がある。

コンゴの名前はコンゴ川と植民地以前に存在したコンゴ王国に由来する。流域はコンゴの経済・輸送の背骨であり、住民の日常生活に大きく影響している。アフリカ大地溝帯にあるボヨマ滝の下流のキサンガニから西へ流れ始め、ゆっくり南西に向きを変え、ムバンダカを過ぎてウバンギ川と合流し、プールマレボ(スタンレープール)に注ぐ。キンシャサとブラザヴィルはこのプールの対岸同士である。ここから川幅が狭くなり、峡谷にはいくつもの急流と瀑布があり、集合的にリビングストン滝と呼ばれる。アマゾン川に次ぐ流量と流域面積を誇るが、コンゴが大西洋に面する部分はコンゴ川の北側40kmに過ぎない。

大地溝帯は火山活動を起こし、アルバート湖エドワード湖タンガニーカ湖などの大湖を形成した。最も重要なのは南部と東部にある膨大な鉱物資源を地表へ露出させ採掘可能にしたことである。コバルト、銅、カドミウム、ダイアモンド、金、銀、亜鉛、マンガン、錫、ゲルマニウム、ウラン、ラジウム、ボーキサイト、鉄鉱、石炭がすべて豊富にあり、とくに南東部カタンガ地域が有名である。2002年1月17日に噴火したニーラゴンゴ火山の溶岩は幅50m、時速60kmの早さで流れてゴマ市付近を襲い、45人を死亡させ12万人の家を奪った。40万人が避難し、キブ湖の魚が全滅した。半年後には近くのニャムラギラ火山も噴火し、2006年に再噴火している。

陸上国境線と海岸線の合計のうち海岸線が占める割合が0.3%しかなく、準内陸国に分類されている。この0.3%という値は世界に存在する8つの準内陸国の中で最も小さい。

地方行政区分

編集
 
州及びキンシャサ

2015年からキンシャサ市および以下の25の州によって構成されている。

# フランス語 州都[52] 人口
(2020年推定[53])
面積[52]
(km2)
人口密度
(人/km2)
旧州
(2015年以前)
1. キンシャサ特別州 Kinshasa - 14,565,700 9,965 1,462 キンシャサ特別州
2. コンゴ中央州 Bas-Congo マタディ 6,838,500 53,920 127 コンゴ中央州
3. クワンゴ州 Kwango ケンジュ 2,618,700 89,974 29 バンドゥンドゥ州
4. クウィル州 Kwilu バンドゥンドゥ 6,682,300 78,533 85 バンドゥンドゥ州
5. マイ=ンドンベ州 Mai-Ndombe イノンゴ 2,254,100 127,343 18 バンドゥンドゥ州
6. カサイ州 Kasaï ツィカパ 3,417,000 95,631 36 西カサイ州
7. 中央カサイ州 Kasaï-Central カナンガ 4,045,300 59,500 68 西カサイ州
8. 東カサイ州 Kasaï-Oriental ムブジマイ 3,864,300 9,545 405 旧東カサイ州
9. ロマミ州 Lomami カビンダ 3,001,900 56,426 53 旧東カサイ州
10. サンクル州 Sankuru ルサンボ 2,593,400 104,331 25 旧東カサイ州
11. マニエマ州 Maniema キンドゥ 2,856,300 132,520 22 マニエマ州
12. 南キヴ州 Sud-Kivu ブカヴ 7,066,400 64,791 109 南キヴ州
13. 北キヴ州 Nord-Kivu ゴマ 8,147,400 59,483 137 北キヴ州
14. イトゥリ州 Ituri ブニア 4,392,200 65,658 67 東部州
15. 高ウエレ州 Haut-Uele イシロ 2,242,500 89,683 25 東部州
16. ツォポ州 Tshopo キサンガニ 2,829,700 199,567 14 東部州
17. 低ウエレ州 Bas-Uele ブタ 1,369,600 148,331 9 東部州
18. 北ウバンギ州 Nord-Ubangi バドリテ 1,542,500 56,644 27 旧赤道州
19. モンガラ州 Mongala リサラ 2,114,100 58,141 36 旧赤道州
20. 南ウバンギ州 Sud-Ubangi ゲメナ 2,987,100 51,648 58 旧赤道州
21. 赤道州 Équateur ムバンダカ 1,856,000 103,902 18 旧赤道州
22. ツアパ州 Tshuapa ボエンデ 1,944,500 132,957 15 旧赤道州
23. タンガニーカ州 Tanganyika カレミ 3,792,200 134,940 28 カタンガ州
24. 上ロマミ州 Haut-Lomami カミナ 3,662,800 108,204 34 カタンガ州
25. ルアラバ州 Lualaba コルヴェジ 3,183,300 121,308 26 カタンガ州
26. 上カタンガ州 Haut-Katanga ルブンバシ 5,718,800 132,425 43 カタンガ州

主要都市

編集
 
コンゴ民主共和国の地図
順位 都市 フランス語 人口
1. キンシャサ Kinshasa 7,785,965 キンシャサ
2. ルブンバシ Lubumbashi 1,373,770 上カタンガ州
3. ムブジマイ Mbuji-Mayi 874,761 東カサイ州
4. キサンガニ Kisangani 539,158 ツォポ州
5. カナンガ Kananga 463,546 ルルア州
6. リカシ Likasi 422,414 上カタンガ州
7. コルヴェジ Kolwezi 418,000 ルアラバ州
8. ツィカパ Tshikapa 267,462 カサイ州
9. ブカヴ Bukavu 225,389 南キヴ州
10. ムワンヌ・ディトゥ Mwene-Ditu 189,177 ロマミ州
11. キクウィト Kikwit 186,991 クウィル州
12. ムバンダカ Mubandaka 184,185 赤道州
13. マタディ Matadi 180,109 コンゴ中央州
14. ウビラ Uvira 170,391 南キヴ州
15. ブテンボ Butembo 154,621 北キヴ州
16. ガンダジカ Gandajika 154,425 ロマミ州
17. カレミ Kalemie 146,974 タンガニーカ州
18. ゴマ Goma 144,124 北キヴ州
19. キンドゥ Kindu 135,698 マニエマ州
20. イシロ Isiro 127,076 高ウエレ州
21. バンドゥンドゥ Bandundu 118,211 マイ=ンドンベ州
22. ゲメナ Gemena 117,639 南ウバンギ州
23. イレボ Ilebo 107,093 カサイ州

経済

編集
 
首都キンシャサ

コンゴ民主共和国は地下資源に恵まれるものの、1990年代の内戦などでインフラは破壊され経済は壊滅状態となっており、世界最貧国の1つとなっている。

鉱業

編集

コバルトダイヤモンドカドミウム亜鉛マンガン(世界1位)、スズゲルマニウムウランラジウムボーキサイト鉄鉱石石炭プラチナ(世界1位)などを産する世界トップクラスの鉱産資源国であり、輸出の約9割を鉱産資源が占める。コバルトの埋蔵量は世界の約65%。かつてはウランの採掘も行われており、ベルギー資本のユニオン・ミニエール社が一手に事業を仕切っていた。1945年広島市に投下された原子爆弾の原料はベルギー領コンゴ国産であった。

一方、錫石スズの鉱石)・鉄マンガン重石英語版タングステンの鉱石[注釈 2])・コルタンタンタルの鉱石)・は、北キヴ州で展開する紛争(キヴ紛争及びM23 rebellion)の反政府武装組織(人民防衛国民会議3月23日運動)の資金源とされている紛争鉱物であり、国内が不安定化する要因の一つとなっている。

また、ギニア湾沖に海底油田を擁しており、原油の輸出も盛んでコンゴ民主共和国の経済を支える重要な財源となっている。

エネルギー

編集

コンゴ民主共和国のエネルギー英語版」を参照

2008年辺りから本格的に純エネルギー輸出国として国際市場に進出。石油、天然ガス石炭が発見されており、比較的治安が安定している西部では水力発電所の建設も行われている。アフリカ南部ではアンゴラに次ぐ原油埋蔵量を誇る。埋蔵量の殆どはギニア湾沖であり、内陸で取れる石油資源は少ないとされる。

交通

編集
 
コンゴ民主共和国交通図。青が水運可能な河川、黒が鉄道(以上2006年)、赤は舗装道路、黄は未舗装路(2000年)
 
再建された鉄道によりジョゼフ・カビラの肖像画を掲げてルブンバシからキンドゥに到着した列車。

コンゴ民主共和国の陸上交通は慢性的に困難な状態である。コンゴ盆地の地勢と気候は道路鉄道を建設するのに深刻な障壁となり、この広大な国家を横断するための距離は莫大である。さらに、慢性的な経済的失敗と国内紛争によって長年に渡り、投資が深刻に低い水準に留まっている。

一方で、数千キロの航行可能な水路が存在し、伝統的に水上交通は国の移動の約2/3を占めてきた。

コンゴ民主共和国によって保障された全ての航空会社は安全基準が不十分なため、欧州委員会によりヨーロッパ連合内の飛行・発着を禁止されている[54]

国民

編集

人口

編集

コンゴ民主共和国は1960年の独立以降国勢調査を1984年の1度しか実施しておらず、国民の実態を把握することが困難となっている。1984年の国勢調査によると総人口は29,671,407人[55]。次回の国勢調査の予定は2022年11月である[56]

1997年の推定人口は4,670万人であったが、長引く戦争にもかかわらず急激な増加を示している。しかし人口増加率の算出方法が各所によって異なるため、総人口の推定値は場合によって約1000万人近くの誤差が存在する。例えば国の統計機関は2019年の人口を9,837万人[57]としているが、同年の国際連合の推計値は8,679万人であった[58]。2021年の人口についても国際連合人口基金は9,240万人と推定したのに対して[59]ザ・ワールド・ファクトブック中央情報局)はエイズによる平均寿命の低下を考慮したうえで1億504万人と推定している[60]

国の人口順位は前述の通り資料によって10代後半から20代前半までと変動する。またアフリカではナイジェリアエチオピアエジプトに次いで4番目に人口が多い国として位置付けられている。アフリカの上位3か国はいずれも1億人を超えており、5番目に多いタンザニアの人口は6000万人代と大きな隔たりがあることから、こちらの順位が変動することはあまりない。

民族

編集

250以上の民族集団が認識され、名づけられている。バントゥー系スーダン系英語版ナイル系などの黒人が大半を占め、ピグミーが原住民として60万人いる。最も人口が多いのはコンゴ人ルバ人モンゴ人などである。

言語

編集
 
コンゴの言語地図

コンゴ民主共和国内には約242の言語が存在するが、公用語フランス語である。アフリカの言語からはスワヒリ語(キスワヒリ)、コンゴ語(キコンゴ)、リンガラ語ルバ語の4つが国民語として認められており、西部ではリンガラ語の影響力が、東部ではスワヒリ語の影響力がそれぞれ増す傾向にある。700もの地方語や方言が話されているが、この言語的不一致は、フランス語と、スワヒリ語コンゴ語リンガラ語ルバ語といった仲介言語の広範な普及によって乗り越えられている。

宗教

編集
コンゴ民主共和国の宗教[61]
宗派 パーセンテージ
カトリック
  
50%
プロテスタント
  
20%
キンバングー教会
  
10%
イスラム
  
10%
アフリカ伝統宗教
  
10%

コンゴ民主共和国の主要宗教はキリスト教であり、人口の約80%によって信仰されている。宗派ごとに見ると、カトリックが50%、プロテスタントが20%、キンバングー教会(キンバングー運動)が10%となる[62]。キンバングー教会は植民地時代にシモン・キンバングによって創設され、植民地支配体制を批判する勢力となったためにベルギー当局によって弾圧された。キンバングー教会には約300万人の信徒が存在し[62]、バス=コンゴとキンシャサのコンゴ人が主な担い手となっている。コンゴ民主共和国においてウィリアム・ブランハムは最も多くのキリスト教徒を集め、およそ2,000,000人の信徒が存在すると見積もられている[要出典] 。コンゴキリスト教会の傘下に62のプロテスタントの諸宗派が連合している。人口の20%以上を占めるプロテスタントをカバーしているため、単に「プロテスタント教会」と言及されることもある。

残りの20%の人口のうち、半数はムスリムであり[63] 、残りは伝統宗教か、習合した宗派を信仰している。イスラームはアラブ人の奴隷商人によって象牙交易などを通して普及された[64]。伝統宗教は一神教アニミズム生気論霊魂崇拝祖先崇拝ウィッチクラフト、呪術などの概念によって具現化され、幅広い民族集団の間で異なっている。往々にして習合した宗派はキリスト教と伝統的な信仰や儀式を統合し、主流教会によってキリスト教の一部だとみなされることはない。

教育

編集
 
コンゴ民主共和国の教室

コンゴ民主共和国の教育システムはMinistère de l’Enseignement Primaire, Secondaire et Professionnel (MEPSP)、Ministère de l’Enseignement Supérieur et Universitaire (MESU)Ministère des Affaires Sociales (MAS)の3つの省庁によって担われている。教育システムはベルギーのものと似ている。2002年には、160,000人の生徒が通う19,000校以上の初等学校と、110,000人の生徒が通う高等学校中等教育を行う)が存在した。

しかしながら、コンゴ民主共和国の初等教育は必修ではなく、無料でも一般的なものでもなく、多くの児童は両親が入学金を支払うことができないために学校に通うことができない[65]。両親は慣習的に教員の給料を支払うことを期待されているのである[65]。1998年には、近年のデータが利用可能になり、初等教育の就学率の合計は50%だった[65]。就学率の合計は初等学校に正式に登録された生徒の数に基づいており、それゆえに実際の登校率に反映しているとは限らない[65]。2000年には、10歳から14歳までの児童の65%が学校に出席していた[65]。6年間の内戦のため、520万人以上の児童が教育を受けていない[65]

2021年の推計によれば、識字率は男性89.5%、女性70.8%である[66]

保健

編集

治安

編集

コンゴ民主共和国の治安は不安定な状態に見舞われている。国家の混沌が今も続く為、安易に街中を巡ることは危険性が高く、外出時には常に注意を求められる。

首都キンシャサでは「シェゲ」と呼ばれるストリート・チルドレンによるひったくりスリ、「クルナ」と呼ばれる不良暴力集団による殺人強盗、恐喝事件などが多発している。特に夜間は、武装グループによる民家や車両を狙った強盗などの凶悪事件も多発しており、軍人や警察官が加害者になるケースも稀ではないと言われている。また、警察官などを装って金品を要求する詐欺などの犯罪も頻発しており、警察による安全の確保や事後の捜査は期待出来ないものと見た方がいいとの酷評までされている実情がある。

また、東部地域(オー=ウエレ州イトゥリ州北キブ州南キブ州及びバ=ズエレ州の中央アフリカとの国境地帯など)では、依然として武装勢力による地元住民の虐殺誘拐などの非人道的行為の発生が多数報告されており[注釈 3]、加えて政府の統治も未だ完全に行き届いてはおらず、不安定な状態が続いている[67]。このためイトゥリ州と北キヴ州は反政府武装勢力を鎮圧する名目で2021年5月6日以降、軍と警察に完全な権限が与えられ州政府が運営されており、事実上の戒厳状態にある。この措置は当初は30日間限定であったが以降も議会によって15日ずつ延長を繰り返しており、2022年8月現在に至っても継続されている。しかし紛争の鎮圧に効果があったとは言い難く、2020年4月から2021年5月までの間に国軍と武装勢力との衝突は約400件、それによる民間人殺害が1,374人だったのに対し、戒厳状態となった2021年5月から2022年4月までは約600件、2,500人以上と悪化している[68]

2022年時点においても民主同盟軍英語版(ADF)をはじめとする、120を超える反政府武装組織が主にイトゥリ州、北キブ州、南キブ州など東部で活動を行っていると見られている[69][70]

人権

編集

女性の地位

編集
 
フフを作る若い女性

2006年、国連女子差別撤廃委員会は、コンゴ民主共和国の戦後の過渡期において、女性の人権の尊重・両性の平等の促進が重視されていないことについて懸念を表明した[71]

2007年、『ワシントン・ポスト』は、コンゴ東部での強姦性的暴力の深刻さ・頻度について、世界のほかのどの地域よりも悪いと伝えた[72]アフリカ人権防衛協会の2006年の報告書は、コンゴ民主共和国の女性が法律的・日常的に直面する諸問題を概観している[73]。戦争の中で女性たちは犯され続け、兵士たちの奴隷とされた。解放されたときには、自殺したり、あるいはそのまま入院して亡くなってしまう例も多かったという。

戦争は女性の生活を危ういものにした。そこでは、女性に対する暴力が「武器」として常用された。例えば、男性にを突き付けその人自身の姉妹を強姦するように強要する事例が多数あったと報告されている[74]。2007年7月には、国際赤十字委員会がコンゴ民主共和国東部の状態に懸念を表明した[75]。昼間は比較的平穏な生活を送りつつ、夜になると安全な場所への避難を余儀なくされる「振り子避難民」女性の存在も指摘された。暴力に関する国連特別報告者として2007年7月にコンゴ東部を視察したヤキン・エルトゥルク (Yakin Ertürk) によれば、南北キヴ州の女性に対する暴力は「想像を絶するほどの残虐性」を含んでおり、「武装集団が地域共同体を襲撃し、略奪し、強姦し、女性と子供を誘拐して性的奴隷としている」という[76]

メディア

編集

コンゴ民主共和国は憲法において言論と報道の自由を規定しているが、肝心の同国政府はこの権利の実践を制限している。

また、ジャーナリストへの不当逮捕や殺人、その他の嫌がらせが頻繁に報告されていて現在も問題となっている。国境なき記者団が毎年発表している『報道の自由の世界ランキング』では、2009年にコンゴ民主共和国が175か国中146か国にランク付けされている[77][78]

文化

編集
 
エンバの男性像

コンゴ民主共和国の文化は数百を越す民族集団の多様性と、国全体を通した生き方の差異が反映されている。例えば沿岸部のコンゴ川の河口、上流の熱帯雨林、中央部のサヴァナ、東部の人口が密集した山岳部などである。19世紀末から伝統的な生き方は、植民地主義、独立の混乱、モブツ時代の停滞、そして近年の第一次コンゴ戦争や第二次コンゴ戦争などによって変容した。このような圧力にもかかわらず、コンゴの習慣や文化はクバ王国の伝統(クバの布など)に見られるようにその独自性を強く保っている。6,000万の住民は多くは農村部に居住している。都市部に居住する30%の人口は西側世界の文化の影響に強く開かれている。

食文化

編集

文学

編集

詩人でありジャーナリストでもあったアントワーヌ=ロジャー・ボランバフランス語版の『壊れた鎖』(1945)は、戦時中の同国の凄惨さや激動の場面を深く抉り取った書き口である為、アフリカ文学において高い評価を得られている。

また、自伝作家のレオニー・アボフランス語版英語版は、夫が当時の政治家であるピエール・ムレレフランス語版英語版であったことから、亡命生活を始めとする日常生活や革命運動時の様子を基にした作品を世に出しており、『危険な証言』(1996)[79]はその一部として世に知られている。

日本で知名度が高い小説家にはカマ・シウォール・カマンダがおり、テレビ東京系列の番組「YOUは何しに日本へ?」に出演したことからその存在に注目が集まっている。カマンダは語り部劇作家としても名を馳せている。

音楽

編集

ポピュラー音楽においては、植民地時代の1930年代、1940年代にキューバからルンバなどのラテン音楽がもたらされ、ベルギー領コンゴでも盛んにラテン音楽の演奏が行われた。また、1950年代にはアメリカ合衆国ジャズアフリカン・ジャズとして盛んに受容された。1956年には、「コンゴ音楽の王」とも呼ばれた、フランコことフランソワ・ルアンボ・マキアディフランス語版英語版が「OKジャズ(後にTPOKジャズ英語版に改称)」を結成。また、ル・グラン・カレ(偉大なるカレ)の名前で知られるジョゼフ・カバセレフランス語版英語版アフリカン・ジャズ英語版フランス語版を結成した。このような管楽器などを加えた大所帯バンドが流行り出し、ルンバ・コンゴリーズが形成されるようになった。[80]マーロ・マシも同年代のミュージシャンである。

コンゴのポピュラー音楽はそのようなアメリカ大陸のリズムだけではなく、教会音楽やガーナハイライフ、さらにはコンゴの伝統音楽をも取り入れて発達していった。1969年にパパ・ウェンバが中心となってザイコ・ランガ・ランガフランス語版が結成された後のポピュラー音楽は、キューバ音楽英語版の模倣を越えてザイール音楽を形成し、その流れのままザイールのポピュラー音楽の主要ジャンルとして諸外国に名を轟かせた、ルンバ・ロックやリンガラ・ポップスと呼ばれるジャンルが生まれた。また、その傍らでアフリカ独自のルンバならびポップダンスのカテゴリーとしてコンゴ・ルンバフランス語版が新たに創設され、コンゴ・ルンバは後にコンゴ民主共和国とコンゴ共和国の音楽ジャンルの一つとして確立し、2021年12月に無形文化遺産の一つとして登録された[81][82]。リンガラ・ポップスのミュージシャンとしてはザイコ・ランガ・ランガの他にトゥ・ザイナタブー・レイフランス語版オルケストル・ヴェヴェカンダ・ボンゴマンサム・マングワナなどの名が挙げられる。

その他にも北東部のイトゥリの森: Ituri (Rain)forest)のピグミー人ムブティ)には独自の音楽文化が存在する。

世界遺産

編集

コンゴ民主共和国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された自然遺産が5件存在する。

祝祭日

編集
祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月4日 独立の殉教者の日 journée des Martyrs de l'indépendance
1月16日 date anniversaire de l'assassinat du Président de la République Laurent-Désiré Kabila
1月17日 date anniversaire de l'assassinat du premier Ministre Patrice Émery Lumumba père de l' indépendance nationale
5月1日 メーデー journée internationale du travail
5月17日 date anniversaire de la libération du Peuple de la tyrannie
6月30日 独立記念日 date anniversaire de l'indépendance
8月1日 両親の日 fête des parents/anciens

スポーツ

編集

サッカー

編集

コンゴ民主共和国ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1958年にプロサッカーリーグのリナフットが創設された。コンゴ民主共和国サッカー協会連盟英語版によって構成されるサッカーコンゴ民主共和国代表は、FIFAワールドカップには1974年大会で初出場を果たしている。アフリカネイションズカップでは自国開催となった1968年大会と、1974年エジプト大会で2度の優勝経験をもつ。

著名な出身者

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ Human Rights WatchはRCD-K-MLが少年兵を徴兵していることを告発した[17]
  2. ^ ウォルフラマイトは、鉄マンガン重石もしくはタングステン鉱とも呼ばれる。
  3. ^ 国連の報告によれば、イトゥリ州、北キブ州、南キブ州などでは、2020年上半期で1,300人以上が殺害されており、2019年の同時期と比較して約3倍増となっているとされる。

出典

編集
  1. ^ Congo, Democratic Republic of the” (英語). ザ・ワールド・ファクトブック. 2022年8月9日閲覧。
  2. ^ Population, total - Congo, Dem. Rep.”. data.worldbank.org. 世界銀行. 2021年11月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年10月17日閲覧([1]
  4. ^ 本保正紀 (1995), “コンゴ共和国”, 外国地名由来辞典, 能登印刷出版部 
  5. ^ Constitution de la République Démocratique du Congo du 1er août 1964 (1964年8月1日のコンゴ民主共和国憲法)” (フランス語). Global Legal Information Network (1964年). 2012年6月12日閲覧。 [リンク切れ]
  6. ^ Thomas Turner (1993年). “Chapter 4 - Government and Politics: Postindependence Political Development” (英語). A Country Study: Zaire (Former). アメリカ議会図書館. p. 3. 2012年6月12日閲覧。 “Zaire was formally called the Republic of the Congo from independence to August 1, 1964, when it became the Democratic Republic of the Congo.
  7. ^ Burundi–Democratic Republic of the Congo (Zaire) Boundary” (PDF) (英語). International Boundary Study. アメリカ合衆国国務省情報調査局 (1965年4月30日). 2012年6月12日閲覧。 “The name of the Republic of the Congo was officially changed to the Democratic Republic of the Congo on August 1, 1964.
  8. ^ the Republic of the Congo”. The United Nations Terminology Database. 2021年10月4日閲覧。
  9. ^ the Democratic Republic of the Congo”. The United Nations Terminology Database. 2021年10月4日閲覧。
  10. ^ Growth in United Nations membership”. 国際連合. 2021年10月4日閲覧。
  11. ^ Member States/Congo”. 国際連合. 2021年10月4日閲覧。
  12. ^ Member States/Democratic Republic of the Congo”. 国際連合. 2021年10月4日閲覧。
  13. ^ コンゴ支配に遺憾表明 ベルギー国王が歴史的訪問”. AFP (2022年6月9日). 2022年6月27日閲覧。
  14. ^ “What they said about Muhammad Ali”. BBC Sport. (2012年1月17日). http://www.bbc.co.uk/sport/0/mobile/boxing/16289663 2012年3月7日閲覧。 
  15. ^ Johnson, K. M.; Webb, P. A.; Lange, J. V.; Murphy, F. A. (1977). “Isolation and partial characterisation of a new virus causing haemorrhagic fever in Zambia”. Lancet 309 (8011): 569–71. PMID 65661. 
  16. ^ “THE ACTUAL PRESIDENT OF THE DRC”. congokin. (2015年12月30日). http://www.congokin.co.uk/5004-2/ 2018年8月24日閲覧。 
  17. ^ CHILDREN ASSOCIATED WITH ARMED FORCES AND GROUPS, The Watchlist on Children and Armed Conflict, 2006-01-31, accessed on 2007-02-11
  18. ^ Kristof, Nicholas D. (31 January 2010) Orphaned, Raped and Ignored, New York Times
  19. ^ Butty, James (21 January 2010) A New Study Finds Death Toll in Congo War too High, VOA News
  20. ^ Polgreen, Lydia (23 January 2008). “Congo's Death Rate Unchanged Since War Ended”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2008/01/23/world/africa/23congo.html 27 March 2010閲覧。 
  21. ^ "IHL and Sexual Violence". The Program for Humanitarian Policy and Conflict Research.
  22. ^ "400,000 rapes in Congo in one year". The Independent. May 12, 2011.
  23. ^ UN urges long-term commitment to today's peace deal on DR Congo (Report). United Nations News Centre. 24 February 2013.
  24. ^ “コンゴとルワンダが国境で戦闘、コンゴ兵5人死亡”. AFPBBNews (フランス通信社). (2013年6月12日). https://www.afpbb.com/articles/-/3017437 2014年6月13日閲覧。 
  25. ^ “コンゴ民主共和国 居座る大統領、混乱招く”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2017年1月11日). https://mainichi.jp/articles/20170111/k00/00e/030/228000c 2017年10月22日閲覧。 
  26. ^ “コンゴ大統領選、大幅延期に 任期切れのままカビラ氏続投”. 沖縄タイムスプラス (沖縄タイムス社). (2017年10月12日). http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/155514 2017年10月22日閲覧。 
  27. ^ コンゴ政府、全土でネット遮断=大統領選後の騒乱阻止と説明”. 時事通信 (2019年1月3日). 2019年1月3日閲覧。
  28. ^ コンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo)
  29. ^ a b 外務省 コンゴ民主共和国基礎データ
  30. ^ Hon, Tracy; Jansson, Johanna; Shelton, Garth; Liu, Haifang; Burke, Christopher; Kiala, Carine. Evaluating China’s FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead . Centre for Chinese Studies, Stellenbosch University. January 2010
  31. ^ (PDF) zaire: the military under mobutu, CIA, https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/DOC_0000865335.pdf 2019年7月11日閲覧。 
  32. ^ Zaire - Army - Country Data
  33. ^ Zaire: Relations with the Communist World”. Library of Congress Country Studies (December 1993). 2018年8月25日閲覧。
  34. ^ Mianzenza, Aimé D. (10 October 2007). “Percée Tonituante de la Chine en République Démocratique du Congo: 6 milliards de US$ de prêt qui rend nerveux les Europeens” [Thunderous Breakthrough of China in the Democratic Republic of Congo: US $6 billion dollar loan makes Europeans nervous] (French). Centre d'études stratégiques du bassin du Congo. 2017年7月19日閲覧。
  35. ^ Rowe, Peter G.; Kuan, Seng (2004). Architectural Encounters with Essence and Form in Modern China. MIT Press. p. 229. ISBN 026268151X. https://books.google.com/books?id=9irZf11s4NkC&pg=PA229&lpg=PA229 
  36. ^ Points d’intérêt” [Points of Interest] (French). Tourisme RDC Congo. 2017年7月19日閲覧。
  37. ^ Oliver, Guy (2006). Almanack of World Football 2007:The definitive guide featuring all the facts and figures from the FIFA World Cup. Headline Book Publishing. p. 59. ISBN 0755315065. https://books.google.com/?id=x5na1WdCYywC&q=Martyrs%27+Stadium 
  38. ^ Evaluating China's FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead”. Centre for Chinese Studies, University of Stellenbosch. p. 43 (2010年). 2017年7月19日閲覧。
  39. ^ “非洲总统回中国母校(名人特写)”. 人民網. (2002年4月4日). http://www.people.com.cn/GB/paper68/5910/593184.html 2018年8月24日閲覧。 
  40. ^ “Joseph Kabila Kabange”. GlobalSecurity.org. https://www.globalsecurity.org/military/world/congo/kabila-kabange.htm 2018年8月25日閲覧。 
  41. ^ Feature: Chinese soldiers committed to peacekeeping mission in DRC ahead of Spring Festival”. 新華網 (2018年2月10日). 2018年8月25日閲覧。
  42. ^ See Africa Confidential, "A multinational road to army reform", 24 July 2009, p. 9
  43. ^ Reuters, "Factbox: International efforts at military reform in Congo", 23 December 2009.
  44. ^ Hon, Tracy; Jansson, Johanna; Shelton, Garth; Liu, Haifang; Burke, Christopher; Kiala, Carine (January 2010). "Evaluating China's FOCAC commitments to Africa and mapping the way ahead" . Centre for Chinese Studies, Stellenbosch University.
  45. ^ China plays long game on cobalt and electric batteries FT
  46. ^ 中国:洛陽モリブデン集団、DRコンゴ銅・コバルト鉱山買収
  47. ^ 世界のバッテリー支配狙う中国、コバルト供給牛耳る”. ウォール・ストリート・ジャーナル (2018年2月13日). 2018年6月26日閲覧。
  48. ^ 中国がコバルト市場を牛耳ったらどうなるか”. 日本ビジネスプレス (2018年3月30日). 2018年6月26日閲覧。
  49. ^ コンゴ民主共和国:巨大企業 コバルト採掘での児童労働問題を放置”. アムネスティ (2017年11月29日). 2018年6月26日閲覧。
  50. ^ コンゴ民主共和国:スマートフォンの裏に児童労働”. アムネスティ (2016年1月25日). 2018年6月26日閲覧。
  51. ^ 中国援助のアンゴラ・ベンゲラ鉄道が開通”. 人民網 (2015年2月16日). 2018年8月25日閲覧。
  52. ^ a b ANNUAIRE STATISTIQUE RDC 2020”. 国立統計研究所. p. 29 (2021年3月). 2021年10月4日閲覧。
  53. ^ Citypopulation.de/Democratic Republic of the Congo (formerly Zaire):Province” (2020年10月9日). 2021年10月4日閲覧。
  54. ^ List of airlines banned within the EU (24 July 2008) - Official EC list
  55. ^ Résultats provisoires du Recensement Scientifique de la Population du 1er juillet 1984” (pdf) (1984年). 2021年9月30日閲覧。
  56. ^ Census dates for all countries”. 国際連合 (2021年4月1日). 2021年9月30日閲覧。
  57. ^ ANNUAIRE STATISTIQUE RDC 2020”. 国立統計研究所. p. 29 (2021年3月). 2021年9月30日閲覧。
  58. ^ Population, total - Congo, Dem. Rep.”. data.worldbank.org. 世界銀行. 2021年11月7日閲覧。
  59. ^ Congo, the Democratic Republic of the”. 国際連合人口基金. 2021年9月30日閲覧。
  60. ^ Congo, Democratic Republic of the”. 中央情報局 (2021年9月22日). 2021年9月30日閲覧。
  61. ^ "Congo, Democratic Republic of the". The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency.
  62. ^ a b "Zaire (Democratic Republic of Congo)", Adherents.com - Religion by Location. Sources quoted are CIA Factbook (1998), 'official government web site' of Democratic Republic of Congo. Retrieved 25 may 2007.
  63. ^ "International Religious Freedom Report 2005", United States Department of State
  64. ^ The Archaeology of Islam in Sub-Saharan Africa By Timothy Insoll
  65. ^ a b c d e f "Congo, Democratic Republic of the". 2005 Findings on the Worst Forms of Child Labor. Bureau of International Labor Affairs, U.S. Department of Labor (2006). This article incorporates text from this source, which is in the public domain.
  66. ^ 共同通信社『世界年鑑2024』250頁。
  67. ^ コンゴ民主共和国安全対策基礎データ 海外安全ホームページ
  68. ^ “DRC: State of emergency in North Kivu, Ituri comes under scrutiny amid rising attacks”. アフリカニュース. (2022年4月28日). https://www.africanews.com/2022/04/28/drc-state-of-emergency-in-north-kivu-ituri-comes-under-scrutiny-amid-rising-attacks/ 2022年8月19日閲覧。 
  69. ^ コンゴ民主共和国東部で戦闘、7万2000人が避難”. AFP (2022年6月5日). 2022年6月5日閲覧。
  70. ^ Briefing note: Democratic Republic of Congo - Humanitarian concerns in North Kivu, South Kivu, and Ituri (21 July 2022)”. 国際連合人道問題調整事務所(OCHA) (2022年7月22日). 2022年8月19日閲覧。
  71. ^ Concluding comments of the Committee on the Elimination of Discrimination against Women: Democratic Republic of the Congo” (PDF) (2006年8月25日). 2010年1月25日閲覧。
  72. ^ Prevalence of Rape in E.Congo Described as Worst in World
  73. ^ Violence Against Women in the Democratic Republic of Congo (DRC)” (PDF). African Association for the Defence of Human Rights Réseau Action Femmes, 世界拷問防止機構. 2007年9月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年1月25日閲覧。
  74. ^ UN expert on violence against women expresses serious concerns following visit to Democratic Republic of Congo”. 2010年1月25日閲覧。
  75. ^ DRC: 'Civilians bearing brunt of South Kivu violence'”. IRIN (2 July 2007). 2010年1月25日閲覧。 “The International Committee of the Red Cross (ICRC) has expressed concern over abuses against civilians, especially women and children, in South Kivu in eastern Democratic Republic of Congo. It frequently receives reports of abductions, executions, rapes, and pillage.”
  76. ^ DRC: 'Pendulum displacement' in the Kivus”. IRIN. 2010年1月25日閲覧。
  77. ^ Reporters sans frontières  : Classement mondial 2009 Archived copy”. 2009年10月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
  78. ^ Reporters sans frontières”. 2010年3月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
  79. ^ UN TÉMOIGNAGE RISQUÉ Léonie ABO1996
  80. ^ ポップアフリカ700 萩原和也著
  81. ^ La rumba congolaise inscrite au patrimoine mondial de l’UNESCO 2021年12月14日 Agence Anadolu
  82. ^ La rumba congolaise au patrimoine immatériel de l'Unesco, fierté des deux côtés du fleuve 2021年12月15日 TV5MONDE

参考文献

編集
  • 梶茂樹「モンゴ人のジレンマ : ザイール国語化問題の一断章(アフリカ研究編)」『大阪外大スワヒリ&アフリカ研究』第2巻、大阪外国語大学、1991年、180-185頁、NAID 110006177613 
  • 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12

関連項目

編集
関連作品
  • ミサ・ルバ ‐コンゴの少年合唱団用に作られた。コンゴの伝統楽曲をベースに作られた。
  • わたしは、幸福 - コンゴ民主共和国を舞台とした2017年の映画

外部リンク

編集

座標: 南緯4度19分 東経15度19分 / 南緯4.317度 東経15.317度 / -4.317; 15.317