クロアチア=スラヴォニア王国

クロアチア=スラヴォニア王国
Kraljevina Hrvatska i Slavonija (クロアチア語)
Háromegy Királyság Horvátország és Szlavónia (ハンガリー語)
Dreieiniges Königreich Kroatien und Slawonien (ドイツ語)
クロアチア王国 (1527年-1868年)
スラヴォニア王国
クロアチア軍政国境地帯
スラヴォニア軍政国境地帯
1868年 - 1918年 スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
クロアチアの国旗 クロアチアの国章
国旗国章
国歌: Gott erhalte Franz den Kaiser(ドイツ語)
神よ、皇帝フランツを守り給え
クロアチアの位置
オーストリア=ハンガリー帝国におけるクロアチア=スラヴォニア王国(17)
公用語 クロアチア語[1][2][3][4][5]
宗教 カトリック
首都 ザグレブ
国王
1868年 - 1916年 フランツ・ヨーゼフ1世
1916年 - 1918年カール1世
バン
1868年 - 1871年(初代)レビン・ローチ・デ・ニェク
1917年 - 1918年(末代)アントゥン・ミハロヴィッチ
面積
1910年[6]42,541km²
人口
1880年[7]1,892,499人
1910年[8]2,621,954人
変遷
ナゴドバ法の成立 1868年9月26日
軍政国境地帯を編入1881年7月15日
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の独立1918年10月29日
通貨グルデン(1868年 - 1892年)
クローネ(1892年 - 1918年)
現在クロアチアの旗 クロアチア
セルビアの旗 セルビア
モンテネグロの旗 モンテネグロ

クロアチア=スラヴォニア王国(クロアチア=スラヴォニアおうこく、クロアチア語: Kraljevina Hrvatska i Slavonija; ハンガリー語: Horvát-Szlavón Királyság; オーストリアドイツ語:Königreich Kroatien und Slawonien)は、名目上の自治王国であり、オーストリア=ハンガリー帝国内で憲法上定義された別個の政治国家であった[9][10]。首都はザグレブ

クロアチアの歴史
クロアチア国章
この記事はシリーズの一部です。

クロアチア ポータル

1868年クロアチア王国スラヴォニア王国を統合する形で誕生し、ハンガリー王冠領に属していた。クロアチア=スラヴォニア王国は「国の特徴」を備えた幅広い内部自治権を与えられていたが、税や軍事などの重要な項目はハンガリー王国が実権を有していた[11][12]。国内ではクロアチア=スラヴォニア及びダルマチア三位一体王国[13][14]、または単に三位一体王国とも呼ばれ、オーストリア帝冠領に属していたダルマチア王国の領有を主張していた[15]リエカ追加条項クロアチア語版として知られる1868年の和解で紛糾したリエカ市はコルプス・セパラトゥム英語版とされ、法的にはハンガリーが領有していたものの、クロアチア=スラヴォニアとハンガリーが共同で管理していた。

クロアチア=スラヴォニア王国は、クロアチアスラヴォニアダルマチア王位を有し、継承に際してサボルがこれを承認したオーストリア皇帝によって支配された[16]。皇帝はクロアチアとスラヴォニアのバンを任命し、バンがサボルを主宰していた。1918年10月21日、カール1世(クロアチア王としてはカール4世)は帝国三分令を発布した。これは翌日ハンガリー側で承認され、全クロアチア王冠領は統一された[17]。1週間後の1918年10月29日にはサボルがスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の独立を宣言し、クロアチア=スラヴォニア王国は消滅した。

名称

編集
 
1873年から1880年まで王国のバンであったイヴァン・マジュラニッチ。

王国は、公式には「クロアチア=スラヴォニア及びダルマチア三位一体王国」と称し、オーストリア帝冠領ダルマチア王国の領有を歴史的権利に基づき主張していた。ハンガリー王国政府もハンガリー王冠領の拡大を企図してこの主張を支持していたが、オーストリア=ハンガリー帝国の下でクロアチア=スラヴォニア王国とダルマチア王国が統一されることはなかった[18]。ハンガリー王冠領におけるクロアチア=スラヴォニア王国の政治的地位を規定するナゴドバ法の第53条によると、バンの正式名称は「ダルマチア王国、クロアチア及びスラヴォニア王国のバン」であった[19][20][21]。帝国の各機関が異なる形式の称号を用いるのみならず、同じ機関内でもある機関に対して異なる命名基準を使用していた。たとえば、ウィーンの帝国裁判所と王立裁判所がクロアチアのバンをハンガリー王国の高官(ラテン語Barones Regni[22]として扱う際に使用される形式は、「クロアチア王国・ダルマチア及びスラヴォニアのバン」である。しかし、裁判所がクロアチア王国とスラヴォニア王国の最高官を挙げる場合、称号は「クロアチア・スラヴォニア及びダルマチアのバン」(スラヴォニアをダルマチアの前に置き、「王国」を省略)という形式になる[22]。クロアチア=スラヴォニア王国で可決された法律では、「ダルマチア・クロアチア及びスラヴォニア王国」という文言が使用されていた[23]

ハンガリー語では、クロアチアはHorvátországと呼ばれ、スラヴォニアはSzlavóniaと呼ばれる。統合されたクロアチア=スラヴォニア王国の政体は、Horvát-SzlavónKirályságという正式名称で知られていた。名称の短縮形はHorvát-Szlavónországであり、まれにHorvát-Tótországであった[24][25]

ダルマチアに言及する順序は、ナゴドバ法のクロアチア語版とハンガリー語版で異なる順序であったために論争の的となった[26]

歴史

編集

クロアチア=スラヴォニア王国は、前身のクロアチア王国スラヴォニア王国が統合される形で1868年に成立した。1745年の時点でスラヴォニア王国の民政全権がクロアチア王国に移管され、スラヴォニア王国はハンガリー王冠領としてハンガリー王国とクロアチア王国の支配下に置かれたが、形式的には1868年まで存続していた。疑義の残る選挙で選出されたサボル (クロアチア議会)が1868年にナゴドバ法(クロアチア=ハンガリー和解、クロアチア=ハンガリー合意、1868年のハンガリー=クロアチア妥協とも)と呼ばれるハンガリー=クロアチア連合憲法に署名し、クロアチア王国及びスラヴォニア王国のハンガリーへの従属を確認した[27]。ナゴドバ法の後に新たにに成立したクロアチア=スラヴォニア王国には、現在のクロアチアセルビアの一部(スレム東部)が含まれていた。

アウスグライヒの後、新体制で唯一残った未解決の問題はクロアチアの地位であり、これはハンガリー議会とサボル(クロアチア=スラヴォニア議会)の間で問題となっている憲法上の問題の共同制定による構成に関して、両議会が合意に達した際に解決されるものとされた[28]。ハンガリーとクロアチアの間で到達したナゴドバ法のクロアチア語版の正式名称は、「トランシルヴァニアと合同するハンガリー王国と、ダルマチア・クロアチア及びスラヴォニア王国間の和解」であった[19]。対してハンガリー語版では「ハンガリー議会とクロアチア・スラヴォニア及びダルマチア議会間の和解」であり[29]、ハンガリーもクロアチア・ダルマチア及びスラヴォニアも王国という形式では書かれず、トランシルヴァニアにも言及されていなかった。両言語版とも皇帝の裁可を受け、ナゴドバ法の第69条および第70条に従い、どちらも憲法上重要な国家の基本法となった。

この妥協により、ハンガリー=クロアチア連合議会[30](ハンガリーとクロアチア=スラヴォニアの合同議会。成立当初のクロアチア=スラヴォニアの議席は29であったが、1881年以降は40議席となった。)が軍事、金融、海(海事)法、商法、貿易法及び鉱業法、そして商業、税関、電信、郵便局、鉄道、港湾、海運、及びハンガリーとクロアチア=スラヴォニア双方に関係する道路および河川の一般問題に関する問題を司った[28]

そうした事柄と類似して、公共の利益が存在しない社会や、またパスポート、辺境警察、市民権及び帰化に関する問題や、行商を含む貿易問題についての立法は合同で行われていたが、その行政はクロアチア=スラヴォニア王国が単独で行っていた[28]。市民権はクロアチア=スラヴォニアで「ハンガリー=クロアチア市民権」と名付けられていた[31]。そしてこの合同統治のために、クロアチア-スラヴォニアの総歳入の55%が合同財務省(合同ハンガリー=クロアチア財務省)に割り当てられていた。

1881年7月15日、クロアチア=スラヴォニア王国はクロアチア軍政国境地帯スラヴォニア軍政国境地帯を王国に編入し、国土は倍増した。

クロアチア=スラヴォニア王国は、第一次世界大戦末期にオーストリア=ハンガリー帝国から独立を宣言した。1918年10月29日の、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国である。しかし国際社会には認められず、同年12月1日にセルビア王国に合流することにより、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を形成した。セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国は、1918年から1922年までに郡に分割され、1922年から1929年の間に州へと分割された。1929年に国名がユーゴスラビア王国となると、旧クロアチア=スラヴォニア王国領のほとんどがサヴァ州(サヴァ・バノヴィナ)の一部となり、1939年にクロアチア自治州となった。

政府と政治

編集

政治的地位

編集

1867年のアウスグライヒオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。アウスグライヒの下ではオーストリア、ハンガリーそれぞれが別々の議会(オーストリア帝国議会とハンガリー国会)を有し、別々の法律を持っていた。また、帝国内の各地域には独自の首相が率いる各自の政府があった。 全帝国政府(共通の帝国)は、ウィーン皇帝と外務、防衛、財政の共通大臣(common minister)で構成されていた。アウスグライヒはクロアチア王国及びスラヴォニア王国のハンガリーとの8世紀に渡る歴史的な関係を確認し、オーストリア帝冠領にあったダルマチアイストリアをダルマチア王国とイストリア辺境伯領として残し、クロアチア人地域の分断を永続させることを決定した[32]

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の言によって、ハンガリー王国クロアチア王国の間でナゴドバ法が成立し、クロアチアはハンガリー王冠領での特別な地位を得て、内政に関する自治権を獲得した。クロアチアのバンは、ハンガリーの首相が率いるクロアチア=ハンガリー合同政府によって指名され、ハンガリー王(オーストリア皇帝が兼位)によって任命された。ハンガリーとクロアチアが共同で管理した分野には、金融、通貨、商業政策、郵便、鉄道が含まれていた。クロアチア語はクロアチア政府の公用語となり、クロアチア=ハンガリー国会でクロアチア語を話すことを許可された。それ以前は共同管理の分野について話し合うクロアチア人の代表者がいた[33]。また、ハンガリー政府内にクロアチア諸事省が設立された[34]

ナゴドバはクロアチア=スラヴォニアに政治的自治の尺度を示したが、実態は大きく変わらず、政治的、経済的にハンガリーへと従属していた[32]

 
クロアチア=スラヴォニア王国の初代バン(1868-1871)、レビン・ローチの王立バン典範旗。
 
ザグレブにある、クロアチア三位一体王国を象徴する彫刻。

議会

編集

クロアチア議会、またはクロアチア=スラヴォニア=ダルマチア王立サボルクロアチア語Kraljevski Hrvatsko-slavonsko-dalmatinski sabor またはSaborKraljevina Hrvatske、Slavonije i Dalmacije )は、ナゴドバ法で認められた自治分野の立法権を持っていた。サボルで承認された法案はバンによって署名され、クロアチア=スラヴォニア国王(オーストリア=ハンガリー皇帝)の裁可を受けて法となった。国王(皇帝)はサボルで可決されたすべての法案を拒否し、サボルを解散して新しく選挙を行う権限を持っていた。国王がサボルを解散した場合、3か月以内に選挙が行われた。

議会は毎年ザグレブで行われ、国王または国王が特別に任命した委員(通常はバン)によって召集された。一院制であり、選出された88人(1888年)の議員と、44人のクロアチアスラボニア貴族公爵伯爵男爵イギリス世襲貴族に類似し、1000フォリント(グルデン)の土地税を支払った24歳以上の男性。)、ローマ・カトリック、ギリシャ・カトリックと東方正教会の高官と、クロアチア=スラボニアの郡知事(veliki župani)からなっていた。初期の任期は3年で、1887年からは5年になった。

サボルはハンガリー議会下院に29人(1881年にクロアチア軍政国境地帯スラヴォニア軍政国境地帯が再編された後は40人)の議員を選出し、ハンガリー議会の貴族院に2人の議員(1881年からは3人)を選出した。クロアチア=スラヴォニアの議員は議会でクロアチア語を使用することを許可されていた。

クロアチア=スラヴォニア王国は、1865年、1867年、1871年、1872年、1878年、1881年、1883年、1884年、1887年、1892年、1897年、1901年、1906年、1908年、1910年、1911年、1913年にサボルの独立選挙を実施した。

議会に代表される主な政党は、人民党(人民自由党)、独立人民党(1880年以降)、クロアチア=ハンガリー党(人民(国家)憲法党または連合党)(1868年-1873年)、権利党、純粋権利党(1895年以降)、スタルチェビッチの権利党(1908年以降)、セルビア人独立党(1881年以降)、クロアチア人民農民党(1904年以降)、クロアチア・セルビア連合(1905年以降)などであった。

自治政府

編集

自治政府または土地政府、正式には「王立クロアチア=スラヴォニア=ダルマチア土地政府」(クロアチア語: Zemaljska vlada またはKraljevskahrvatsko–slavonsko–dalmatinska zemaljska vlada[35]は、1869年にザグレブに設立された(1869年のクロアチア議会法第2号)[36]。1914年までは3省、その後は4省があった。

クロアチア=スラヴォニア自治政府の首長はサボルの長官でもあるバンであった[37]

バン(首相兼副王)

編集
 
ザグレブにあるクロアチアのバンの宮殿(Banski dvori)。現在はクロアチア政府が置かれている。

バンは、クロアチア=ハンガリー共同首相の署名の下で行われる提案に基づいて、クロアチア=スラヴォニア国王(オーストリア=ハンガリー皇帝)によって任命された[37]

1868年から1918年までのバンの一覧
  • 1868年-1871年:レビン・ローチ・デ・ニェク男爵
  • 1871年-1872年:コロマン・ベデコヴィッチ・デ・コモル
  • 1872年-1873年: アントゥン・ヴカノヴィッチ(臨時)
  • 1873年-1880年:イヴァン・マジュラニッチ
  • 1880年-1883年:ラディスラヴ・ペヤチェヴィッチ・デ・ヴィロヴィティツァ伯爵
  • 1883年:ヘルマン・ランベルク(臨時)
  • 1883年-1903年:カーロイ・クエン=ヘーデルヴァーリ・デ・ヘーデルヴァール伯爵
  • 1903年-1907年:テオドール・ペヤチェヴィッチ・デ・ヴィロヴィティツァ伯爵
  • 1907年-1908年: アレクサンダル・ラコドツァイ
  • 1908年から1910年:パヴァオ・ローチ・デ・ニェク男爵
  • 1910年-1912年:ニコラ・トマシッチ
  • 1912年-1913年:スラヴコ・ツヴァイ・デ・イヴァンスカ男爵
  • 1913年-1917年:イヴァン・シュケルレッツ・デ・ロムニカ男爵
  • 1917年-1918年: アントゥン・ミハロヴィッチ

法律

編集

クロアチア=スラヴォニア王国の最高裁判所は、ザグレブの七卓(「七つの卓」または「七つの裁判所」;クロアチア語:Stol sedmoriceラテン語Tabula Septemviralis)と呼ばれていた。七卓に次ぐのはザグレブのバン卓またはバン裁判所(クロアチア語Banski stolラテン語Tabula Banalis)と呼ばれるものだった[38]

1874年から1886年の司法再編(司法権と行政権の完全な分離、裁判官の独立と司法組織に関する法律、1874年の第一審法の裁判所組織(1886年の改正を伴う)、同年の司法権法及び裁判官の懲戒責任(など)、1875年のクロアチアの刑事手続法、同年のクロアチアの刑事手続報道犯罪法)及び1881年のクロアチア軍政国境地帯スラヴォニア軍政国境地帯の再編。第一審裁判所は大学司法を伴う9つの王立裁判所(クロアチア語kraljevski sudbeni stolovi。ザグレブ、ヴァラジュディンビェロヴァルペトリニャゴスピッチ、オグリン、ポジェガオシエクミトロヴィツァに置かれた。刑事裁判や主要な民事裁判を管轄し、旧郡裁判所ないし旧土地裁判所であった。)と約63の王立地方裁判所(クロアチア語kraljevski kotarski sudovi。主に民事と軽犯罪を管轄した、旧地方行政署、旧司法府ないし旧市裁判所。1人の裁判官がいた。)と地方裁判所(クロアチア語mjesni sudovi。1875年の地方裁判所及び地方裁判所手続法に従って各自治体に軽微な民事事件の特別法廷として設立され、1人の裁判官がいた)で構成されていた。ザグレブの王立裁判所は、報道犯罪の陪審裁判所でもあった。裁判官は国王によって任命され、裁判官の司法的独立は法的に保証されていた[39]

 
オーストリア=ハンガリー帝国におけるクロアチア=スラヴォニア王国の郡。

1886年にクロアチアのバン、カーロイ・クエン=ヘーデルヴァーリの統治下で 、クロアチア=スラヴォニア王国は、8つの郡(županije。comitatusとも)に分けられた[40]

  1. モドルス=リエカ
  2. ザグレブ
  3. ヴァラジュディン
  4. ビェロヴァルクリジェヴツィ
  5. ヴィロヴィティツァ
  6. ポジェガ
  7. スリイェム
  8. リカ=クルバヴァ郡

リカ=クルバヴァは1881年にクロアチア軍政国境地帯がクロアチア=スラヴォニア王国に編入されて郡になり[40]その後、郡は行政単位として計77の地区(クロアチア語kotari 、オーストリアのBezirkeに類似)に分割された。都市( gradovi )と自治体( općine )は地方自治体であった。

国旗・国章

編集

国旗

編集

ナゴドバ法と1867年11月16日のクロアチア王国政府内務省の法令第18,307号によると、

「赤白青のトリコロールはクロアチアとスラヴォニア王国の市民旗であり、クロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの国章が統一され、聖イシュトヴァーンの王冠が上にある国章を付けたものは自治で使用するための公式の旗である。前述の市民旗は、すべての人が適切な方法で使用できる[41]。」

ハンガリー王冠領の共同諸事」の紋章は、ハンガリーとダルマチア、クロアチア及びスラヴォニアの統一紋章で構成されているとも述べられた[42] [43]

ただし、国内で使用される旗はいくつかあり、公式に規定された聖イシュトヴァーンのハンガリー王冠を使用する代わりに、非公式の王冠を使用したり、単に王冠を省略したりした。同様に、盾にもいくつかの形式があった。非公式の紋章が好まれ、その広範な使用を理由に1914年11月21日には禁止令が発布された。「クロアチアとスラヴォニアの両王国では国家司法及び政治的に適切でない旗を使用することが慣習となった」と述べられ、国旗関連の法律は強化された。前述した1867年からのクロアチア王国の旗の定義を繰り返し、さらに「警察当局は、この法令の違反を2〜200 Kの罰金、または6時間から14日の逮捕で罰し、許可されていない旗または紋章を没収するものとする」とされた[41][44]

国章

編集

人口統計

編集

民族

編集

1910年の国勢調査では、総人口は2,621,954人であった[8]

以下は1875年のデータである。(軍政国境地帯は含まない) [45]

宗教

編集

1910年の国勢調査から取得したデータ[8](ユニエイトは蔑称として用いられることが多かったため現在では使われないが、原典によって表記する)。

識字率

編集

1910年の国勢調査によると、クロアチア=スラヴォニア王国の非識字率は45.9%であり、最も非識字率が高かったのは、ザグレブオシエクゼムンであった。

クロアチア=スラヴォニア王国の1880-1910年の非識字率[46]
非識字率 男性 女性 総人口
1880年 73.9% 67.8% 79.9% 1,892,449
1890年 66.9% 60.1% 73.5% 2,186,410
1900年 54.4% 46.8% 61.8% 2,416,304
1910年 45.9% 37.6% 53.7% 2,621,954

軍隊

編集
 
第一次世界大戦で戦ったクロアチア軍兵士の記念碑

クロアチア自衛軍はクロアチア=スラヴォニア王国の陸軍であった。オーストリア=ハンガリー帝国軍の著名なクロアチア人には、陸軍元帥スヴェトザル・ボロイェヴィッチ、オーストリア=ハンガリー帝国航空軍司令官エミール・ウゼラック、オーストリア=ハンガリー帝国海軍司令官マクシミリアン・ニェゴヴァン、陸軍所属で後にユーゴスラビア元帥およびユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領になったヨシップ・ブロズ・チトーがいた[47]

文化

編集

現在のザグレブ大学は1874年に設立された。ユーゴスラビア科学芸術アカデミー(現在のクロアチア科学芸術アカデミー)とマティツァ・フルヴァツカは、王国の主要な文化施設であり、 1911年にはダルマチア王国の主要な文化施設であるマティツァ・ダルマティンスカがマティツァ・フルヴァツカと合併した。クロアチア=スラヴォニア王国で最も重要な文化雑誌の1つに「ヴィイェナック」があり、ザグレブのクロアチア国立劇場は1895年に開業し、オシエクのクロアチア国立劇場は1907年に開業した。ザグレブの慈善シスター病院は、王国で最初に設立されたものであった。

宗教

編集

カトリック教会

編集

人口の約75%がローマ・カトリック教徒で、残りの25%が正教徒であった。カトリック教会は王国内に以下の教区を持っていた:

教区 クロアチア語の名称 設立 大聖堂
ザグレブ大司教区 Zagrebačkanadbiskupija 1093年 ザグレブ大聖堂
クリジェヴツィ教区(ギリシャ・カトリック) KriževačkabiskupijaKriževačkaeparhija 1777年 クリジェヴツィ聖三位一体大聖堂
スリイェム主教区 Srijemska biskupija 4世紀 ジャコヴォの聖ペテロ・聖パウロ大聖堂
セニ=モドルス主教区 Senjsko-modruškabiskupija 1168 セニの聖母マリア被昇天大聖堂

ユダヤ教

編集

1890年時点では17,261人のユダヤ人が居住していた。また、1867年にはザグレブ・シナゴーグが建設された。

交通

編集

王国で最初に開通した鉄道路線は、1862年に運行を開始したジダニ・モスト-ザグレブ-シサク線であった。その後ザプレシチ-ヴァラジュディン-チャコヴェツ線が1886年に開通し、さらにヴィンコヴツィ-オシエク線が1910年に開通した。

スポーツ

編集

クロアチアスポーツ協会は、1909年にフラニォ・ブツァル英語版を会長として設立された。オーストリア=ハンガリーは1896年の初開催以来近代オリンピックに出場しており、オーストリアオリンピック委員会英語版ハンガリーオリンピック委員会英語版は選手の出場権を有していた。また、協会は1912年にナショナルフットボールリーグを組織した。

遺産

編集

1918年の第一次世界大戦末期、クロアチア議会はハンガリー=クロアチア連合議会、クロアチア=スラヴォニアの両王国とダルマチア王国(ザダルとラストヴォを除く)を廃止してスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の成立を宣言した。しかし国際社会には認められず、同年中にセルビア王国と合流してセルビア人・クロアチア・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国と改称)を形成した。セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国は1918年から1922年の間に郡に分割され、1922年から1929年の間に州に分割された。1929年以後、旧クロアチア=スラヴォニア王国領のほとんどは、サヴァ州(サヴァ・バノヴィナ)となり、旧ダルマチア王国領のほとんどは沿海州(プリモルスカ・バノヴィナ)となった 。

首相ドラギシャ・ツヴェトコヴィッチ(Dragiša Cvetković)とクロアチア農民党首ヴラトコ・マチェク(Vladko Maček)の間の政治的合意(ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意英語版)と1939年8月24日付の「クロアチア州に関する法令」( Uredba o Banovini Hrvatskoj )に基づいて、クロアチア自治州(バノヴィナ・フルヴァツカ)がサヴァ州、沿海州とブルチコデルヴェンタドゥブロヴニク、フォイニツァ、グラダチャツイロク、シド、トラヴニクの各地区を統合して作られた。

注釈

編集
  1. ^ See §. 2. 57. 58. 59. 60. Zakonski čl. XII. 1868. (Croatian–Hungarian Settlement) (in Croatian) "§. 57. Za organe zajedničke vlade ustanovljuje se takodjer hrvatski jezik službenim jezikom unutar granicah kraljevinah Dalmacije, Hrvatske i Slavonije. §.58. Predloge i spise u hrvatskom jeziku sastavljene; pa iz kraljevinah Hrvatske i Slavonije na zajedničko ministarstvo podnešene, imade to ministarstvo primati i rješitbe svoje na istom jeziku izdavati. §. 59. Obzirom na to, da su kraljevine Hrvatska i Slavonija politički narod, imajući posebni svoj teritorij i u pogledu nutarnjih svojih poslovah vlastito zakonodavstvo i autonomnu vladu, ustanovljuje se nadalje; da se zastupnici istih kraljevinah tako na zajedničkom saboru kako i u delegaciji mogu služiti i jezikom hrvatskim. §. 60. Na zajedničkom saboru stvoreni i podpisom Nj. c. i kr. apošt. Veličanstva providjeni zakoni izdavat će se za kraljevine Dalmaciju, Hrvatsku i Slavoniju u izvorniku hrvatskom i odaslati saboru tih kraljevinah. (transl.) §. 57. For the organs of the joint government, Croatian is also established as the official language within the boundaries of the Kingdoms of Dalmatia, Croatia and Slavonia. §.58. Proposals and writings composed in Croatian; and submitted from the Kingdoms of Croatia and Slavonia to the joint ministry , the ministry has to receive them and issue its decision in the same language. §.59. Considering that the Kingdoms of Croatia and Slavonia are a political nation, having their own separate territory and, in terms of its own affairs, its own legislation and autonomous government, is further established; that the representatives of the same Kingdoms can use both in the joint parliament and in the delegation Croatian. §.60. Laws created at the joint Parliament, and sanctioned by H.I. and R. Apostolic Majesty shall be issued for the Kingdoms of Dalmatia, Croatia and Slavonia in the Croatian original and shall be sent to the Parliament of these Kingdoms." Sbornik zakona i naredabah valjanih za kraljevine Hrvatsku i Slavoniju za god. 1868. (Komad I.-VI., br. 1.-19.) p. 122.-123.
  2. ^ Biondich, Mark; Stjepan Radić, the Croat Peasant Party, and the politics of mass mobilization, 1904–1928; University of Toronto Press, 2000 ISBN 0-8020-8294-7, page 9
  3. ^ Marcus Tanner, "A nation forged in war", Yale University Press, ISBN 0-300-09125-7, page 99
  4. ^ According to articles 56 and 57 of Nagodba only official language in Croatia is Croatian (Po čl. 56. i 57. Hrvatsko-ugarske nagodbe u Hrvatskoj je u službenoj uporabi samo hrvatski jezik), Dragutin Pavličević, "Povijest Hrvatske", Naklada Pavičić, Zagreb, 2007, ISBN 978-953-6308-71-2, page 273
  5. ^ 56. In the whole territory of Croatia–Slavonia, Croatian is the language alike of the Legislature, the Administration and the Judicature. 57. Inside the frontiers of Croatia–Slavonia, the Croatian is prescribed as the official language for the organs of the Joint Government also. http://www.h-net.org/~habsweb/sourcetexts/nagodba2.htm – online text from Robert William Seton-Watson, "The Southern Slav Question and the Habsburg Monarchy", London, Constable and Co., 1911, ISBN 0-7222-2328-5, page 371
  6. ^ Rothschild, Joseph (1974) (英語). East Central Europe between the Two World Wars. University of Washington Press. p. 155. ISBN 978-0-295-80364-7. https://books.google.com/books?id=MqcpDAAAQBAJ&pg=PA155 
  7. ^ Biondich 2000, p. 15
  8. ^ a b c Seton-Watson, Hugh (1945).
  9. ^ See §. 59.
  10. ^ See; translation of the law XLIV. 1868. (law on nationality)/1868-ik évi XLIV.
  11. ^ Hrvatska enciklopedija (LZMK). “Hrvatsko-ugarska nagodba”. 2019年4月6日閲覧。
  12. ^ Nagodba”. britannica.com. 6 April 2019閲覧。
  13. ^ Croatian–Hungarian settlement, Constitution, 1868, Article §. 1.
  14. ^ (Croatian) Law codex, S. V., no. 30, Issued by the Sabor, (Zagreb), Y: 1917, p: 101, 'Law act III:1917, Coronation oath'
  15. ^ Goldstein & Jovanović 1999.
  16. ^ カール4世を参照。
  17. ^ Budisavljević Srđan, Stvaranje Države SHS, (Creation of the state of SHS), Zagreb, 1958, p. 132-133.
  18. ^ Goldstein, Ivo; Jovanović, Nikolina (1999). Croatia: a history. C. Hurst & Co. Publishers. ISBN 1-85065-525-1 
  19. ^ a b Zakonski članak o nagodbi, koju s jedne strane kraljevina Ugarska, sjedinjena s Erdeljem, s druge strane kraljevine Hrvatska i Slavonija sklopiše za izravnanje postojavših izmedju njih državnopravnih pitanjah.
  20. ^ The Hungaro–Croatian Compromise (クロアチア語)
  21. ^ Hungarian version of the Settlement has a different order of the Ban's title 1868. évi XXX. törvénycikk a Magyarország, s Horvát-, Szlavon és Dalmátországok közt fenforgott közjogi kérdések kiegyenlítése iránt létrejött egyezmény beczikkelyezéséről (in Hungarian) "53.
  22. ^ a b Court and state guide issued by the Imperial and Royal Court, for the year 1878.
  23. ^ Ines Sabotič, Stjepan Matković (April 2005). “Saborski izbori i zagrebačka izborna tijela na prijelazu iz 19. u 20. stoljeće” (クロアチア語). Drustvena Istrazivanja: Journal for General Social Issues (Zagreb, Croatia: Institute of Social Sciences Ivo Pilar) 14 (1-2 (75–76)): 168. ISSN 1330-0288. http://hrcak.srce.hr/index.php?show=clanak&id_clanak_jezik=24650 2012年8月22日閲覧。. 
  24. ^ A Magyar Sz. Korona országai Magyarország, Horvát-Tótország és a Katonai Őrvidék új térképe Magyarország (map), 1877. Retrieved 25 December 2012. (ハンガリー語)
  25. ^ Hivatalos Statistikai Közlemények. Kiadja: A Földmivelés-, Ipar- És Kereskedelemügyi Magyar Királyi Ministerium Statistikai Osztálya. Évf. 2. Füz. 1. (1869). p. 160. https://books.google.com/books?id=3_AeAQAAMAAJ&q=%22%27Horv%C3%A1t-T%C3%B3torsz%C3%A1g%22&pg=PA160 
  26. ^ Mikuláš Teich, Roy Porter, The National Question in Europe in Historical Context, 1993, p.284
  27. ^ Britannica 2009 Nagodba
  28. ^ a b c Constitution of Union between Croatia–Slavonia and Hungary
  29. ^ 1868. évi XXX. törvénycikk a Magyarország, s Horvát-, Szlavon és Dalmátországok közt fenforgott közjogi kérdések kiegyenlítése iránt létrejött egyezmény beczikkelyezéséről, Magyar joganyagok - 1868. évi XXX. törvénycikk, Retrieved 2018-09-28
  30. ^ State union between Hungary and Croatia–Slavonia was formally known as personal union, in reality it was real union with self rule for Croatia–Slavonia.
  31. ^ Kosnica, Ivan (2017). “Citizenship in Croatia–Slavonia during the First World War”. Journal on European History of Law 8 (1): 58–65. https://www.bib.irb.hr/880310. 
  32. ^ a b c Biondich 2000, p. 9
  33. ^ History of Hungary
  34. ^ Trpimir Macan: Povijest hrvatskog naroda, 1971, pp. 358–368 (full text of the Croatian–Hungarian Settlement in Croatian)
  35. ^ Najviši reškript, kojim se potvrdjuje zakonski članak ob ustrojstvu autonomne hrvatsko–slavonsko–dalmatinske zemaljske vlade,[The highest rescript, confirming the legal article for the organization of the autonomous Croatian–Slavonian–Dalmatian Land Government (1869)], Sbornik zakona i naredabah valjanih za kraljevinu Hrvatsku i Slavoniju za god. 1869. ( in Croatian) komad I.-VIII., p. 07.-12.
  36. ^ After the establishment of the Royal Croatian–Slavonian–Dalmatian Land Government (Royal Land Government or informally Autonomous Government), the Croatian Court Chancellery or (officially) Royal Croatian–Slavonian–Dalmatian Court Chancellery in Vienna (1862–1869) as supreme governmental body for Croatia and Slavonia organized in accordance with the October Diploma and the February Patent and the Royal Croatian–Slavonian Council of Lieutenancy in Zagreb (1861–1869) were abolished.
  37. ^ a b http://www.h-net.org/~habsweb/sourcetexts/nagodba3.htm The Hungaro–Croatian Compromise of 1868 (The Nagodba), III
  38. ^ Hrvatska pravna povijest 1790. – 1918., Croatian Supreme Court
  39. ^ Ivan Čepulo (April 2006). “Izgradnja modernog hrvatskog sudstva 1848 – 1918” (クロアチア語). Zbornik Pravnog fakulteta u Zagrebu: Collected Papers of Zagreb Law Faculty (Zagreb, Croatia: University of Zagreb, Law Faculty) 56 (2–3): 325–383. ISSN 0350-2058. http://hrcak.srce.hr/5113 2017年1月20日閲覧。. 
  40. ^ a b Biondich 2000, p. 11
  41. ^ a b Heimer. “Croatia in the Habsburg Empire”. crwflags.com. 2 March 2019閲覧。
  42. ^ The Hungaro–Croatian Compromise of 1868 (The Nagodba), II
  43. ^ Croatia – Historical Flags (1848–1918), www.fotw.net
  44. ^ Heimer. “Hrvatska-povijesne zastave”. zeljko-heimer-fame.from.hr. 2 March 2019閲覧。
  45. ^ Kroatien, Slavonien, Dalmatien Und Das Militargrenzland, p. 20.
  46. ^ Pokušaji smanjivanja nepismenosti u Banskoj Hrvatskoj početkom 20. stoljeća, p. 133-135
  47. ^ Pero Simic: Tito, tajna veka Novosti; 2nd edition (2009) ISBN 978-8674461549

参考文献

編集
  • Mark Biondich, Stjepan Radić, the Croat Peasant Party, and the Politics of Mass Mobilization, 1904-1928, Toronto: University of Toronto Press, 2000. ISBN 0-8020-8294-7

外部リンク

編集

座標: 北緯45度48分 東経15度58分 / 北緯45.800度 東経15.967度 / 45.800; 15.967