ヴィロヴィティツァクロアチア語: Virovitica,ハンガリー語: Verőce,ドイツ語: Wirowititz,イタリア語: Varaviza)はクロアチアスラヴォニア地方ヴィロヴィティツァ=ポドラヴィナ郡の都市及び基礎自治体である。またヴィロヴィティツァ=ポドラヴィナ郡の郡都で、ドラーヴァ川を挟みハンガリー国境に近く、ビロゴラ山の北側斜面に位置する。ヴィロヴィティツァはスラヴォニア地方の中でも歴史的な場所に数えられる。近隣の都市にはクリジェフツィがあるがクリジェフツィはコプリヴニツァ=クリジェヴツィ郡に属する。

ヴィロヴィティツァ
市・基礎自治体
Grad Virovitica
ヴィロヴィティツァの旗
ヴィロヴィティツァの位置(クロアチア内)
ヴィロヴィティツァ
ヴィロヴィティツァ
北緯45度50分 東経17度23分 / 北緯45.833度 東経17.383度 / 45.833; 17.383座標: 北緯45度50分 東経17度23分 / 北緯45.833度 東経17.383度 / 45.833; 17.383
クロアチア
ヴィロヴィティツァ=ポドラヴィナ郡
政府
 • 市長 Ivica Kirin (HDZ)
面積
 • 市・基礎自治体 178.49 km2
標高
122 m
人口
(2011)[1]
 • 市・基礎自治体 22,618人
 • 密度 130人/km2
 • 都市部
14,663人
等時帯 UTC+1 (CET)
 • 夏時間 UTC+2 (CEST)
郵便番号
33 000
市外局番 +385 (0) 33
ナンバープレート VT
ウェブサイト http://www.virovitica.hr/

歴史

編集

1234年ベーラ4世によって帝国自由都市の特権を得ている。1242年には現在のクロアチアの首都であるザグレブも同じくベーラ4世より自由都市の権利を得ており、金印勅書においてそのことを知ることが出来る。当時、ハンガリー王国の支配下にありヴェレーツェ(Verőce)と呼ばれており、夏には王族の避暑地として好まれていた。ベーラ4世の妃であるマリア・ラスカリナや弟のカルマン公が良く滞在したとされる。モンゴル帝国が侵略しハンガリーを放棄した後、都市には木製の要塞や堀が築かれ水が引かれた。1280年代から1290年代にかけて、フランシスコ会ドミニコ会の修道院について言及されている。1552年から1684年にかけての約120年間はオスマン帝国によって支配されていた。

姉妹都市

編集

脚注

編集
  1. ^ "Census of Population, Households and Dwellings 2011, First Results by Settlements" . Statistical Reports (in Croatian and English) (Zagreb: Croatian Bureau of Statistics) (1441). June 2011. ISSN 1332-0297. Retrieved 2011-09-08.

外部リンク

編集