Wikipedia:追証明できることを検証可能とは言わない

「数学の定理というものは誰でもその証明を追うことが可能であるため、定理の主張それ自体で検証可能性を満たしている」といった類の主張をされる編集者がしばしばいます。この主張は、一部は確かに正しいことを言っていますが、一部は正しくありません。そのような性質を持っているため、この主張を肯定する言説も否定する言説も、誤った指摘によって全く建設的でない議論に陥る危険があります。

数学の定理は誰でも追証明が可能である

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数学の証明というものは、すべて演繹によって構成されているため、その論証が妥当かどうかは、内容を順に追うことで自ずから判明します。また、数学においてその用語は名詞形容詞動詞その他問わずほぼすべて明確に定義を持っているため、それらの定義に従って演繹が論理的に妥当かどうか、最終的に主張した定理が正しいかどうかは半ば機械的に――原理的には誰でも検証が可能です。例えばそれが 0=1 を結論する誤った証明であっても、各段の演繹の妥当性や演算の定義を確認していくことでその誤りがどこに存在するかを指摘することができます。

断っておきますが、これはその証明が数学的に記述されていることを前提にしているため、どのような「証明」に対してもその追証明あるいは正誤の検証ができるわけではありません。具体的には、曖昧な語彙、不明瞭な演算、仮説形成などによる非演繹的な論証、あるいはもはや論理的でない文章、そもそも日本語としても意味が取れない悪文などにより、文の主張するところの意味が判然とせず、あるいは数学的な主張を成さず、そもそも検証できる状態になくなってしまう場合があります。専門的な訓練を受けていない人の書いた数学の証明を「検証」することは困難を極めます。

また、プロフェッショナルが書いた証明だったとしても、例えばそれが組み合わせ論ホッジ理論に関する最新の研究であった場合、あるいは楕円カラビ・ヤウ多様体についてのそれであった場合、その検証にどれほどコストがかかるでしょうか?プロフェッショナルによるどれだけよく書かれた論文であっても、その内容の難解さ、前提知識の多さによって、検証のコストは自明に膨れ上がります。ウィキペディアの編集者のうち数学に詳しい人、それも最新の研究についてついていける人間がどれほど存在するでしょうか?

以上のことから、数学の定理は追証明や検証が原理的には可能ですが、だからと言って各人が検証可能かどうかは別の問題であるということが結論づけられます。

検証可能とは信頼できる情報源が公表・出版しているか確認できることである

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他方、ウィキペディアにおける検証可能性について確認してみましょう。

In the English Wikipedia, verifiability means other people using the encyclopedia can check that the information comes from a reliable source. — (en) Wikipedia:Verifiability

(訳:英語版ウィキペディアにおいて、検証可能性とは「この百科事典を使う他の人々が、その情報が信頼できる情報源から持ち込まれたものであることを確認できること」を意味します。)

「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。 — Wikipedia:検証可能性

ウィキペディアにおいて「検証可能性」とは「信頼できる情報源を参照することで情報が確認できること」であり、「誰でも内容の真偽を検証できること」ではありません。内容の真偽については、査読や校閲などを経て信頼できる情報源に掲載される、そのプロセスが行われたことに託されます。

しいて書くならば、その情報源が信頼できる情報源かどうかという問いは編集者が行う検証作業と呼べるかもしれませんが、それは例えば今話題にしている一主題のみで決定される性質のものではない(そして特定個人が信用できないと感想を抱いていることにも影響されない)ので、やはり内容の真偽を検証する作業はウィキペディアでの「検証可能性」とは切り離されています。

ウィキペディアにおける検証可能性が、主題主張の正誤や個人の信仰などに左右されないことは、刺激惹起性多能性獲得細胞地球平面説インテリジェント・デザイン従円と周転円6÷2(1+2) などの記事が立てられていることからも伺えます。有意義な内容であっても出典が存在しなかったために削除依頼にかけられた例としては、Wikipedia:削除依頼/追い出しの定理の議論などが挙げられるでしょう(このケースでは後にはさみうちの原理に統合、リダイレクト化として決着しました)。

証明可能であることを検証可能であるとは言わない

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ウィキペディアが検証可能性として信頼できる情報源を外部に要求することは、独自研究をしないという方針にも表れています。これらの方針はつまるところ、ウィキペディアの信頼性を「信頼でき、かつ評判の良い情報を閲覧者に提供すること」によって担保することを指向しています(Wikipedia:独自研究は載せない#なぜ独自研究を排除するのか)。

ウィキペディアに書かれた数学的主張とその証明は、たとえそれが正しい主張と証明であっても、信頼できる情報源を提供していません。情報源の無い記述の正しさを担保するためには、ウィキペディアそれ自体が信頼性を担保せねばならず、これは今まで挙げたウィキペディアの各種方針に反することになります。

何度も繰り返してきましたが、論理的・数学的な証明が可能であることはウィキペディアにおいて検証可能性と呼ばれているものではありません。「検証可能性」という文字面を追って解釈するのではなく、WP:VWP:RSという方針全体の背後にある意図や精神を読むことが肝要です。

関連項目

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