国鉄キハ37形気動車
キハ37形気動車は、1983年(昭和58年)に日本国有鉄道(国鉄)が製造した気動車である。
国鉄キハ37形気動車 | |
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基本情報 | |
運用者 |
日本国有鉄道 東日本旅客鉄道 西日本旅客鉄道 水島臨海鉄道 |
製造所 | 新潟鐵工所・富士重工業 |
製造年 | 1983年 |
製造数 | 5両 |
運用開始 |
東日本地区:1983年2月14日[1] 西日本地区:1983年2月21日[1] |
運用終了 | 2012年 |
主要諸元 | |
軌間 | 1,067 mm(狭軌) |
最高速度 | 95 km/h |
車両定員 |
0番台:138人(座席64人) 1000番台:146人(座席66人) |
自重 |
0番台:31.6 t 1000番台:30.7 t |
車体長 | 19,500 mm |
車体幅 | 2,800 mm |
車体高 |
屋根高さ:3,620 mm 通風器高さ:3,865 mm |
床面高さ | 1,260 mm |
車体 | 普通鋼 |
台車 |
軸箱守(ウイングばね)方式コイルばね台車 DT22E・TR51D |
動力伝達方式 | 液体式 |
機関 | DMF13S |
機関出力 | 210 PS |
制動装置 | 自動空気ブレーキ・直通予備ブレーキ・手ブレーキ |
保安装置 | ATS-S |
備考 | 国鉄・JR時代のデータ |
5両が製造され、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化以降は東日本旅客鉄道(JR東日本)に3両が、西日本旅客鉄道(JR西日本)に2両が承継された。2021年現在は水島臨海鉄道がJR東日本からの譲受車3両を保有する。
概要
編集本形式はキハ40系の後を受け、その反省点を多分に盛り込んだ次世代車両として開発・製造された。
特にキハ40系では、幹線での長距離運用や連続高速運転などの必要性も要求され設計されたため、特に極寒地・寒地向けでは空気ばね台車が奢られるなど、接客面での質は大きく向上したものの、ローカル線向け車両としては動力性能以外の構造と装備が過剰気味であり、新造費も高かった。一方、組み合わされる機関と変速機は陳腐化とコストダウンの影響で、大きめの車両重量に対して目覚しい性能向上が見られなかったうえ、燃料や整備などの維持費を減らすこともできなかった。その点からの再検討も行った結果、地方線区の実情に合わせた、必要十分な性能と製造・維持コストの低減に注力され、従来の国鉄スタンダードにとらわれないコンセプトが打ち出された。具体的には、標準搭載される装備は最小限に抑える一方、地域ごとに必要になるものはその都度取り付けられるようにすることで、各地域の特徴に合わせた装備ができるよう配慮されていた[2]。
1980年代前半まで国鉄の気動車は、戦前の基本設計で既に陳腐化していたDMH17系エンジン、また高出力化の要求に対してDMF15・DML30系エンジンを使用していたが、性能的にも陳腐な上、設計が不十分で熱問題を抱え、維持費の増加も顕著になってきていた。そこで、重量の割に非力で燃費も優れない従来の機関に対し、出力向上と省燃費を実現するため、国鉄の気動車として初めて直噴式ディーゼルエンジンを採用したほか、製造コスト削減の見地から廃車発生部品の再利用方針も採られた。
5両が量産先行車として製造されたが、ほぼ同時期に国鉄の急行列車の廃止および特定地方交通線の廃線が進んだため、大量のキハ58系やキハ40系が余剰となり、さらに国鉄改革にともなって設備投資が極度に抑制されたこともあり、量産車が登場する機会はなかった。
本形式が製造されてしばらくが経過した、国鉄最末期の1986年(昭和61年) - 1987年(昭和62年)にキハ38形、キハ54形、キハ185系等が登場したが、これらの車両の設計と製造には本形式での経験が生かされており、コンセプトが実を結ぶことになった[注 1]。
構造
編集本形式は、量産先行車として片運転台式ロングシートで、便所付き車両と便所なし車両が製造された。量産化の際には僅かな設計変更で両運転台式やクロスシートの装備、便所の有無を選択できるよう配慮されていた[3]。
車体
編集基本的にはキハ40系と同じ片側2扉、片引き戸となっているが、居住性向上のため車体の長さと幅を車両限界ぎりぎりにまで拡大したキハ40系に対し、車体長を20.8 mから19.5 mに、車体幅も裾絞りを省略して2.9 mから2.8 mとそれぞれ縮小した結果、一回り小さい車体となっている[注 2]。一方、縦形エンジンの採用により、レール面からの床面高さは、キハ35の1215 mmに対して1260 mmへと上がっており、縦形エンジンに必須となる床面点検口も復活した。
客用扉は片側2ヶ所で、開口幅1000 mmの片開き引き戸とされた。将来のワンマン運転を考慮して前位側の客用扉を運転台に隣接させるとともに、後位側の客用扉は亜幹線での運用や乗客の流動に配意して車体中央に寄せられ、2両編成を組んだときに編成全体として扉の間隔が均等に配置されるようになっている。戸袋窓と妻窓は省略された。
前面は中央に貫通扉を配した構造である。キハ40形まで使われていたパノラミックウィンドウは廃止されて平面窓となり、助士席側窓上に手動の種別・行先表示器が備わる。ワンマン運転を行う場合は運転席高さを客室と同レベルまで下げることが望ましいが[注 3]、本形式では踏切事故などを想定して高運転台構造を踏襲した。それでもキハ40系に比較すると運転席位置は下がっている。前照灯は貫通扉上にまとめられ、前面窓下両端部に尾灯を備える。また、前面窓下部に踏切事故対策の補強板が張られている。
なお新造時の塗色は赤11号(急行形気動車の窓周りの赤と同じ色)一色で、キハ40系などの在来の一般形気動車に施されていた朱色(朱色5号)とは色合いが異なっていた。
主要機器
編集国鉄の気動車としては初めてとなる過給器付き直噴式縦形(直立シリンダー形)エンジンDMF13S形 (210 PS/1,600 rpm) [4]を1基搭載しており、従来のエンジンに比して小型軽量で高出力、かつ冷間時の始動性にも優れたものとなっている。これは船舶用のエンジンを鉄道車両用に設計変更したもので、新規にエンジンを設計する場合に比較してコストが抑えられている[注 4][5]。
DMF13Sが搭載されたのは国鉄では本形式が唯一で、以降の直噴式エンジン搭載車はこれを横形(水平シリンダー形)にしたDMF13HSを採用している。しかし、本形式の登場時期は特定地方交通線を転換した第三セクター鉄道の草創期と一致するため、DMF13Sと同型の新潟鐵工所製6L13ASエンジンは、三陸鉄道36-100形・36-200形、神岡鉄道KM-100形・KM-150形、鹿島臨海鉄道6000形・7000形で採用された。特に、鹿島臨海鉄道用としては1993年(平成5年)まで製造され続けた点が特筆される。
台車は、在来車からの廃車発生品であるDT22E(動力台車)・TR51D(付随台車)、液体変速機も同じく廃車発生品のTC2A・DF115Aを流用している。
車内設備
編集座席はキハ40系のセミクロスシートに対して本形式では全席ロングシートとし、定員は便所付きの0番台が138人(座席64人)、便所なしの1000番台が146人(座席66人)である。座布団、背摺りともに従来形で、着席区分などは施されていない。キハ35形と同様、便所の向かい側のみは4人掛けのボックスシートとなっている。
座席に対応する位置の長手方向につり革と荷物棚が装備されている。袖仕切りは2位側扉との間のみ板状で、その他は全てステンレス製パイプである。袖仕切り付近の壁面には灰皿も装備されていた(後に撤去)。
客室窓は、上段下降・下段上昇の外ハメ式二段ユニット窓で、各窓に灰色のロールカーテンを備える。窓、カーテン共にフリーストップではない。
ベンチレーターは押し込み形で天井扇風機も装備されている。キハ40系に引き続き温風式暖房装置が採用されているが、吸気口は室内天井付近となり、4位側戸袋部にはそのダクトが立ち上がっている。床下でエンジン冷却水と熱交換された温風は、座席下のダクトから室内へ排出される。
ワンマン運転を想定した設計とされているが、JR西日本、JR東日本所属車共にワンマン化改造は行われていない。
番台区分
編集便所ありの0番台が2両、便所なしの1000番台が3両、新潟鐵工所および富士重工業で製造された。
- 0番台 - キハ37 1(新潟鐵工所), 2(富士重工業)
- 1000番台 - キハ37 1001(新潟鐵工所), 1002, 1003(富士重工業)
改造工事
編集冷房化改造
編集JR西日本所属車は1994年(平成6年)にサブエンジン式のAU34形冷房装置の搭載を行っている[6]。
JR東日本所属車は1999年よりバス用の機関直結式冷房装置を流用した冷房化改造が行われ、デンソー製AU26形冷房装置が搭載されている[6]。室内機は千鳥配置で計4箇所が取り付けられ、その箇所の荷物棚は使えなくなっている。冷房化と同時に機関換装も行われた。
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久留里線の1003に搭載された冷房装置
(木更津 2006年10月9日) -
同じく、4機ある室内機の内の一つ
(2010年4月9日)
機関換装
編集JR東日本所属車は、1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて機関をカミンズ製DMF14HZ[6]へ順次換装し、縦形(直立シリンダー形)エンジンに特有の室内床面の点検口が埋め込まれた。機関本来の出力は350 PSだが、種車の液体式変速機を流用したため250 PSに落として使用している。
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カミンズ製DMF14HZ
運用
編集久留里線・木原線
編集2、1002、1003の3両は千葉鉄道管理局管内の佐倉機関区木更津支区(現・幕張車両センター木更津派出)に配置され。同年2月14日から営業運転を開始した[1]。久留里線および木原線で使用され、JR東日本に承継された。
1988年(昭和63年)に木原線は第三セクターのいすみ鉄道に転換されたため、以後、全車が久留里線のみで使用された。同線専用となったことで、東京湾アクアラインをイメージしてクリーム1号の地色に太さの異なる複数の青15号の帯が入る、初代久留里線色に変更されている。
1996年より塗装が2代目久留里線色へと順次変更され、1999年からは冷房化と機関換装が実施された。また0番台の2については便所が閉鎖された。
久留里線内では基本的に本形式のみでの運用はなく、キハ38形(1996年に八高線より転入)との共通運用で、キハ30形とも併結して運転されたが、2012年(平成24年)12月1日をもって久留里線の全車両がキハE130形100番台に置き換えられ、運用を終了した[7][8][9]。
その後、同年12月11日から12日にかけて3両とも新津へ配給輸送され[10][11]長らく留置されていたが、2013年(平成25年)7月に3両全車が水島臨海鉄道へ譲渡される事が決定した。倉敷駅に到着した7月10日付で廃車となり[12]、JRにおいては廃形式となった。
加古川線
編集1と1001の2両は大阪鉄道管理局管内の姫路第一機関区に配置され、1983年(昭和58年)2月21日[1]から営業運転を開始した。加古川線、高砂線、三木線、北条線、鍛冶屋線で使用され、JR西日本に承継された。塗色はJR化後に赤11号からエメラルドグリーンに白帯の「加古川色」に変更された[13]。
1990年(平成2年)6月、加古川鉄道部の発足に伴い同所の配置となる。同月から始まる同線のワンマン運転には全て同所のキハ40形が投入され、本形式はワンマン化改造を受けなかった。1994年にAU34による冷房化改造が行われている。
キハ37 1001は1999年(平成11年)秋の米子地区転用を見越して同年8月に鷹取工場で朱色5号の「首都圏色」に変更され、加古川色のキハ47形を併結して運用された[14]。1999年10月のダイヤ改正でキハ37形の加古川線運用を終了し、キハ37 1も鷹取工場で転属整備されたが、同年10月23・24日にはキハ37 1001にキハ40 2134を併結してのさよなら運転が行われた[14]。
1999年11月5日から6日にかけて、加古川鉄道部から鷹取経由で後藤総合車両所へ転属回送された[14]。鷹取 - 米子間はDE10形の牽引による無動力回送となった[14]。
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加古川線塗装のキハ37形(左)
(1998年5月2日)
山陰地区
編集後藤総合車両所へ転属したキハ37 1・1001は境線で運用されたが、2002年3月のダイヤ改正で山陰本線米子 - 出雲市間でも運用されるようになった[13]。しかし、山陰本線米子 - 鳥取間ほか高速化事業によるキハ121・126形の投入に伴って、キハ37形は2003年(平成15年)10月のダイヤ改正で定期運用から離脱した[13]。
その後は保留車として米子駅構内に留置されていたが、2009年(平成21年)1月29日付で廃車となった[15]。
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保留車として米子駅構内に留置されていた頃のキハ37-1001 (2002年10月9日)
譲渡
編集水島臨海鉄道
編集水島臨海鉄道にはJR東日本の久留里線で運用されていたキハ37形3両がキハ30・38形とともに導入され、2014年(平成26年)3月末から営業運転を開始する予定と発表していた[16]が、当初の予定より遅れて同年5月12日より運用を開始した[17]。2019年(平成31年)3月改正ダイヤでは、三菱自工前・水島 - 倉敷市間を平日朝2往復・夕方3往復運行している[18]。
導入にあたって、各車両は以下の通り改番・塗色変更されている。「水島色」は同社のMRT300形のクリームホワイトの部分を水色に変更した、独自の塗装となっている。また、103はこれまで登場以来塗装されたことのなかった朱色4号とクリーム4号による「国鉄標準色」(一般気動車色)とされ、トイレの使用停止措置が取られた上でキハ38とペアを組んでいる。
2021年12月にはクラウドファンディングにより103がキハ37登場時の赤11号に再塗装されて運用を開始した[19][20]。
- キハ37 1003 → キハ37 101 (水島色)
- キハ37 1002 → キハ37 102 (水島色)
- キハ37 2 → キハ37 103 (国鉄標準色→赤11号)
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水島色のキハ37-101・102(2014年)
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国鉄標準色のキハ37-103(2014年)
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赤11号に再塗装されたキハ37-103(2021年12月27日)
脚注
編集注釈
編集- ^ 一方、輸送量がさらに小さな路線としては、本形式程度の設計でもなお過剰であり、これらの路線向けとしては、キハ31やキハ32のような両運転台式のさらに小型・軽量で低廉な「軽快気動車」(LE-DCとNDC)が主流となっていった。
- ^ キハ20系・1エンジン車の寸法に戻った。
- ^ 国鉄末期以降、低運転台のローカル用気動車が多く登場した。また電車でも、701系や313系などは、ワンマン仕様車を設計の基本としているため、非ワンマン仕様車も低運転台となっている。
- ^ 「交通技術」1983年4月号で国鉄車両設計事務所の高橋保實は本形式のDMF13S機関について「従来のDMH17C機関を6シリンダとし、それを直噴化して出力アップを図るため、過給器を取り付けた機関である」と記述している。だがDMF13Sは新潟鐵工所の船舶用エンジンである6L13ASを鉄道用に転用したもので、明らかに誤った記述であり、高橋はDMH17系の6シリンダ型として1950年代に製作されたDMF13と、新潟6L13ASを混同している疑いが強い。技術業界誌である「交通技術」以外に、同時期に新車としてキハ37形を紹介した鉄道ファン向け雑誌でも、同様に新エンジンをDMH17系派生のごとく解説した記述がみられた。
出典
編集- ^ a b c d 鉄道図書刊行会「鉄道ピクトアリル」1984年10月臨時増刊号新車年鑑1984年版20P記事。
- ^ 『電気車の科学』通巻419号、p.22
- ^ 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、p.23
- ^ 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、p.24
- ^ 『交通技術』通巻469号、p.30
- ^ a b c 岡田誠一「国鉄通勤形・近郊形ディーゼル動車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2004年2月号、p.25
- ^ 久留里線新型車両の導入について (PDF) - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2011年12月15日
- ^ “久留里線でキハ30・キハ37・キハ38の運転終了”. 鉄道ファン. railf.jp鉄道ニュース (交友社). (2012年12月1日)
- ^ “【JR東】久留里線のキハ30形・キハ37形・キハ38形 運転終了”. 鉄道ホビダス. RMニュース (ネコ・パブリッシング). (2012年12月3日)
- ^ “【JR東】久留里用気動車6輌 配給輸送”. 鉄道ホビダス. RMニュース (ネコ・パブリッシング). (2012年12月11日)
- ^ “キハ30形,キハ37形,キハ38形が新津へ”. 鉄道ファン. railf.jp鉄道ニュース (交友社). (2012年12月12日)
- ^ JR電車編成表2014冬. p. 357. ISBN 9784330424132
- ^ a b c 和田京太「回顧 JR西日本キハ37形」『鉄道ピクトリアル』2009年9月号、p.104
- ^ a b c d 和田京太「回顧 JR西日本キハ37形」『鉄道ピクトリアル』2009年9月号、p.105
- ^ 『鉄道ファン』通巻579号、特別付録p.42
- ^ 「キハ30,キハ37,キハ38の6両が水島臨海鉄道へ」『鉄道ファン』交友社(railf.jp鉄道ニュース)、2013年7月10日。
- ^ 「「キハ37、38、30形式」の運転開始について」『』水島臨海鉄道、2014年4月14日。
- ^ 時刻表, 水島臨海鉄道
- ^ 「水島臨海鉄道,キハ37 103の塗装変更完了を記念したお披露目運転を実施」『鉄道ファン』交友社(railf.jp鉄道イベント)、2021年12月14日。2021年12月16日閲覧。
- ^ 「よみがえった旧国鉄時代の車両 当時の鮮やかな赤の車体で…水島臨海鉄道で運行開始【岡山・倉敷市】」『OHK岡山放送』2021年12月15日。2021年12月16日閲覧。