黒田 定治(くろだ さだはる、文久3年11月12日[1]1863年12月22日) - 大正3年(1914年4月13日[2])は、日本教育者

黒田 定治
誕生 (1868-12-22) 1868年12月22日文久3年11月12日
越後国頸城郡高田城下(現・新潟県上越市
死没 (1914-04-13) 1914年4月13日(45歳没)
職業 教育者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京師範学校中学師範学科
代表作 『教授術』(1891年)
『単級教授法』(1902年)
子供 武定(長男)
親族 定仍(父)、ノブ(妹・佐藤熊造妻)、良定(弟)
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経歴

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越後国高田城下(現在の新潟県上越市)出身。1884年明治17年)、東京師範学校(のち東京高等師範学校)中学師範学科を卒業し、附属小学校訓導、本校訓導、同助教諭を歴任した[3]1890年(明治23年)より3年間、イギリスフランスドイツに留学した[3]。帰国後、東京高等師範学校教授となり、1896年(明治29年)に附属小学校主事を兼ねた[3]1897年(明治30年)からは東京女子高等師範学校教授を兼ね、1900年(明治33年)から東京女子師範学校専任となった[1]1913年(大正2年)に東京府豊島師範学校校長に転じた[1]

家族

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著作

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黒田定治
  • 「故山川男爵」(『東京茗渓会雑誌』第182号、1898年3月)
  • 「高等師範学校附属小学校 変遷談」(『教育学術界』第7巻第1号、1903年4月)
著書・編書

脚注

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  1. ^ a b c 東京府豊島師範学校長正五位勲五等黒田定治」 アジア歴史資料センター Ref.A10112775500 
  2. ^ 『官報』第520号、大正3年4月25日。
  3. ^ a b c 現今日本名家列伝 1903, pp. 523–524.
  4. ^ a b 黒田定治『人事興信録』2版(明41.6刊)
  5. ^ 江坂徳蔵歴史が眠る多磨霊園
  6. ^ a b 黒田武定『人事興信録』10版(昭和9年) 上卷

参考文献

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関連文献

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  • 黒田定治」(内尾直二編輯 『第三版 人事興信録』 人事興信所、1911年4月)
  • 井上敏夫 「解題」(前掲 『近代国語教育論大系 2 明治期II』)
  • 麻生千明 「黒田定治 : 単級教授法の創唱者」(唐沢富太郎編著 『図説 教育人物事典 : 日本教育史のなかの教育者群像 下巻』 ぎょうせい、1984年7月)
  • 楠本恭之 「黒田定治の単級教授論」(『教育学研究紀要』第41巻第1部、中国四国教育学会、1996年3月)

外部リンク

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公職
先代
大束重善
東京府豊島師範学校長
1913年 - 1914年
次代
御園生金太郎
先代
槙山栄次
  東京女子高等師範学校附属小学校主事
1908年 - 1909年
次代
藤井利誉
先代
高等師範学校附属学校主事事務取扱
黒田定治
  高等師範学校附属小学校主事
1896年 - 1898年
次代
主事事務取扱
高橋章臣
先代
主事
町田則文
  高等師範学校附属学校主事事務取扱
1896年
次代
高等師範学校附属尋常中学校主事
三宅米吉
高等師範学校附属小学校主事
黒田定治