鹿島神社 (横須賀市)
鹿島神社(かしまじんじゃ、旧字体:鹿嶋神社)は、「鹿島」を社名に持ち武甕槌神(タケミカヅチ)を祭神とする、神奈川県横須賀市に鎮座する神社。
鹿島神社 | |
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所在地 | 神奈川県横須賀市西逸見町二丁目70番地 |
位置 | 北緯35度16分55.89秒 東経139度39分3.02秒 / 北緯35.2821917度 東経139.6508389度座標: 北緯35度16分55.89秒 東経139度39分3.02秒 / 北緯35.2821917度 東経139.6508389度 |
主祭神 | 武甕槌神(タケミカヅチ)(別名:タケミカツチノミコト) |
社格等 | 村社 |
創建 | 応永十七年(一四一〇)年四月八日 |
例祭 | 6月初旬の土日曜日 |
地図 |
由緒
編集旧鎮座地は現在の海上自衛隊の海辺で逸見森崎字七番七五二番地にあった。応永十七年(一四一〇)年四月八日、三浦遠江守が常陸の鹿島神宮より勧請したと伝えられる。相模風土記に「村の鎮守なり、御神木は木像で一尺二寸、背に応永十七庚寅卯月初八日、五郎四郎□□佛子某敬と記し花押あり」と見える。又天正二年(一五七四)十一月二十日朝比奈六大夫造営の棟札と寛永十三年(一六三六)八月二十四日三浦按針(英国人のウィリアム・アダムス(一五六四~一六二〇年))の子(ジョゼフ・アダムズ(一六〇五~没年不詳))が社殿を造営した棟札が存在していたが、明治二十四年(一八九一)八月に乞食により全焼した。同年明治二十四年(一八九一)八月に仮殿を造りその後の明治二十八年(一八九五)六月五日現在地に社殿を建造して遷座して今日に至っている。明治二十九年(一八九六)から祭礼日を六月五日に改められた。旧社殿の消失前の明治六年(一八七三)に村社に列格し、現社殿に再建後の明治四十一年(一九〇八)には逸見 (横須賀市)町の各地に鎮座していた稲荷社、熊野社、神明社、浅間社、子神社、山中社を鹿島神社に合祀した。更に、明治四十三年(一九一〇)十一月八日指定村社になった。先の第二次大戦後は氏子により民主的な運営となり今日に至っている。 [1]
祭神
編集武甕槌神(タケミカヅチ)(別名:タケミカツチノミコト)は香取神宮の経津主命(フツヌシノミコト)と共に天照大神のお告げにより出雲国の降りて大国主命(オオクニヌシノミコト)と国譲りの交渉され建国の基礎を築かれた神と云われている。鹿島の地を本拠地として東国を開拓し神武天皇の大和への入国を助けた。神武天皇即位の年に天種子命(アマノタネノミコト)を鹿島に遣わし武甕槌命(タケミカツチノミコト)を奉斎したと云われている。 [1]
祭事
編集御納経御朱印
編集社務所にて御朱印を受け付けています。
例大祭
編集祭礼日を六月五日としていますが、慣例として六月の第一週の土曜日、日曜日の二日間に渡り行われます。横須賀市逸見行政センターの担当区域のうち、西逸見町、東逸見町、逸見が丘、吉倉町の地域が祭礼委員会を組織し執り行われます。町内を渡御(神社から出発し、氏子町会を回っていく事)するにあたり、祭礼委員会が計画書を予め作成しておきます。担ぐには青年会、各町内会で選抜された方々が行いますが、参加は自由にできます。
二日間に渡って行われる事、早朝六時からの一番太鼓、町内渡御から各町内会館に戻る夜九時頃まで行う事が当地区、例大祭の特徴です。
大神輿の由来
編集3年毎に渡御される本社神輿は明治四十三年六月、鹿島神社新造営の竣工なりたる砌㐧一區(現東逸見㐧一町内会)有志らの浄財と労力を結集し、一年六カ月間の星霜を費し新造されたるもので、大正十四年に当神社に社宝として、奉納された他に比類のないもので、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮に現在国宝として保存されたる神輿を模造した生地其の侭の壮重さがあるものでありました。其の后昭和三十二年逸見吉倉七町内の寄進により金箔梨子地漆塗りに化粧直しされたものです。
平成二十六年六月吉日
鹿島神社氏子
東逸見㐧一町内会
山車神こし保存会
伊東香泉謹書
寄贈(有)ハウスプラザ按針
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交通
編集鉄道
編集脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 鹿島神社(神奈川県神社庁)