高階為章

平安時代の官吏、木工頭

高階 為章(たかしな の ためあき、康平2年(1059年) - 康和5年12月20日1104年1月19日))は、平安時代後期の貴族備中守高階為家の長男。

 
高階為章
時代 平安時代後期
生誕 康平2年(1059年
死没 康和5年12月20日1104年1月19日
官位 正四位下木工頭
主君 白河天皇
氏族 高階朝臣
父母 父:高階為家、母:藤原義忠の娘
兄弟 為章為賢為遠源家実室、源有賢室、源雅俊室(掌侍高階業子)、源信雅室?
養子:高階為行
藤原基貞の娘、源業房の娘、藤原時房の娘
仲章宗章雅章時章為子
養子:高階基章
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経歴

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蔵人所雑色を経て、承暦3年(1079年六位蔵人右近衛将監に補せられる。承暦5年(1081年巡爵により従五位下越後守に叙任された。のち、左兵衛佐を経て、応徳3年(1086年白河天皇堀河天皇譲位して院政を開始すると、為章は院近臣として院の身近に仕える一方で、但馬守を兼ね、寛治2年(1088年正五位下次いで従四位下、寛治3年(1089年)従四位上、寛治4年(1090年正四位下と白河院政期初頭に急速に昇進を果たした。

為章は院の寵臣として因幡守藤原隆時と並び称され[1]、二条万里小路の為章の邸宅には、しばしば白河院の御幸が行われた[2]。特に、寛治7年(1093年)春日神人を暴行したとして興福寺衆徒から訴えられ、父の為家が近江守を解かれて土佐国配流となった際、為章は長男であったために縁坐となるべき所、白河院の特別な恩寵によってこれを逃れ、四男の阿波守・為遠のみが官職を停められたことから、人々から専主の非常の断として驚嘆を受けたという[1]

嘉保2年(1095年木工頭を兼ねるが、寛治6年(1093年加賀守、嘉保3年(1096年丹波守と引き続き受領を務める。承徳元年(1097年)には、それまで20年間務めてきた内蔵寮領蟹谷庄の庄司職を継続することが許されている。丹波守在職中には、東寺領大山庄を寛徳年間(1044年-1046年)以後の新立荘園として収公するなど、任国の荘園に対し圧迫の姿勢で臨んだ[2]

父に先立って、康和5年(1103年)12月20日に卒去享年45。最終官位は正四位下行木工頭兼丹波守。

官歴

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注記のないものは『本朝世紀』による[1]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c 『本朝世紀』康和5年12月20日条
  2. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』
  3. ^ 『中御室灌頂記』
  4. ^ 『師通記』
  5. ^ 『慶延記』
  6. ^ 『時範記』
  7. ^ 『平安遺文』1481
  8. ^ 『殿暦』

参考文献

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