源雅俊

平安時代後期の公卿。源顕房の次男?三男?。正二位権大納言。子に玄雅(興福寺)-公円、進覚(暹覚、延暦寺、法眼)、行雅(仁和寺、浄名院、大納言阿闍梨)、昌雲(仁和寺)

源 雅俊(みなもと の まさとし)は、平安時代後期の公卿村上源氏右大臣源顕房の三男、官位は正二位権大納言京極大納言と号す。

 
源 雅俊
時代 平安時代後期
生誕 康平6年(1063年[1]治暦元年(1065年[2]
死没 保安3年(1122年
別名 京極大納言(号)
官位 正二位権大納言
主君 白河天皇堀河天皇鳥羽天皇
氏族 村上源氏顕房流
父母 父:源顕房、母:藤原良任の娘
兄弟 賢子雅実顕仲雅俊国信、師子、相覚、顕雅定海、隆覚、信雅、覚樹、雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房雅隆、顕覚、藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿
備中守為宗の女、高階業子、伊予守国明の女
顕重、顕俊、顕親、俊親、憲俊、顕定、元海、寛雅、玄雅、行顕、進覚、行雅、昌雲
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経歴

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白河朝初頭の延久5年(1073年叙爵し、翌承保元年(1074年侍従に任官する。承暦3年(1079年)従五位上次いで正五位下と続けて昇叙され、承暦4年(1080年)正月に左近衛少将に任ぜられると、同年12月に姉の中宮藤原賢子中宮権亮を兼ねた。

永保2年(1082年)左近衛権中将に昇任されると、永保3年(1083年従四位下、永保4年(1084年)正月に従四位上と順調に昇進し、同年12月に蔵人頭に補される。応徳3年(1086年堀河天皇の即位後も引き続いて蔵人頭を務め、寛治5年(1091年参議に任ぜられて公卿に列した。

議政官として右兵衛督を兼ねたほか、備中権守・播磨権守を兼国。この間に寛治6年(1092年従三位嘉保2年(1095年正三位と昇叙された。承徳2年(1098年権中納言右衛門督に任ぜられる。康和2年(1100年従二位、康和3年(1101年正二位と昇進を続け、康和5年(1103年)には外甥にあたる春宮宗仁親王春宮権大夫を兼ねた。天永2年(1111年権大納言に至る。

保安3年(1122年)4月13日薨去享年57。最終官位は権大納言正二位。

人物

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仏教に対する信仰心が厚かった。嘉承2年(1107年堀河天皇のために、香隆寺で丈六千手観音像涅槃経供養した。また、生死の無常を厭いて、京極に一堂を建立して九体の阿弥陀丈六像を奉安。毎朝、堂に入って礼拝を行い宝号(仏・菩薩の名)を唱えた。さらに、天永2年(1111年)にはこの堂の中に塔婆を建てて六口の僧侶を置いて法華三昧を修したという(『三外往生記』)。この塔婆の供養に際しては「公卿の人でこのような大善根、誠に希有のことである」(『中右記』)[3]と評された。

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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  • 父:源顕房
  • 母:藤原良任の娘
  • 妻:備中守為宗の女
  • 妻:高階業子(高階為家の娘)
  • 妻:伊予守国明の女
  • 生母不明の子女
    • 男子:源俊親
    • 男子:源憲俊
    • 男子:源顕定
    • 男子:元海
    • 男子:寛雅
    • 男子:玄雅
    • 男子:行顕
    • 男子:進覚
    • 男子:行雅
    • 男子:昌雲

脚注

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  1. ^ 『尊卑分脈』に基づき逆算
  2. ^ 『公卿補任』に基づき逆算
  3. ^ 『中右記』天永2年12月7日条
  4. ^ a b 『近衛府補任』
  5. ^ 『尊卑分脈』では4月12日
  6. ^ 『公卿補任』では享年57、『尊卑分脈』では享年59

参考文献

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