源信雅
日本の平安時代の公家、源顕房の六男
源 信雅(みなもと の のぶまさ)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。官位は正四位下・陸奥守。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 承暦3年(1079年) |
死没 | 保延元年5月5日(1135年6月27日) |
改名 | 家定(初名)→信雅 |
官位 | 正四位下、陸奥守 |
主君 |
堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 藤原忠実 |
氏族 | 村上源氏 |
父母 | 父:源顕房、母:源顕雅母(藤原伊綱の娘) |
兄弟 | 賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、相覚、顕雅、定海、隆覚、信雅、覚樹、雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房、雅隆、顕覚、藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿 |
妻 | 源国明または為家の娘、源国房の娘 |
子 | 成雅、雅仲、忠信、顕成、頼季、季定、長雅、遠雅、房覚、円雲、真寛、寛顕、平忠盛妾、藤原頼長室、藤原光忠室、大炊頭為重室 |
経歴
編集白河院政期前期の寛治7年(1093年)馬権頭の任にあった際に昇殿を許される。永長元年(1096年)の大田楽においては、権右中弁・源重資らと共に小鼓を打った。承徳2年(1098年)右近衛少将に任ぜられ、承徳3年(1099年)加賀介を兼ねるが、長治元年(1104年)従四位下へ叙せられた際、少将を解かれたと見られる。その後、加賀(権)介のみを長く務めた。
鳥羽院政期に入り、大治6年(1131年)陸奥守に任ぜられるとともに、27年ぶりの叙位により従四位上に昇進する。長承3年(1134年)正月に正四位下に叙せられ、3月に鳥羽上皇の妃でる藤原泰子が皇后に立てられると、信雅は皇后宮亮を兼ねた。
保延元年(1135年)5月5日に陸奥守在任のまま卒去。享年57。最終官位は陸奥守正四位下兼皇后宮亮。
藤原忠実の家司を務め、その衆道の相手でもあったとされる。忠実が信雅とその子・成雅の容貌を比較して批評した逸話が伝わっている(『富家語』)。
官歴
編集- 寛治7年(1093年) 3月6日:昇殿、見馬権頭[1][2][3]
- 承徳2年(1098年) 正月27日:右近衛少将、元左馬権頭、見従五位上[4]
- 承徳3年(1099年) 正月22日:兼加賀介[5]
- 康和4年(1102年) 3月9日:見正五位下[4]
- 康和5年(1103年) 2月30日:兼加賀権介(または加賀介重任)[4]
- 長治元年(1104年) 正月6日:従四位下?、止少将?、加賀介如元[4]
- 大治6年(1131年) 正月22日:陸奥守[6]。8月9日:従四位上[6][7]
- 長承3年(1134年) 正月5日:正四位下[1]。3月19日:兼皇后宮亮(皇后・藤原泰子)[1][6]
- 保延元年(1135年) 5月5日:卒去[8]
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 竹鼻績『今鏡 (下)』講談社学術文庫、1984年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年