高岩淡
高岩 淡(たかいわ たん、1930年(昭和5年)11月13日 - 2021年(令和3年)10月28日)は、日本の映画プロデューサー・経営者。東映京都撮影所所長、東映代表取締役社長、同社会長・相談役を歴任した。
たかいわ たん 高岩 淡 | |||||||||
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生年月日 | 1930年11月13日 | ||||||||
没年月日 | 2021年10月28日(90歳没) | ||||||||
出生地 | 日本 福岡県福岡市 | ||||||||
職業 | 映画プロデューサー・経営者 | ||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||
著名な家族 |
檀一雄(異父兄) 笠耐(妹) 檀太郎(甥) 檀ふみ(姪) 檀一平太(又甥) | ||||||||
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経歴
編集貿易商を営む高岩勘次郎、とみの子として、福岡市に生まれる。母とみは、前夫との間に作家檀一雄を生んでおり、檀の異父弟にあたる。実兄にはフリーカメラマンの高岩震、実弟には記録映画作家の高岩仁がおり、ともに元東映社員である。実妹には上智大学理工学部助教授を務めた物理学者の笠耐がいる。
福岡県中学修猷館[1]、旧制福岡高等学校を経て、1954年、九州大学経済学部を卒業し、檀の親友である東映東京撮影所所長の坪井与に誘われ、東映に入社。1967年、管理部長、1968年、製作部長、1971年、取締役東映京都撮影所所長となり、1975年に東映京都スタジオ社長、同年11月には高岩のアイデアで京撮を東映太秦映画村として開村し、一般公開している。
その後、1978年11月に常務取締役、1986年11月に専務取締役を経て、1991年に東映音楽出版社長、1993年6月に東映代表取締役社長就任、同年に東映化学工業相談役、1994年6月、東映アニメーション取締役も務めており、アニメーション映画の製作も数多く手掛けている。1996年、東映ビデオ社長に就任。傍ら、1996年から日本アカデミー賞協会会長を務める。
2002年6月、岡田裕介の社長就任に伴い、代表取締役会長となる。2006年6月、相談役となり、2012年6月に一切の役職から退き、東映を退社した。
檀一雄の『火宅の人』を映画にした。高校在学中の檀ふみを『昭和残侠伝 破れ傘』で映画デビューさせた。
岡田茂 (東映) から「企画能力はマイナスだが、人をまとめることは日本一」と言われたと自著で述べている[2]。
2012年10月8日、長年にわたって日本映画の発展に大きく貢献した功績により、第46回牧野省三賞を受賞。
主な製作・企画作品
編集- 柳生一族の陰謀(1978年)企画
- 宇宙からのメッセージ(1978年)製作
- 赤穂城断絶(1978年)製作
- 野菊の墓(1981年)製作
- 北の螢(1984年)製作
- 火宅の人(1986年)企画
- わが愛の譜 滝廉太郎物語(1993年)製作
- 北京原人 Who are you?(1997年)製作
- 鉄道員(1999年)製作
- 金融腐食列島〔呪縛〕(1999年)製作総指揮
- ホタル(2001年)製作
- 千年の恋 ひかる源氏物語(2001年)製作総指揮
- 陽はまた昇る(2002年)製作
- 男たちの大和/YAMATO(2005年)製作総指揮
脚注
編集出典
編集- ^ “東京修猷会 第525回二木会(2005年11月10日(木))”. 福岡県立修猷館高等学校同窓会 東京修猷会. 2021年11月1日閲覧。
- ^ 高岩淡『銀幕おもいで話』双葉社〈双葉文庫〉、2013年8月8日、188頁。ISBN 978-4575714012。
- ^ “高岩淡さん死去 90歳 映画界から悲しみの声 姪・檀ふみは感謝「骨の随まで映画人でした」”. スポニチアネックス (スポーツニッポン新聞社). (2021年11月1日) 2021年11月1日閲覧。
- ^ “東映元社長の高岩淡さんが肺炎のため90歳で死去 京都の「東映太秦映画村」を開設”. スポーツ報知. 報知新聞社 (2021年11月1日). 2021年11月1日閲覧。
外部リンク
編集- 高岩淡 - allcinema
- 高岩淡 - KINENOTE
- 高岩淡 - 日本映画データベース
- Tan Takaiwa - IMDb