馬 君武(ば くんぶ)は、中華民国の政治家・教育家・工学者。中国同盟会に属した革命派人士。北京政府で要職に就き、国民政府時代には、新広西派の一員と目された。旧名は道凝、後にと改名したが、一般には君武で知られる。字は他に厚山本貫湖北省武昌府蒲圻県(現在の湖北省咸寧市赤壁市)。

馬君武
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1881年7月17日
光緒7年6月22日)[1]
死去: 1940年民国29年)8月1日
中華民国の旗 中華民国広西省桂林市
出身地: 清の旗 広西省桂林府臨桂県
職業: 政治家・教育家・工学者
各種表記
繁体字 馬君武
簡体字 马君武
拼音 Mǎ Jūnwǔ
ラテン字 Ma Chün-wu
和名表記: ば くんぶ
発音転記: マー・ジュンウー
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事績

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中国同盟会での活動

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地方官吏の家庭に生まれる。1899年光緒25年)に広西体用学堂に入学した。1900年(光緒26年)、広州へ向かい、フランスの教会が運営する丕崇学院でフランス語を学んだ。

同年7月、シンガポールへ渡り、康有為と会見する機会を得て、変法運動に加わる。後に帰国して、唐才常の自立軍に加わったが、敗北して上海に逃れる。そこで震旦学院で引き続きフランス語を学び、ジュール・ミシュレの『フランス革命史』を翻訳した。

1901年(光緒27年)冬、日本へ渡り、梁啓超と対面したほか、宮崎民蔵・寅蔵(滔天)兄弟とも知り合っている。1902年(光緒28年)には、宮部民蔵の紹介により、孫文(孫中山)とも会った。これ以降、馬君武は、革命派の路線を進むようになり、馮自由劉成禺らとともに革命宣伝に努めるようになる。1903年(光緒29年)秋、京都帝国大学で工芸科学を学ぶ。1905年(光緒31年)の中国同盟会結成に際しては、黄興陳天華らとともに章程の作成に携わり、結成後は執行部書記となっている。

1906年(光緒32年)夏、馬君武は大学を卒業して帰国し、上海の中国公学で総教習兼理化教授となった。まもなく、両江総督端方から指名手配されるようになったため、ドイツへ留学する。ベルリン工芸大学で冶金を学び、工学士として卒業した。

北京政府期の活動

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馬君武(右)。1905年、東京で孫文と

辛亥革命勃発直後の1911年宣統3年)11月に帰国し、上海に到着した。馬君武は臨時政府組織大綱の起草に参加している。南京臨時国民政府が成立すると、実業部次長として部務を代理した。さらに臨時約法の起草にも参与している。袁世凱が孫文に代わって臨時大総統となると、馬君武は辞任し、中国鉄路公司秘書長に転じた。

1913年民国2年)、参議院議員に選出されている。二次革命(第二革命)で孫文らが敗北すると、馬君武は再びドイツに向かう。ベルリン大学研究院などで引き続き研究を続け、工学博士の学位を取得した。袁世凱死後の1916年(民国5年)に帰国し、参議院議員に復帰した。

1917年(民国6年)7月、孫文が護法運動を開始すると、馬君武も南下してこれに参与する。大元帥府秘書・護法軍政府代理交通総長をつとめた。1921年(民国10年)4月、孫文が非常大総統に就任すると、馬君武は総統府秘書長に任じられている。7月には、広西省長に任命され、省政改革に取り組んでいる。しかし1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回全国代表大会の際には、馬君武は章炳麟・馮自由らに追随して、三大政策に反対した。

同年11月、上海大夏大学校長となる。1925年(民国14年)4月には、北京工業大学校長に転じた。12月末に、臨時執政段祺瑞から北京政府の司法総長に任ぜられ、1926年(民国15年)1月に就任宣誓を行った[2]。しかし、国民党からこれを党紀違反とみなされ、除名処分を受けた。1927年(民国16年)3月、教育総長に転じたが、今度は工業大学学生から反発を買ってしまう。結局、極めて短期間で辞任し、上海大夏大学校長の職に復帰した。

国民政府期の活動

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晩年期の馬君武(『最新支那要人伝』1941年)

1927年(民国16年)、広西省政府主席黄紹竑の招聘を受けて広西省に戻る。馬君武は梧州広西大学を創設した。その後、中国公学校長、広西大学校長をつとめる。新広西派・西南派の一員として、西南政務委員会常務委員、広西省政府委員、広西修志局総纂なども歴任した。広西大学校長としては、研究機関の拡充、教育水準の向上に努め、成果もあげた。

しかし1936年(民国25年)、学生に軍事訓練を施す方針が含まれていた、李宗仁白崇禧などが推進する「三自三寓」[3]政策に反対したため、馬君武は校長から罷免されてしまう。それでも日中戦争(抗日戦争)勃発後は、最高国防会議参議・広西省政府高等顧問として復帰した。1939年(民国28年)、国立に改組された広西大学校長にも返り咲いている。

1940年(民国29年)8月1日、胃病がもとで桂林にて病没。享年60(満59歳)。

脚注

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  1. ^ Who's Who in China 3rd ed.,p.587は1891年とするが、明らかに誤りである。
  2. ^ 劉寿林ほか『民国職官年表』は、「就任せず」としている。
  3. ^ 新広西派が広西省統治に際して推進した政策。「三自」とは、「自衛・自治・自給」を指し、「三寓」とは「寓兵于団(軍政一致と民兵強化、すなわち全民皆兵を指す)・寓将于学(軍幹部教育と初中等以上の学校での軍事訓練)・寓徴于募(募兵制徴兵制の混合)」を指す。郭緒印主編『国民党派系闘争史』上海人民出版社、1992年、341-343頁。

参考文献

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  • 曽誠「馬君武」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
楊庶堪
司法総長(就任せず)
1925年12月 - 1926年3月
次代
盧信
先代
易培基
教育総長
1926年3月
次代
胡仁源