須原屋市兵衛
須原屋 市兵衛(すはらや いちべえ)は、江戸時代の版元(出版人)である。江戸出版業界の最大手須原屋茂兵衛の暖簾分け店の一つ。号は申椒堂(しんしょうどう)。平賀源内・森島中良・杉田玄白ら蘭学者の版元として、当時として革新的な書物を多く手がけた個性派として知られる。宝暦から文化年間に活動した。日本橋室町三丁目、同二丁目、日本橋本石町四丁目、安永3年(1774年)に日本橋本町二丁目、安永4年(1775年)に日本橋北室町3丁目西側と拠点を点々とした。平秩東作の嫡子桃次郎が奉公した[1]。
概要
編集活動は日本橋室町三丁目における宝暦12年(1762年)の建部綾足著『寒葉斎画譜』の刊行に始まる。宝暦13年(1763年)には平賀源内著『物類品隲』の版元となり、源内やその周辺の蘭学者の書を多く手がけた。安永3年(1774年)には幕府の弾圧を恐れながらも『解体新書』を刊行する。寛政4年(1792年)5月16日に林子平著『三国通覧図説』が幕府に見咎められ、絶版になり版木没収及び重過料に課された。文化3年(1806年)の文化の大火で被災し、土蔵を持たなかったため大きな打撃を受けた[2]。文化4年(1807年)の『由利稚野居鷹』、文化5年の『三七全伝南柯夢』(曲亭馬琴)を最後に単独出版が途絶え、文化8年(1811年)に二代目が死去してからは共同出版のみに携わった[3]。文政期には経営が茂兵衛に委ねられ、三代目の死後、遂に休株となった[2]。墓所は浅草の善龍寺。
歴代
編集主な有名刊行物
編集- 『寒葉斎画譜』(建部綾足、宝暦12年(1762年)
- 『物類品隲』(平賀源内、宝暦13年(1763年)6月)
- 『水の行方』(平秩東作、明和元年(1764年)12月)
- 『火浣布略説』(平賀源内、明和2年(1765年))
- 『寝惚先生文集』(大田南畝、明和4年(1767年))
- 『大疑録』(貝原益軒、明和4年(1767年))
- 『売飴士平伝』(大田南畝、明和6年(1769年))
- 『神霊矢口渡』(平賀源内、明和7年(1770年))
- 『解体約図』(杉田玄白、安永元年(1772年))
- 『解体新書』(杉田玄白、安永3年(1774年))
- 『絵本世都濃登起』(北尾重政画、安永3年(1774年))
- 『教訓いろは歌』(鈴木春信画、安永4年(1775年))
- 『絵本世都の時』(北尾重政画、安永4年)
- 『宇比麻奈備』(賀茂真淵、天明元年(1781年))
- 『大清広輿図』(長久保赤水)、天明5年(1785年)6月)
- 『三国通覧図説』(林子平、天明5年(1785年))
- 『当世塵劫記』(会田安明、天明6月(1786年))
- 『紅毛雑話』(森島中良、天明7年(1787年))
- 『琉球談』(森島中良、寛政2年(1790年))
- 『古今名物類聚』(松平治郷、寛政3年(1791年))
- 『略画式』(鍬形蕙斎、寛政7年(1795年))
- 『民間備荒録』(建部清庵、寛政8年(1796年))
- 『西説内科撰要』(宇田川玄随、寛政8年(1796年))
- 『機巧図彙』(細川頼直、寛政8年(1796年))
- 『魚貝譜』(鍬形蕙斎、享和2年(1802年))
参考文献
編集脚注
編集- ^ 森銑三『平秩東作の生涯』
- ^ a b 松田泰代「『重訂解体新書』の出版に関する一つの考察」
- ^ 松田泰代「蔵版目録の分析による刷年代識別法--書肆須原屋市兵衛の蔵版目録を事例として」