青木重義
青木 重義(あおき しげよし)は、江戸時代後期の大名。摂津国麻田藩の第14代(最後)の藩主。維新後、子爵。
青木重義 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 嘉永6年2月9日(1853年3月18日) |
死没 | 明治17年(1884年)10月27日 |
官位 | 従五位下・民部少輔、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家定、家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 摂津麻田藩主 |
氏族 | 青木氏 |
父母 | 青木重龍、青木一咸 |
妻 |
松平信宝三女由 塩田伝兵衛娘 |
子 | 信光 |
生涯
編集嘉永6年(1853年)、第11代藩主・青木重龍が隠居後にもうけた五男として誕生した。
安政3年(1856年)8月28日、養父・一咸の死去により、わずか4歳にして家督を継いだ。重龍の死去は2年後の安政5年(1858年)である。慶応4年(1868年)2月20日、上洛し、新政府支持の姿勢を示す。同年4月3日、従五位下・民部少輔に叙任する。
維新後の明治2年(1869年)6月23日、麻田藩知事に就任する。藩校・直方堂を文武局と改めると共に、漢学や算数などを新たに取り入れた。同年、藩の領地である高平郷(川辺郡高平村、のち有馬郡に編入、現・三田市)で小作争議が起こっている。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県に伴い知藩事を免職となった。
明治17年(1884年)7月8日に子爵となるが[1]、同年10月27日に死去した。享年32。
中山男爵家から養子に入った信光が跡を継いだ。
系譜
編集脚注
編集- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (麻田)青木家初代 1884年 |
次代 青木信光 |