青山幸高
青山 幸高(あおやま よしたか)は、江戸時代前期の旗本。幸隆[1]とも伝わる。
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永9年(1632年) |
死没 | 宝永3年9月14日(1706年10月20日) |
別名 | 別名:幸隆、通称:松之助、藤蔵、号:宗閑 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家光、家綱、綱吉 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 父;青山幸成、母:福永氏 |
兄弟 |
幸利、幸通、幸正、幸高、堀親昌継室、 水谷勝宗正室、松平信久正室 |
妻 | 天方倶通娘 |
子 | 幸遐、幸度、圓廓(幽滴)、天方成展、荒木政羽室、幸光、幸覃 |
生涯
編集寛永9年(1632年)、摂津国尼崎藩初代藩主(当時は遠江国掛川藩主)青山幸成の四男として誕生した。父・幸成は寛永20年(1643年)に死去する前に次男・幸通、三男・幸正、四男・幸高にそれぞれ3000石、2000石、1000石を分与して青山三分家を創設し、2月16日に死去した。同年6月7日、幸高は摂津国武庫郡・川辺郡内1000石を分知され、別家を創設した。
慶安3年(1650年)9月4日、小姓組番士となる。貞享3年(1686年)8月6日、走水奉行に任ぜられる。元禄9年(1696年)2月21日、走水奉行が廃止されると、寄合に列した。元禄14年(1701年)7月5日、家督を息子の幸遐に譲り、隠居料として米300俵を賜る。長男・幸遐には700石、次男・幸度には300石を分与した。
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第729