青山成展
青山 成展(あおやま なりのぶ、寛文5年(1665年) - 享保20年5月26日(1735年7月16日))は、江戸時代前期から中期の旗本。青山幸高の四男で、母は天方倶通の娘。天方致通(倶通の子)の養子[1]となる。初名は通深、成房、則通。通称は五郎兵衛、主馬。妻は須田盛輔の養女(実父:須田盛氏)[2]。子に青山俊延がいる。
生涯
編集寛文5年(1665年)、青山幸高の四男として生まれる。天和2年(1682年)7月、おじにあたる天方致通の末期養子となり、同年12月16日に家督を継ぐ。元禄2年(1689年)4月29日に小姓組に列し、元禄3年(1690年)8月10日、桐之間御番となる。同年9月18日に免ぜられた後、元禄5年(1692年)3月18日、書院番となる。享保2年(1717年)4月21日、本所奉行となり、享保4年(1719年)4月3日に役が廃止されるまで務める。享保6年(1721年)2月28日、使番となる。享保14年(1729年)8月、駿府目付代になる。[要出典]享保16年(1731年)2月28日、先手弓頭になる。享保17年(1732年)閏5月12日、天方から青山に改姓する。
享保20年(1735年)2月25日に職を辞して寄合に列し、5月16日に致仕する。家督は長男の俊延が継いだ。同年5月26日、死去。享年71。
脚注
編集- ^ 『寛政重修諸家譜 第5輯』(国民図書、1923年)p.336-337、巻第八百二十九
- ^ 『寛政重修諸家譜 巻第二百四十九』
出典
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第729、巻第829