青山幸礼
青山 幸礼(あおやま ゆきのり)は、江戸時代後期の大名。美濃国郡上藩5代藩主。官位は従五位下・播磨守。幸成系青山家9代。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化5年9月6日(1808年10月25日) |
死没 | 天保9年8月25日(1838年10月13日) |
改名 | 房次郎(幼名)、幸礼 |
戒名 | 清猶院殿德風輝山大居士 |
墓所 | 東京都港区南青山の梅窓院(浄土宗) |
官位 | 従五位下・播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 江戸城西の丸大手御門番 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
藩 | 美濃郡上藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 青山幸孝、青山幸寛 |
兄弟 | 幸寛、幸礼、成展、於久二、サダ、阿充、松平信友正室、睦ら |
妻 | 松平宗発娘、相馬益胤娘 |
子 | 幸哉 |
生涯
編集文化5年(1808年)、3代藩主・青山幸孝の次男として誕生した。兄で4代藩主の幸寛に嗣子が無かったため養子となった。
天保3年(1832年)、幸寛の死去により家督を継いだ。同年12月には江戸城西の丸大手御門番に任じられた。しかし天保の大飢饉で大被害を受けるなど、藩政に苦慮する中で、天保9年(1838年)8月25日[1]に死去した。享年31。
嗣子がなかったため、養子の幸哉が跡を継いだ。
系譜
編集父母
正室、継室
養子
脚注
編集- ^ 異説として4月25日。