青地 礼幹(あおち のりもと)は、江戸時代前期から中期にかけての加賀藩士・儒学者。通称は藤太夫。字は貞叔。号は浚新斎麗沢

 
青地礼幹
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝3年(1675年
死没 延享元年4月25日1744年6月5日
改名 浚新斎/麗沢(号)
別名 藤太夫(通称)、貞叔(字)
墓所 野田山霊園
主君 前田綱紀吉徳
加賀藩
氏族 青地氏
父母 青地定政
兄弟 斉賢(兼山)礼幹
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略歴

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延宝3年(1675年)、青地定政の子として誕生。父・定政は、家老本多家の一族から青地氏に養子入りした。米沢藩家老直江兼続の弟、大国実頼の曽孫でもある。

兄・斉賢(兼山)と共に、室鳩巣を師とする。藩主・前田綱紀吉徳に仕え、新番頭、小将組頭などを勤めた。加賀騒動に先立って、寛保2年(1742年)、家老本多政昌宛に大槻伝蔵弾劾文を送ったことでも知られる。

著作には『浚新文集』『可観小説』など。鳩巣との書簡を兄と共に編纂した、『兼山秘策(兼山麗沢秘策)』が特に知られる。師から木下順庵新井白石の書簡も譲り受け、これらも編纂している。

随筆集『可観小説』は、自身の血縁との関わりから上杉家に関する逸話も多く、前田・上杉両家に関わるものとして、前田慶次についても記述されている。

また同書には、竹島一件についての伝聞書「日本の竹島、朝鮮へ奪はるゝ事」という一節がある。正徳元年(1711年)の京都滞在中に、相国寺慈照院主だった別宗祖縁からの伝聞である。同僧は事件当時、対馬国以酊庵の輪番で対朝鮮外交に携わり、この一件の事情にもよく通じていた。対馬では武士、平民から僧侶までも、将軍綱吉の失態と憤ったという。文中での「竹島」とは、朝鮮のいうところの欝梁島(原文ママ)である、と明記されている。

出典

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『加越能叢書 可観小説』 金沢文化協会、1936年