長谷川 守知(はせがわ もりとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名。父は茶人としても知られる長谷川宗仁[4]

 
長谷川 守知
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄12年(1569年[1]
死没 寛永9年11月26日1633年1月6日[1]
改名 重隆(初名)[2]→守知
別名 源三郎(通称[2]
戒名 長谷院殿虎峯崇隆大居士[3]
墓所 京都府京都市上京区菊屋町の長徳寺
官位 従五位下・右兵衛[2]式部少輔[2]
幕府 江戸幕府
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
美濃長谷川藩[要出典]
氏族 長谷川氏
父母 父:長谷川宗仁[2]
兄弟 守知秀真[2]
正室:戸田勝成の娘 継室:矢野正倫の娘
正尚、娘(高木修理室)、娘(蒔田長広室)、戸田義祐守勝、娘(川勝広尚室)、娘(松梅院禅意室)、守俊、娘(山中猪兵衛室)
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豊臣秀吉に仕え、御小姓頭衆を務めた一人である。関ヶ原合戦の際には佐和山城籠城に加わるが、東軍に内通しており落城を導いた。大坂の陣後、美濃国摂津国などで1万石の知行を認められた(美濃長谷川藩[要出典])。

生涯

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豊臣秀吉に仕える

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永禄12年(1569年)生まれ[2][注釈 1]。父の長谷川宗仁とともに織田信長豊臣秀吉に仕える[2]。天正14年(1586年)1月19日、従五位下に叙位[2][3]、右兵衛尉に任官した[3]。後に式部少輔に遷任[2]。秀吉政権のもとでは御小姓頭衆の一人[注釈 2]を務めた[6]

文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣しており、陣所の跡が残されている[7]。慶長3年(1598年)に秀吉が没した際には遺品である国光脇差を賜っている[3]

知行地をめぐる諸説

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朝鮮出兵当時、守知は美濃国内で1万石の大名であったとする見解がある[7][注釈 3]。また、摂津国島下郡溝咋神社は、「文禄年間」に領主の「長谷川式部少輔」が修築を行ったと伝えている[9]

20世紀前半に出された古い書籍には、長谷川守知を越前国内1万石の大名とするものがある[注釈 4]。越前国内には同姓の長谷川秀一が豊臣大名として存在しており[12][15]、混同された可能性がある[注釈 5]

徳川家に従う

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佐和山城の戦い

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慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の際には、大坂からの援軍として[注釈 6]石田三成の居城である佐和山城に入っていた[16]。しかし、実は事前に京極高次と示し合わせており、石田三成に味方する姿勢は偽装であった[2][3]。守知は、堅約の印として高次から義弘の脇差を贈られている[2][3]

9月15日の関ヶ原本戦で三成ら本隊が壊滅すると、翌16日、三成の兄・石田正澄らが籠る佐和山城を攻撃することが小早川秀秋らに命じられた[16]。この際徳川家康は岡野融成を使者として小早川の陣に派遣し、城内の長谷川守知が城から出てくるので包囲陣から出すようにと指示している[16][17]。守知は秀秋の軍勢を城内に引き入れた[2][注釈 7]

断家譜』によれば、家康は守知の働きを賞し、慶長6年(1601年)に「采知所替の御朱印」を与えられている[3]

大坂の陣

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慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際には、諸将に先立って京都に入った[2]京都所司代板倉勝重は、大坂方が片桐且元の籠る茨木城を襲撃するという情報を受けており、守知を援軍として茨木に急派した[2]。また、大坂城を包囲した際には、中島・備前島・片原町に仕寄(防御に用いる竹などの束[20])を設置したが、その備えが見事であったことが、本多正信から徳川秀忠に言上された[2]。秀忠からは褒美として呉服・羽織・黄金が与えられた[2]

慶長20年/元和元年(1615年)の夏の陣の際には徳川家康に従い、戦後は駿河に住した[2]。元和2年(1616年)に徳川家康が没すると江戸に移り、徳川秀忠に仕えた[2]

元和3年(1617年)の領知朱印状

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元和3年(1617年)5月26日、1万石余の知行を認める領知朱印状を与えられた[2][3]。『徳川実紀』ではこの時に美濃・摂津等で1万石余を与えられたと叙述しており[21]、『角川新版日本史辞典』はこれにより「長谷川守知領」が大名領(藩)として成立したとする[注釈 8]。『寛政譜』によれば、その知行地は美濃国武儀郡伊勢国一志郡奄芸郡摂津国太田郡(島下郡[注釈 9]川辺郡武庫郡八部郡備中国窪屋郡山城国相楽郡にまたがって所在していた[2]

『断家譜』は晩年に隠居したとの情報を載せるが[3]、『寛政譜』に隠居の記載はなく[2]、『徳川実紀』は懐疑的である[21]

寛永9年(1632年)11月26日[注釈 10]、守知は病気のために[3]死去した[2][3][21]。享年64[2]。なお、『貞享書上』や『寛政譜』編纂時の呈譜では享年69とある[2]

その後の長谷川家

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家督は長男の長谷川正尚が継いだが、正尚は弟の長谷川守勝に3110石ほどを分知し、正尚は7000石を知行した[2]。このため長谷川家は2つの旗本家となり、大名領(藩)としては消滅した[2]

なお、長谷川家の本家は正尚の死後に守俊(守知の四男)が跡を継ぐが、正保3年(1646年)に守俊も早世したため断絶した[2]。守勝の家は幕末まで大身旗本として続いており[24]山田奉行を務めた長谷川勝知(守勝の子。名は重章とも。周防守)を出している。

系譜

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特記事項がない場合は『断家譜』[25]による。『断家譜』『寛政譜』によれば、守知には4男6女があった[25]

補足

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  • 『寛政譜』は室として矢野正倫の娘のみを載せる[2]
  • 弟に長谷川秀真がいる[2][3]。『寛政譜』によれば、秀真(佐吉・佐三郎)は豊臣秀吉に仕えたという[2]。『断家譜』は秀真(佐三郎)は早世とする[3]
  • 『断家譜』によれば、戸田義祐は実は長男であったが、次男として扱われたという[3]。『寛政譜』には戸田を称したことのみが記される[2]
  • 『寛政譜』に娘婿として名がある「高木修理」は、尾張藩重臣・高木吉任(内膳・外記・修理。高木一吉の子)である[26]高木清秀の「嫡子」であった高木一吉(内膳・志摩)は故あって父の下を離れ[27]松平忠吉、ついで徳川義直に仕え、最終的には1500石を給されて城代も務めた[26]。吉任は大坂夏の陣で活躍し、最終的には2000石まで加増され、父と同様に城代を務めた[28]。吉任ははじめ石川信光の娘を娶ったが先立たれ、後妻として迎えたのが長谷川守知の娘である[28]
  • 娘婿の一人・蒔田長広は、豊臣家の小姓頭衆の同僚であった蒔田広定の三男にあたる[29][30]。別家を立てて目付などを務め、最終的に3700石の大身旗本となった[30]
  • 娘婿の一人・川勝広尚は、大身旗本・川勝広綱の長男[31]。広綱は父に先立ち[31]、広綱と長谷川氏の子である川勝広有が川勝家を継いだ[32]
  • 娘婿の一人・松梅院禅意は、北野社(現在の北野天満宮)の上級社僧(祠官)である松梅院の当主である。松梅院は「祠官筆頭」とも表現され[33]、中世末期から近世初期にかけて、実質的に北野社を支配する存在であった[34]

脚注

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注釈

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)記載の没年・享年(64)からの逆算。享年69との説(後述)をとれば永禄7年(1564年)生まれとなる。
  2. ^ 『大坂城誌』では、福原長堯(右馬助)・蒔田広定(権佐)・別所吉治(豊後守)・長谷川守知(式部少輔)・宮城頼久(宮木右京亮)・中江直澄(式部少輔)の6人を列挙する。なお『太閤記』では長谷川守知を「長谷川式部大輔」と記している[5]
  3. ^ 古今武家盛衰記』によれば、父の宗仁は本能寺の変の情報をいち早く豊臣秀吉に伝えた功績により、山崎の戦い後に1万石の領地を与えられており、宗仁の死後に守知が継承して関ヶ原の合戦を経てこれを安堵されたとするが[8]、宗仁の死は慶長11年(1606年)であり、関ヶ原の合戦時には存命している[4]
  4. ^ たとえば清田黙『徳川加封録・徳川除封録』(1891年)では長谷川守知の領地を越前国で1万石とし、寛永9年(1632年)に除封としている[10]。『国史大事典』(1908年)では、長谷川守知が関ヶ原直前の時点で越前国内1万石の大名であったとする[11]。ただし近年の書籍では、守知を越前国の大名とする説を採用しておらず、たとえば『角川新版日本史辞典』「豊臣大名表」では、長谷川守知を大名として掲出しない[12]。また『福井県史』も県域内の大名として記さない[13][14]
  5. ^ 長谷川守知を越前の大名とする『国史大事典』(1908年)の表には長谷川秀一の記載がない。
  6. ^ 『寛政譜』の岡野融成の記事によれば、守知は「豊臣秀頼の使」であったという[16]
  7. ^ 石田軍記』では、佐和山落城のきっかけとなった内通者を「長谷川右衛門」とし、「三成の侍」と記す[18]。「長谷川宇兵衛」と記されることもある[19]
  8. ^ 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」では元和3年(1617年)に新封とする[22]
  9. ^ 『寛政譜』には「太田郡」とあるが、朱印状の村名によれば島下郡であると編者の注釈がある。「太田郡」は戦国期から江戸初期の寛文年間まで用いられた郡名で、太田村(現在の大阪府茨木市太田付近)を本拠とした太田氏が自己の所領について私称したものという[23]
  10. ^ グレゴリオ暦換算では1633年1月6日になる。

出典

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  1. ^ a b 長谷川守知”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年6月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 『寛政重修諸家譜』巻第八百三十「長谷川」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.343
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『断家譜 第1巻』, p. 82.
  4. ^ a b 長谷川宗仁”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年6月14日閲覧。
  5. ^ 古事類苑 官位部十五”. 神宮司庁 (1905年). 2023年6月17日閲覧。
  6. ^ 小野清 (1899年). “大坂城誌 : 一名・浪華誌 下”. p. 590. 2023年6月15日閲覧。
  7. ^ a b 佐賀県 2023, p. 6.
  8. ^ 黒川真道 編 (1914年). “古今武家盛衰記 1 (国史叢書)”. p. 463. 2023年6月15日閲覧。
  9. ^ 『大阪府全志 巻之3』, p. 981.
  10. ^ 清田黙 (1891年). “徳川加封録・徳川除封録”. 鴎夢吟社. p. 除2之39. 2023年6月15日閲覧。
  11. ^ 八代国治・早川純三郎・井野辺茂雄 (1908年). “国史大事典”. 吉川弘文館. p. 1648. 2023年6月15日閲覧。
  12. ^ a b 『角川新版日本史辞典』, p. 1268.
  13. ^ 第一章>第三節>一 越前・若狭の大名配置>賎ケ嶽の戦い後”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2023年6月17日閲覧。
  14. ^ 第一章>第三節>一 越前・若狭の大名配置>慶長五年九月”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2023年6月17日閲覧。
  15. ^ 第一章>第三節>一 越前・若狭の大名配置>長谷川氏領の消滅”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2023年6月17日閲覧。
  16. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第五百八「岡野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.704、『新訂寛政重修諸家譜 8』p.317。
  17. ^ 斎木一馬・林亮勝『寛永諸家系図伝 6』、p.90。
  18. ^ 石田軍記・仙道軍記 (国史叢書)”. p. 269 (1914年). 2023年6月16日閲覧。
  19. ^ 埋蔵文化財活用ブックレット5 〈近江の城郭1〉佐和山城跡』滋賀県教育委員会、2010年、22, 26頁https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042770.pdf2023年6月16日閲覧 
  20. ^ 仕寄”. 精選版 日本国語大辞典. 2023年6月15日閲覧。
  21. ^ a b c 『大猷院殿御実紀』巻廿一・寛永九年十一月廿六日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第二編』p.269
  22. ^ 『角川新版日本史辞典』, p. 1311.
  23. ^ 太田郡(中世~近世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月14日閲覧。
  24. ^ 『大阪府全志 巻之3』, p. 977.
  25. ^ a b 『断家譜 第1巻』, pp. 82–83.
  26. ^ a b 『名古屋市史 人物編第一』 1934, p. 230.
  27. ^ 『名古屋市史 人物編第一』 1934, p. 229.
  28. ^ a b 『名古屋市史 人物編第一』 1934, p. 231.
  29. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九百三十九「蒔田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.942
  30. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第九百三十九「蒔田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』pp.945-946
  31. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第千百八十五「川勝」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第七輯』p.184
  32. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千百八十五「川勝」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第七輯』p.185
  33. ^ 山澤学「北野社祠官筆頭松梅院の定着と豊臣政権 : 『北野社家日記』禅昌記の考察」『歴史人類』第45号、筑波大学大学院人文社会ビジネス科学学術院、2017年、3頁、hdl:2241/00146491 
  34. ^ 中川仁喜「近世初期の北野社と南光坊天海-松梅院と宮仕の座配争論を中心に-」『大正大学大学院研究論集』第33号、2009年、1頁、NAID 120005536138 

参考文献

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