長崎県立長崎高等女学校
長崎県立長崎高等女学校(ながさきけんりつながさきこうとうじょがっこう)は、明治期、長崎県に設立された旧制の高等女学校。略称は「県女(けんじょ)」。
長崎県立長崎東高等学校と長崎県立長崎西高等学校の前身の1つ[1][2]であり、長崎県立大学(旧長崎県立女子短期大学)の源流。
概要
編集- 校訓
- 「誠實(誠実)、勤勉、質素、自治、敬愛」
- 誓詞
- 一. 聖勅を奉体して忠孝の大道を全うせん。
- 一. 誠実を首として校風を発揚せん。
- 一. 自治を重んじ協同の実を挙げん。
- 一. 思慮を正確にし感情を純潔にせん。
- 一. 身体を健全にし意志を鞏固にせん。
- 校章・校旗
- 当初「女」の文字をもとにしたマークが使用されていた。1922年(大正11年)3月9日に石河光哉(教諭)によって新しいタチバナの実をモチーフにした校章が制定。前のマークは閉校まで校旗で使用された。
沿革
編集- 1901年(明治34年)
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)4月1日 - 技芸専修科(修業年限2年)を設置。
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)10月6日 - 2階建て教室完成。
- 1907年(明治40年)
- 1912年(明治45年)4月1日 - 県内2校目の県立高等女学校の開校に伴い、「長崎県立長崎高等女学校」と改称。技芸専修科を廃止。
- 1915年(大正4年) - 家政館(1階割烹室、2階作法室)完成。
- 1916年(大正5年)4月 - 補習科を廃止。
- 1920年(大正9年)
- 運動場造成。
- 5月31日 - 裁縫研究科設置。
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 1926年(大正15年)
- 11月29日 - 校庭の西側にある高台をたちばな聖園と命名。
- 11月30日 - 校歌を制定。
- 1927年(昭和2年)6月1日 - 夏制服を改定。
- 1929年(昭和4年)3月26日 - 高等科を廃止。専攻科設置(3年制、240名、家政科・国文科・国文科予科[7])。
- 1930年(昭和5年)10月1日 - 近世ゴシック式鉄筋コンクリート造4階建て校舎が完成。
- 1932年(昭和7年)4月20日 - 家庭科二部(裁縫科)卒業生に中等学校教員裁縫科の資格が無試験で授与されるようになる。
- 1934年(昭和9年)10月10日 - 家庭科二部(家庭科)卒業生に中等学校教員家庭科の資格が無試験で授与されるようになる。
- 1935年(昭和10年)5月23日 - 国文科卒業生に中等学校教員国語科の資格が無試験で授与されるようになる。
- 1936年(昭和11年)
- 1938年(昭和13年)3月31日 - 国文科を廃止。
- 1940年(昭和15年)- 最初で最後の外地への修学旅行[9]を実施。当初中国を希望していたが、許可が下りず、満州への旅行となった。
- 1941年(昭和16年)9月 - 学友会(生徒会)解体。長崎高女報国隊結成(本科3年以上、専攻科全員)。
- 1943年(昭和18年)
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 5月 - 付設の保育所を「たちばな保育所」と改称。
- この年 - 女子専門学校への昇格運動が起こる。
- 1947年(昭和22年)
- 4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 10月 - 長崎県立女子専門学校の保健科を生活科に改称。
- 1948年(昭和23年)
- 閉校後
- 1948年(昭和23年)11月30日 - GHQ派遣のニブロ教育官勧告を受け、他3校[11]と統合・分離の上、「長崎県立長崎東高等学校」と「長崎県立長崎西高等学校」が開校。
- 西山校舎(旧・長崎県立長崎高等女学校)を長崎東高等学校の校地にあてる。
- 鳴滝校舎(旧・長崎県立長崎中学校)を長崎西高等学校の校地にあてる。
- 併設中学校は長崎県立長崎東・西高等学校併設中学校と改称し、桜馬場の長崎市立女子高等学校(現長崎市立桜馬場中学校)に移転[12]。
- 1949年(昭和24年)
- 3月31日 - 併設中学校が廃止される。付設のたちばな保育所を休園とする。
- 9月 - 長崎県立女子専門学校が西山校舎から鳴滝校舎(旧・長崎県立長崎中学校 跡地)に移転を完了。
- 1950年(昭和25年)3月14日 - 学制改革により、長崎県立女子専門学校が長崎県立女子短期大学となる。
- 1951年(昭和26年)3月31日 - 長崎県立女子専門学校が廃止される。
- 1976年(昭和51年)8月 - 長崎東高校の新校舎が立山(現在地)に完成し、全日制課程のみ移転。西山校舎は定時制課程が使用。
- 1980年(昭和55年)3月 - 定時制課程の廃止に伴い、西山校舎は使用されなくなる。
- 1981年(昭和56年)3月 - 西山校舎の解体工事を開始。
- 1984年(昭和59年)12月12日 - 長崎県立長崎高等女学校同窓会と長崎県立長崎東高等学校同窓会によって西山校舎の跡地に「校舎跡地公園」[13]を建立。
- 2000年(平成12年)
- 3月31日 - 長崎県立女子短期大学が閉学。組織は県立長崎シーボルト大学、校地は長崎県立鳴滝高等学校に継承される。
- 10月31日 - 創立100周年記念式典を長崎東高校で挙行。同窓会会員の高齢化により、同窓会を解散[4]。
歴代校長
編集( )内は前職, 就任~在任期間を表す。
- 初代 - 溝口鹿次郎 (東京府立第一高等女学校教諭, 1902年(明治35年)3月~8年間)
- 第2代 - 倉塚源太郎 (長崎県立五島中学校校長, 1910年(明治43年)3月~6年間)
- 第3代 - 大塚薫 (兵庫県立柏原中学校校長, 1916年(大正5年)3月~6年間)
- 第4代 - 宇野武男 (大阪府立清水谷高等女学校, 1922年(大正11年)4月~13年間)
- 第5代 - 牧秀賢 (長崎県立島原中学校校長, 1935年(昭和10年)4月~2年間)
- 第6代 - 唐仁原景盛 (長崎県立大村中学校校長, 1937年(昭和12年)8月~2年間)
- 第7代 - 梅田廣治 (長崎県立佐世保高等女学校校長, 1939年(昭和14年)4月~3年間)
- 第8代(最終)- 山本千里[14] (長崎県立諫早中学校校長, 1942年(昭和17年)3月~6年間)
生徒会活動・部活動
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生徒会活動は部活動を含め、「学友会」・「校友会」と呼ばれていた。
著名な出身者
編集脚注
編集- ^ 東高の沿革 - 長崎県立長崎東中学校・高等学校ウェブサイト
- ^ 長崎西高校の誕生と校風の樹立について - 長崎東高在京同窓会
- ^ 高木與作による。その功績をたたえて建立された高木與作翁頌善碑が「校舎跡地公園」内にある。
- ^ a b 支部を東京、京都、大阪、熊本、佐賀に置いていた。外地支部(支那、京城、台湾)もあったが、終戦に伴い解消。
- ^ 和服時代は筒袖の和服に海老茶色の袴、つま先割れの黒い靴下を着用。この海老茶色の袴によって、この当時の県立女学校の生徒は紫式部をもじって海老茶式部と呼ばれていた。
- ^ 夏服は「白ポプリン(約40番手ぐらいの単糸を使い、やや緯畝(よこうね)のある平織に織った織物)。黒碁盤柄ワンピース」、冬服は「ベルト付き上着(紺色サージ)、襞スカート(紺色サージ)」
- ^ 国文科専攻科に関しては5年制の高等女学校卒業が入学資格として規定されていたため、4年制であった長崎県立長崎高等女学校を卒業しただけでは国文科専攻科に進学することができなかった。これを解消するために予科(修業年限1年)を設置して国文科専攻科への進学を可能とした。
- ^ 白七分袖、グレーの袖に黒の細いリボン付きブラウス型にする。
- ^ 開校当初は温泉(うんぜん、雲仙)・島原への1泊2日の旅行であったが、次第に宿泊日数が長くなり、目的地も京都・伊勢・箱根といったように遠距離の場所になっていった。
- ^ 原爆で大きな被害を受け授業再開が困難であった活水女学校(現活水中学校・高等学校)が県立女学校の校舎を使用。2部授業を行う(午前が県立女学校、午後が活水女学校)。
- ^ 長崎県立長崎高等学校、長崎県立瓊浦高等学校、長崎市立女子高等学校
- ^ 一部の生徒は長崎市立片淵中学校に振り分けられた。(長崎市立片淵中学校の沿革史に西山中学校を統合するとの記述がある。)
- ^ 現在の長崎市立上長崎小学校の裏手にあり、普段は施錠してある。立ち入りには長崎東高等学校事務局への事前連絡が必要。
- ^ 長崎東高等学校初代校長も務めた。
参考文献
編集- 市制百年 長崎年表(1989年(平成元年)4月1日, 長崎市役所)
- 創立100周年記念並びに同窓会解散記念誌「たちばなの歩み100年」(2000年(平成12年)10月31日, 橘同窓会)
- 長崎の青春 旧制中学校・高等女学校の生活誌(著 - 塚野克己, 1998年(平成10年)2月19日出版, 長崎文献社)
- 長崎県立女子短期大学 記念誌(2000年(平成12年)3月10日発行)
- 長崎東高・西山校舎跡地を訪ねて - 長崎東高等学校在京同窓会ウェブサイト