長宗我部盛恒
長宗我部 盛恒(ちょうそかべ もりつね、? - 慶長20年(1615年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部盛親の長男(嫡男)。子は盛胤。長宗我部元親の孫。 豊臣氏の一門ではなく増田長盛を烏帽子親として元服し、「盛」の一字を授かって父は盛親と名乗ったことから、おそらく盛恒も父の「盛」をつけたと考えられる。それにより、豊臣政権下において長宗我部家の格付けは低かったとされる。
時代 | 安土桃山時代-江戸時代 |
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生誕 | 1586~1589年[1] |
死没 | 慶長20年(1615年) |
別名 | 右衛門太郎 |
官位 | 右衛門 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 長宗我部盛親→豊臣秀頼 |
氏族 | 長宗我部氏 |
父母 | 父:長宗我部盛親母:長宗我部信親の娘 |
兄弟 | 盛高、盛信、盛定、男子、女子(上野平太夫室) |
妻 | 不明 |
子 | 長宗我部盛胤 |
特記 事項 | 丸橋忠弥を兄弟とする説あり |
略歴
編集大坂冬の陣
編集大坂の陣の際、豊臣氏に与した父・長宗我部盛親から参戦要請があり、大坂城へ入り、豊臣方として戦った。 豊臣家重臣の木村重成、後藤基次とともに八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担った。 12月4日に真田丸の戦いが始まると、城内の火薬庫が爆発した事故を南条元忠の寝返りの合図と勘違いして押し寄せてきた井伊直孝隊・松平忠直隊に応戦し、大損害を与えて退却させた。
大坂夏の陣
編集大阪夏の陣では藤堂高虎を相手に、八尾の戦いで、猛反撃を受けた藤堂隊の先陣は一気に壊滅、盛親はなおも攻撃の手を緩めなかったため藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、高虎の甥の藤堂高刑など前線の将が一度に討ち死にする。統制が乱れた藤堂隊は高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となり勝利したが、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘(若江の戦い)で壊滅し、ほどなく井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつける。この報を受けた盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へ撤退した。 なお、盛親隊はこの八尾の合戦かその後退時に、大損害を受け実質壊滅したと考えられる。事実、翌日の天王寺・岡山の戦いでは盛親は大坂城に留まり、戦闘には参加しなかった。豊臣方は敗戦し、大坂城は落城した。
最期
編集京(現在の京都)の良峯(善峯)寺に隠れたが、捕らえられ、父らと共に伏見の豊後橋 [2] で斬首された。これにより、長宗我部氏嫡流は途絶えた。