蜂須賀至鎮
安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。阿波徳島藩初代藩主。従四位下阿波守。
蜂須賀 至鎮(はちすか よししげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。阿波国徳島藩の初代藩主。
蜂須賀至鎮像(徳島市立徳島城博物館蔵) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正14年1月2日(1586年2月20日) |
死没 | 元和6年2月26日(1620年3月29日) |
改名 | 千松丸(幼名)、至鎮 |
別名 | 豊雄、忠吉 |
戒名 | 峻徳院殿心岳義伝 |
墓所 | 徳島県徳島市下助任町の興源寺 |
官位 | 従四位下阿波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
藩 | 阿波徳島藩主 |
氏族 | 蜂須賀氏 |
父母 | 父:蜂須賀家政、母:慈光院 |
兄弟 | 至鎮、即心院、阿喜姫、実相院 |
妻 | 正室:敬台院 |
子 | 三保姫、忠英、正徳院 |
経歴
編集天正14年(1586年)、蜂須賀家政の長男として誕生。母は生駒家長の娘・慈光院。はじめ父と共に、豊臣秀吉の家臣として仕えた。
秀吉の死後、慶長5年(1600年)、徳川家康の養女で小笠原秀政の娘・氏姫(万姫・お虎、敬台院~家康にとって曾孫にあたる)を娶る。そのことから、同年の関ヶ原の戦いにおいて、秀吉の股肱の臣であった父・家政は病を理由に在国する中、至鎮は東軍に与して関ヶ原本戦に参加した。戦後、その功績により家康から所領を安堵されると共に、剃髪した父から家督を譲られ、阿波国徳島藩の藩主となった。慶長8年(1603年)3月25日、豊臣姓を下賜され[1]、豊臣豊雄名義にて従四位下阿波守に叙任。
大坂の陣では豊臣家を裏切り、徳川方として参戦し、武功を立てている。
慶長20年(1615年)1月11日、松平姓の家名を将軍家より下賜され[2]、同年閏6月4日、淡路国も加増され、25万7000石の所領となる。内政においては御壁書二十三箇条を制定し、撫養塩田の開発や非常時の食料の確保に努めるなど、名君として慕われた。
病弱であったとされ、元和6年(1620年)に父に先立って死去した。享年35。法名は峻徳院殿前阿州太守四品心嶽義傳大居士。 跡を長男・忠英が継いだ。
逸話
編集名君として知られる至鎮には、虚実の程は不明だが、多くの聡明さを示す逸話が残っている。
- 至鎮は、奥に控えて手持ち無沙汰になりがちの外出時のお供の役目に対し、家来を待たせることを嫌い、「町で遊んでこい」と言って自分の懐から小金を与えたため、金目当てに若い武士がこぞってついて行きたがった。これを知った他の領主は至鎮の人心掌握術に感心し、真似をするようになったという。
- 至鎮は多くの書を読み、民や部下を大事にした。また力を入れた事業に、後の藩政の礎となる藍の生産があり、藩を支える吉野川治水事業と塩田開発を率先して行った。特に晩年の吉野川の治水事業には自ら書を持ち、指揮を取ったという。
- 至鎮は病弱ではあったが、関ヶ原の戦いにおいて、消極的だった父・家政を叱責し、素早く家康に馳せ参じ武功を多く挙げた。大坂の陣においても、西軍参加を促す密書に応じて大坂入城を志そうとする父を説得し、家康に密書を提出させるに至り、自身は木津川口の戦い・博労淵の戦いなどで多くの武功を挙げた。
系譜
編集脚注
編集関連文献
編集- 『峻徳公略伝』蜂須賀家、1919年。 NCID BA46911815。