鈴木華邨

1860-1919, 明治~大正の日本画家

鈴木 華邨(すずき かそん、安政7年1月2日[1]1860年1月24日) / 2月7日[2][3]2月28日)/ 2月17日[4][5]3月9日) - 大正8年(1919年1月3日[1][2][3][4][5])は、明治から大正にかけて活躍した日本画家。名は茂雄、通称は惣太郎[1]。華邨は号で、しばしば華村とも表記される。別号として「魚友」、「忍青」を用いた[1][5]。はじめ容斎派の人物画を学んだが、のちに四条派から土佐派浮世絵の要素を加えた独自の画法を立ち上げ、特に花鳥画に優れた。20世紀初頭ヨーロッパで北斎以来の日本画家とされ、もっとも知られた日本画家と称された。小林一三が評価していたため、大阪府池田市の逸翁美術館にまとまって収蔵されている。

鈴木華邨
生誕 鈴木惣太郎
1860年1月24日
または同年2月28日
または同年3月9日
江戸下谷池之端茅町
死没 (1919-01-03) 1919年1月3日(58歳没)
東京市雑司が谷
国籍 日本の旗 日本
教育 菊池容斎
著名な実績 日本画木版画挿絵、縮緬本
後援者 小林一三
影響を与えた
芸術家
小原古邨池田蕉園

略伝

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安政7年、江戸下谷池之端茅町に加賀藩出入りの呉服商 「武蔵屋」を営む父・鈴木清次郎と母・もとの長男として生まれる[2][3]。本名は惣太郎[2][4][5]。明治7年(1874年)に14歳で菊池容斎門下の高弟中島亨斎に師事した[2][3]。のちには容斎本人に入門して「華邨」の号を授けられた[2][3]。また、四條派花鳥画土佐派浮世絵も模範としてこれらの長所を受け入れて独自の画風を築いた[1][2][5]。明治8年(1875年)にフィラデルフィア博覧会事務局図画係に傭われ、明治9年(1876年)には勧業寮編輯係を務めた。翌明治10年(1877年)、起立工商会社へ入社して図案係として働き、陶磁器漆器などの図案を作成した[2][3][4][5]

同明治10年には第1回内国勧業博覧会に 「金髹図案」 を出品し、花紋賞メダルを受賞する[2]。明治14年(1887年)の第2回内国勧業博覧会にも 「群亀図」 を出品し褒状を受ける。その後は画業に専念し、明治16年(1883年)の龍池会主催の第2回パリ日本美術縦覧会において選抜揮毫者として指名を受けた。明治17年(1884年)に 「大船碇泊ノ図」 を出品、明治19年(1886年)4月には鑑画会第二回大会に 「山水」 を出品し受賞した。

明治20年(1887年)ごろから単行本雑誌の口絵・挿絵に健筆を振るい、明治22年(1889年)に『新小説』第一巻第一号の表紙を任される。同年、親交のあった石川県立工業学校(現・石川県立工業高等学校)校長・納富介次郎に招かれ、同校の絵画と図案意匠を担当する教諭に就任した[2][3]。華邨は明治26年(1893年)まで在職し、写実を重んじる画風で後進の育成に努めた。

明治31年(1898年)に梶田半古松本楓湖らとともに日本画会の結成に参加し、同年の日本美術院創設にあたっては評議員となり、共進会の審査員を勤めた。明治33年(1900年)のパリ万国博覧会に 「山水」 「雪中鷹狩」 「月下魚網」 を出品し銅牌を受賞した。明治34年(1901年)春の院展第5回で 「牡丹睡猫」 が銀賞、翌明治35年(1902年)春の第7回では 「布袋」 が銀牌を受賞した。「花鳥画の華邨」と呼ばれるようになり、高い評価を得ることとなる[2][3]

明治39年(1906年)1月、小林一三らが15名で華邨、寺崎広業川合玉堂を後援する鼎会を発足する。また明治40年(1907年)の第1回文展に 「平和」 を出品し、三等賞を受けた[1][2]。明治41年(1908年)には巽画会の審査員となる。明治42年(1909年)の第3回文展では「秋風」「群鴨」で褒賞を受けた[1][2]。明治43年(1910年)の日英博覧会に 「雨中渡舟五図」 を出品し、金牌を受賞した[1][2]。また、日本美術協会国画玉成会、美術研精会の会員としても参加した[2]

大正期に入ると徐々に展覧会などから離れる様になった[3]。大正8年(1919年)1月3日、東京市雑司が谷の自宅で肺炎療養中に腹膜炎を併発し死去した。法名は清廉院華邨永豊居士。墓所は港区三田の宝生院[2]。趣味は釣りで旅先では常々釣りを楽しんだという[3]

文展や博覧会での入賞の他、尾崎紅葉作『なにがし』『不言不語』の挿画、幸田露伴作『新羽衣物語』『小萩集』の口絵、『天うつ浪』の第三口絵、泉鏡花作 『錦帯記』『照葉狂言』の口絵など書籍の口絵や挿絵を手がけた[1][5]。また、『文芸倶楽部』では木版口絵を受け持ち、春陽堂出版作とも深く関わった[2]。門下の梶田半古とは最も親しく、長男光雲を弟子入りさせている。

作品

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肉筆画

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「野笹兎」(左)と「稲双鶏」(右)、明治20年代
  • 竹梅図屏風」 絹本金地著色、2曲1双、石川県立美術館
  • 桃鶏図」 絹本著色、石川県立美術館
  • 「雨中五位鷺」 絹本墨画淡彩 青梅市立美術館 明治後期
  • 鷲猿図」 絹本墨画淡彩、ボストン美術館、明治31年(1898年
  • 鵞鳥」 絹本淡彩 ボストン美術館
  • 「玉堂富貴」 絹本著色 川越市山崎美術館 明治末期
  • 「秋郊野鶏図」 絹本著色 三の丸尚蔵館 明治43年(1910年
  • 「群鳩図」 絹本著色、逸翁美術館
  • 「木枯」 絹本著色、逸翁美術館
  • 「春暖」 絹本著色、逸翁美術館
  • 「ほろ酔い」 絹本著色、逸翁美術館
  • 「瀑布群猿図」 絹本著色、逸翁美術館 明治23年(1890年
  • 「月杜鵑之図」 絹本著色、逸翁美術館 明治35年(1902年
  • 「菜花狗児図」 絹本著色、逸翁美術館 明治39年(1906年
  • 「月下兎図」 絹本著色、逸翁美術館 明治39年(1906年
  • 「鴛鴦図」 絹本著色、逸翁美術館
  • 「はぜに小禽図」 絹本著色、逸翁美術館
   
六曲一双屏風、明治39年

木版画

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縮緬本

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縮緬本[6]ギャラリー

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i “鈴木 華邨”, 20世紀日本人名事典, 日外アソシエーツ, (2004), https://archive.fo/g8CxO 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 鈴木華邨(すずき・かそん)” (PDF). 近代版画家名覧(1900-1945). 版画堂. p. 70. 2021年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月26日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 幻の天才画家 鈴木華邨展 ―甦る花鳥風月の世界―”. 逸翁美術館. 阪急文化財団. 2022年1月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月26日閲覧。
  4. ^ a b c d “鈴木華邨 すずき-かそん”, デジタル版 日本人名大辞典+Plus, 講談社, (2015), https://archive.is/vFhnW 
  5. ^ a b c d e f g 村松(2001年)43頁
  6. ^ 『縮緬本』 - コトバンク

参考文献

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  • 樋田豊次郎 『明治の輸出工芸図案 ――起立工商会社工芸下図集』 京都書院、1987年 ISBN 978-4-7636-2037-8 (1998年に京都書院アーツコレクションより『日本文様図集 明治の輸出工芸図案 ――起立工商会社の歴史』の題で文庫化、ISBN 978-4-7636-1713-2
  • 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史 第一巻 上』 日本美術院、1989年
  • 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史 第二巻 上』 日本美術院、1990年
  • 村松定史異文化交流のひとこま--ヴェルハーレンと縮緬本」『研究紀要』第8号、東京成徳大学、2001年、41-54頁、ISSN 1340-3702NCID AA12199311全国書誌番号:000982192022年1月26日閲覧 
図録
事典
  • 稲村徹元 井門寛 丸山信 共編 『大正過去帳 物故人名辞典』 東京美術、1973年
  • 『書画・骨董 人名大辞典』 金園社、1975年、p456
  • 『日本近代文学大事典 第2巻』 1977年、講談社、p226
  • 『近代日本美術事典』 講談社、1989年、p195
  • 『美術・デザイン賞事典』 日外アソシエーツ、1990年
  • 『美術家索引 日本・東洋編』 日外アソシエーツ、1991年
  • 『日本美術作品レファレンス事典 絵画編 近現代』 日外アソシエーツ、1992年、p857

外部リンク

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