重藤千秋
重藤 千秋(しげとう ちあき、1885年(明治18年)1月31日[1][2] - 1942年(昭和17年)7月26日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。満州事変における工作者の1人[要出典]。
重藤 千秋 | |
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生誕 |
1885年1月31日 日本 福岡県 |
死没 | 1942年7月26日(57歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1906 - 1938 |
最終階級 | 陸軍中将 |
生涯
編集福岡県生まれ[1][2][3]。豊津中学校卒を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(18期)を卒業[1][4]。1906年(明治39年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる[1][4]。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業し歩兵第53連隊中隊長に就任[1][3]。
1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、同年7月から9月まで外蒙古旅行を実施[1]。同年12月、参謀本部員に異動し、1922年(大正11年)2月、歩兵少佐に昇進[1]。1923年(大正12年)4月、支那公使館付武官補佐官に就任し、参謀本部付仰付(広東)を経て、1925年(大正14年)8月、歩兵中佐に進級し歩兵第33連隊付となる[1]。以後、参謀本部員、参謀本部付仰付(上海駐在)を務め、1930年(昭和5年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部支那課長に着任[1][3]。満州事変前後、政商として知られた藤田勇から資金を出させ、関東軍を直接操作したといわれている[要出典]。
1932年(昭和7年)1月、歩兵第76連隊長に転じ、第11師団参謀長を経て、1935年(昭和10年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第11旅団長に就任[1][2][3]。1937年(昭和12年)8月に台湾守備隊司令官に就任し[3]、翌月、重藤支隊長として中国に出征[1][2]。1938年(昭和13年)1月、第10師団司令部付となり、同年3月、陸軍中将に進み、同月、予備役に編入[1][2][3]。1939年(昭和14年)3月から1940年(昭和15年)10月まで満州労工協会理事長を務めた[1]。
親族
編集- 弟 重藤憲文(陸軍少将)