第10師団 (日本軍)
第10師団(だいじゅうしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。師団として主な戦役にはほぼすべて参加している。
第10師団 | |
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旧第十師団兵器部西倉庫 (現姫路市立美術館) | |
創設 | 1898年(明治31年)10月1日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 |
兵庫県姫路市→ 満洲→ 華北→ フィリピン |
編成地 | 兵庫県姫路市 |
通称号/略称 | 鉄 |
補充担任 | 第10師管・姫路師管 |
最終上級単位 | 第14方面軍 |
最終位置 |
フィリピンルソン島マリコ (現・ フィリピン共和国ヌエヴァ・ヴィスカヤ州) |
戦歴 |
日露戦争 [遼陽会戦/奉天会戦] 満洲事変 [山東出兵/北伐軍掃討戦] 日中戦争(第二次世界大戦) [徐州会戦/武漢作戦] 大東亜戦争(第二次世界大戦) [パルチザン掃討/ルソン島の戦い] |
概要
編集日清戦争が終り、軍備拡張の必要性から新たに増設された6個師団の一つで、1898年(明治31年)10月に編成された。同年11月13日に師団司令部、監督部が開庁した[1]。補充担任は第10師管で、近畿地方の西部と中国地方の東部にまたがり、時期により変動がある。日露戦争(沙河会戦など)、フィリピン防衛戦などでは歩兵第39連隊をはじめ、得意な白兵戦、ゲリラ戦で奮戦した。
なお、本師団の隷下には中部第76部隊こと教化隊が存在し、全国から犯罪傾向の強い兵士が集められていた。
日露戦争
編集大陸戦線
編集1927年(昭和2年)5月、田中義一内閣は閣議で済南や膠済鉄道沿線の居留民保護を決定。北京政府を掌握していた張作霖軍と、蒋介石率いる北伐軍が日本人居留民の多い済南付近で衝突する惧れがあった。派遣部隊は、その時点での関東軍の満州駐屯部隊駐劄師団であった第10師団隷下の歩兵第33旅団で編成された[2]。
1931年(昭和6年)9月に満洲事変勃発後、第8混成旅団を編制し12月に出動し吉林省で掃討戦を実施後、1934年(昭和9年)3月に帰国した。
日中戦争
編集1937年(昭和12年)7月日中戦争に動員される。台児荘の戦い・徐州会戦・武漢攻略戦に参加し、1939年(昭和14年)10月帰国、この間に師団の改編が実施され鳥取の歩兵第40連隊が第25師団に異動、3単位制師団となり、1940年(昭和15年)8月から満洲に駐留する。日中戦争では徐州会戦はじめ、第10師団は広島の第5師団などと共に奮戦し功績を残す。
太平洋戦争
編集太平洋戦争開戦後には関東軍の直属兵団として、満洲帝國三江省佳木斯市(現・中華人民共和国黒竜江省)に駐屯していた。満洲国内にて対ソ戦の訓練を積む一方で、治安維持活動に従事。後に北朝鮮の最高指導者となる金成柱(日成)が在籍した東北抗日聯軍などの抗日パルチザンと対峙していた。
1944年(昭和19年)2月から師団の一部が米軍の進行に備えるため太平洋方面に配置され、同年7月には師団主力も南方派遣が決定された。当初は、台湾に配される予定であったが風雲急を告げるフィリピンルソン島に投入、尚武集団としてバレテ峠、サラクサク峠で約半年に渡る持久戦を展開、衆寡敵せず壊滅状態となり、そのまま終戦を迎える。ただ、第10師団の所属部隊である歩兵第39連隊は、建武集団として奮戦した。
歴代師団長
編集- 伏見宮貞愛親王 中将:1898年(明治31年)10月1日 -
- 川村景明 中将:1901年(明治34年)4月2日 -
- 安東貞美 中将:1905年(明治38年)1月15日 - 1910年8月26日
- 小泉正保 中将:1910年(明治43年)8月26日 - 1912年2月14日
- 松川敏胤 少将:1912年(明治45年)2月14日 - 1914年8月8日
- 山口勝 中将:1914年(大正3年)8月8日 - 1916年8月18日
- 尾野実信 中将:1916年(大正5年)8月18日 -
- 金久保万吉 中将:1918年(大正7年)8月9日 -
- 宇垣一成 中将:1921年(大正10年)3月11日 -
- 神頭勝弥 中将:1922年(大正11年)5月13日 -
- 福原佳哉 中将:1924年(大正13年)2月4日 -
- 長谷川直敏 中将:1926年(大正15年)3月2日 -
- 本庄繁 中将:1928年(昭和3年)2月29日 -
- 広瀬寿助 中将:1931年(昭和6年)8月1日 -
- 建川美次 中将:1934年(昭和9年)6月28日 -
- 松浦淳六郎 中将:1935年(昭和10年)12月2日 -
- 磯谷廉介 中将:1937年(昭和12年)3月1日 -
- 篠塚義男 中将:1938年(昭和13年)6月18日 -
- 佐々木到一 中将:1939年(昭和14年)9月7日 -
- 十川次郎 中将:1941年(昭和16年)3月1日 -
- 岡本保之 中将:1944年(昭和19年)1月17日 -
歴代参謀長
編集- 宇佐川一正 歩兵大佐:1898年(明治31年)10月1日 - 1899年8月12日[3]
- 仙波太郎 歩兵大佐:1899年(明治32年)8月12日 - 1901年2月9日[4]
- 神尾光臣 歩兵大佐:1901年(明治34年)2月9日 - 1902年5月5日[5]
- 恒吉忠道 歩兵中佐:1902年(明治35年)5月5日 - 1903年3月21日[6]
- 黒沢源三郎 歩兵中佐:1903年(明治36年)3月21日 - 1905年3月1日[7]
- 蠣崎富三郎 歩兵大佐:1905年(明治38年)3月1日 - 1907年11月13日[8]
- 金久保万吉 歩兵中佐:1907年(明治40年)11月13日 - 1911年9月9日[9]
- 石光真臣 砲兵大佐:1911年(明治44年)9月9日 - 1913年8月22日[10]
- 小田切政純 歩兵大佐:1913年(大正2年)8月22日 - 1914年8月8日[11]
- 柚原完蔵 歩兵大佐:1914年(大正3年)8月8日 - 1917年8月6日[12]
- 長谷川直敏 歩兵大佐:1917年(大正6年)8月6日 - 1920年5月12日[13]
- 室兼次 砲兵大佐:1920年(大正9年)5月12日 - 1923年8月6日[14]
- 森連 歩兵大佐:1923年(大正12年)8月6日 - 1924年12月15日[15]
- 武藤一彦 騎兵大佐:1924年(大正13年)12月15日 - 1929年8月1日[16]
- 大浜石太郎 歩兵大佐:1929年(昭和4年)8月1日[17] - 1930年12月22日[18]
- 平野博 歩兵大佐:1930年(昭和5年)12月22日 - 1932年8月8日[19]
- 加納豊寿 歩兵大佐:1932年(昭和7年)8月8日 - 1935年3月15日[20]
- 秋山義兌 歩兵大佐:1935年(昭和10年)3月15日 - 1937年3月1日[21]
- 梅村篤郎 歩兵大佐:1937年(昭和12年)3月1日 - 1938年3月1日[22]
- 堤不夾貴 歩兵大佐:1938年(昭和13年)3月1日 - 1939年8月1日[23]
- 千知波幸二 歩兵大佐:1939年(昭和14年)8月1日 - 1941年10月15日[24]
- 土屋栄 大佐:1941年(昭和16年)10月15日 - 終戦[25]
最終所属部隊
編集脚注
編集- ^ 『官報』第4614号(明治31年11月15日)、第4616号(明治31年11月17日)。
- ^ 及川琢英『関東軍ー満州支配への独走と崩壊』中公新書、2023年5月25日、93ー94頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』35頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』55頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』37頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』66頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』65-66頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』69頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』84頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』93頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』98頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』107頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』120頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』141-142頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』158頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』177-178頁。
- ^ 『官報』第778号、昭和4年8月2日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』201頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』210頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』233頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』255頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』282頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』315頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』359頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』434頁。
参考文献
編集- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。