小泉正保
日本の陸軍軍人
小泉 正保(こいずみ まさやす、1855年4月29日(安政2年3月13日) - 1917年(大正6年)10月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
編集水戸藩士・小泉正誠の長男として生まれる。警視庁巡査を経て、1875年(明治8年)12月、陸軍士官学校に入学。1877年(明治10年)3月、征討軍団付となり西南戦争に出征。少尉試補を経て、1877年7月、歩兵少尉に任官し、同年12月、陸士(旧1期)を卒業した。
1878年(明治11年)1月、近衛歩兵第1連隊付となり、参謀本部出仕・清国差遣(漢口・北京駐在)、安南出張、清国公使館付、歩兵第1連隊中隊長などを歴任。
1889年(明治22年)10月、屯田兵副官に発令され、屯田兵参謀、屯田歩兵第4大隊長、根室大隊区司令官、根室連隊区司令官を歴任し、1896年(明治29年)5月、歩兵中佐に昇進した。
1897年(明治30年)10月、歩兵第10連隊長に就任し、同年12月、歩兵大佐に進級。第5師団参謀長、第7師団参謀長を歴任し、1903年(明治36年)7月、陸軍少将に昇進し歩兵第24旅団長に就任。日露戦争に出征し、遼陽会戦、沙河会戦に参戦。旅順攻囲戦後、第3軍参謀長に異動するが、1905年(明治38年)1月、移動中の事故により重傷を負い、松永正敏少将に職が引き継がれた。
1906年(明治39年)2月、歩兵第6旅団長に就任し、台湾第1守備隊司令官を経て、1910年(明治43年)8月、陸軍中将に進み第10師団長に親補された。次いで、第8師団長に転じ、1914年(大正3年)5月に待命、同年8月、予備役に編入となった。
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1891年(明治24年)12月28日 - 従六位[1]
- 1895年(明治28年)7月15日 - 正六位[2]
- 1898年(明治31年)3月30日 - 従五位[3]
- 1903年(明治36年)6月10日 - 正五位[4]
- 1908年(明治41年)7月10日 - 従四位[5]
- 1910年(明治43年)12月27日 - 正四位[6]
- 1914年(大正3年)
- 勲章
- 1885年(明治18年)4月7日 - 勲五等双光旭日章[9]
- 1893年(明治26年)5月26日 - 勲四等瑞宝章[10]
- 1895年(明治28年)12月14日 - 勲三等旭日中綬章[11]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[12]
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲一等瑞宝章[13]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[14]
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3613号「叙任及辞令」1895年7月16日。
- ^ 『官報』第4421号「叙任及辞令」1898年3月31日。
- ^ 『官報』第5981号「叙任及辞令」1903年6月11日。
- ^ 『官報』第7512号「叙任及辞令」1908年7月11日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第442号「叙任及辞令」1914年1月21日。
- ^ 『官報』第627号「叙任及辞令」1914年9月2日。
- ^ 『官報』第535号「賞勲叙任」1885年4月17日。
- ^ 『官報』第2974号「叙任及辞令」1893年5月31日。
- ^ 『官報』第3741号「叙任及辞令」1895年12月16日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2591号「叙任及辞令」1892年2月23日。
- ^ 『官報』第8371号「叙任及辞令」1911年5月20日。