里村紹巴

戦国時代の日本の連歌師

里村 紹巴(さとむら じょうは、大永5年〈1525年〉- 慶長7年4月12日1602年6月2日〉)は、戦国時代連歌師。里村姓は後世の呼称であり、本姓は松井氏ともいわれる。号は臨江斎・宝珠庵。奈良の生れ。長男に里村玄仍、次男に里村玄仲、娘婿に里村昌叱

里村紹巴像(東京国立博物館蔵)

略歴

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連歌を周桂(しゅうけい)に学び、周桂の死後、里村昌休につき、のち里村家を継いだ。その後公家三条西公条をはじめ、織田信長明智光秀豊臣秀吉三好長慶細川幽斎島津義久最上義光など多数の武将とも交流を持ち、天正10年(1582年)、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名である。本能寺の変後には豊臣秀吉に疑われるも難を逃れた。

40歳のとき宗養の死で連歌界の第一人者となるが、文禄4年(1595年)の豊臣秀次事件に連座して近江国園城寺(三井寺)の前に蟄居させられた。連歌の円滑な進行を重んじ連歌論書『連歌至宝抄』を著したほか、式目書・式目辞典・古典注釈書などの著作も多く、『源氏物語』の注釈書『紹巴抄』、『狭衣物語』の注釈書『下紐』などが現存している。近衛稙家古今伝授をうけた。門弟には松永貞徳などがいる。

紹巴は豊臣秀吉が帰依していた高野山の木食応其と親交が深く、また最上義光の連歌師、一花堂乗阿など時宗の僧とも交流があり、後に里村家からは宝永5年(1707年)に時宗遊行上人を継承した遊行48代賦国(ふこく)が出た。里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導した。紹巴の子孫が里村本家(北家)と呼ばれ、娘婿の里村昌叱の子孫が里村南家と呼ばれた。

逸話

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  • 辻斬りに遭遇したが、逆に刀を奪い取って追い払ったことがあり、これを信長に賞賛された、と、弟子の貞徳が伝えている。
  • 本来は松井氏であるとされるが、師に当たる里村昌休の家を継承した。昌休が残した子を養育し、のちに自身の娘婿とした。この子が南家初代の昌叱である。

紹巴織

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着物や帯に使われる西陣織等の生地の名物裂の一つで、里村紹把が所持していた事からこの名がついたといわれる。経、緯ともに強撚糸を用いて、細かい横の杉綾文や山形文状の地紋を出し、幾何学模様のほかに、花や唐子が遊んでいる様子を文様化したものもある [1]

関連書籍

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紹巴を主人公とした作品

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外部リンク

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脚注

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